惨憺 03
瞼から強烈な重みを感じ始めたころから僕の記憶はない。
急激に肌寒くなったことで僕は一瞬覚醒状態に陥り、現状を把握した。
目の前には閉じられたノートや教科書、乱雑に散らばったシャーペンの芯は・・・・・・・・諦めよう。
日中の暖かさから半袖長ズボンという格好でいた僕を今は全力で褒めちぎることが出来た。
なんせ、そうでもしないとこの肌寒さで目を覚ますことは不可能だったんだから。
現在の時刻は16時42分。
約束の時間は目前に迫っていた。
ギリギリセーフと安堵するのと同時に、このまま約束をすっぽかせば今感じているストレスも雲散霧消するのかなぁとか思ったりもする。
起きられたことに喜びつつも、少しの後悔が混じった今のこの気持ちは、まさに昼間の明るさも夜の暗さも持ち合わせていない中途半端な現在の外の暗がりと言えばわかりやすいのだろうか。
・・・・なんだか余計にわかりづらくなった気もする。
日が落ちる速さにも慣れてきたというか、何とも感じなくなった今日この頃。
うすら寒い外から、うさん臭い人間が僕の家へ向かっている。
って別になにもどこにもかかってないなこれ。
知らない人間を待つのは初めてだから少し緊張する。
昔のお見合いってのはこんな感じだったのかなと物思いに耽ってみてもやっぱり無理だ。
どう取り繕ってもこの緊張感はぬぐえない。
むしろこの緊張感は、唯一進化の過程で消え去らなかった最低限の生物としての名残なのかもしれない。
曲がりなりにも僕たち人間の先祖は野生に生まれ、野生を生き抜いてきた。
その残滓なのだと思えば仕方ないと諦めはつく・・・・だけである。
あぁそういえばあの時間はあいつも来る頃だったな。
そんな何でもないことを考えている、言い換えれば油断したその瞬間を狙ったかのようなタイミングでチャイムの音が家中に響いた。
時刻は17時00分00秒。
本当にきっちりこの時間だった。
残された猶予はあとどれくらいだろうなんて、余裕ぶった態度をとりながら時計を確認した刹那だったからはっきりと断言できる。
秒針が12の文字盤を、カチッという音とともに合わさった瞬間が見えた。
わざわざそんなタイミングで時計を見ていた僕にも驚いたが、何よりも気持ちの悪いほどに正確な、むしろこの時間になるのを待ち構えていたかのようにぴったり来た訪問者に心底寒気がした。
まるで背後から銃口を突き付けられているようなそんな気さえする。
これから対峙するときは間違いなく正面に立つはずなのになぁ、と冗談めかしてみても拭えない程に悪寒が走る。
だけれど僕の足はゆっくりと廊下を渡り、ゆっくりと階段を下りていくのだった。
僕の階段を下りる音を聞いてか、訪問者は何度も呼び鈴を押すことはなかった。
やはりこの家はよく響く。
ゆっくりとなるべく時間をかけた僕の歩みは自分で思っているほど時間を稼げていないのかもしれない。
そしてやはり神様はいないんだと悟る。
・・・・・・・・はぁ。
そうしているうちにいつの間にか、というかすぐに玄関扉の前にたどり着いた。
僕と訪問者とを隔てる壁はこの扉ただ1枚なんだなと、言わずともわかるような感想をとりあえず思う。
ここで部屋に戻ることだって出来る。
今すぐ布団の中に潜り込むことだってできる。
だけど、でも、これは僕が撒いた餌で、僕が願った展開で、まるで嘘のような現実だった。
僕が経験してきた、そして今もなお続投中の『惨憺』な境遇下では到底手に入れられないような幸運を僕は自分の手でつかみ取ったんだ。
時間はかかったけど、こうして実になって僕のもとに。
なら、逃げるわけにはいかないよな。
僕は『希望』を願って玄関の重い扉を開け放った。
『バチン!』
その瞬間、僕の目の前に現れたのは『希望』でもなんでもなく・・・・・・・・僕に向けられた明確な暴力。
手のひらの皺が見える間もなく僕の頬に向けられたそれは、勢いそのままにたどり着き、重力加速度とか空気抵抗なんかの分かりにくいそれらをまるで無視したような速さと強さで叩きつけられた。
悪霊退散?鉄拳制裁?
冬の寒さにさらされた僕の頬は痛覚を増している。
だけどそんな痛覚を、恐怖を、人間というのは面白いものでそれらを吹っ飛ばすほど現状に困惑し、理解に苦しんだ。
まぁ、理解しようとしていること自体異常で、僕は痛みに慣れすぎているような気もするけれど。
そして僕は彼女の言っていることに耳を傾ける。
だけれど、どうやら耳が正常に機能していないらしい。
というのも分かったが、同時に彼女が何も言わずただ口をパクパクとし僕を貶していることも分かった。
つまりそれは、彼女が計画的に僕の耳の鼓膜を潰しに来ていたことが伺えた。
丁寧にケアされているであろうことは、薄暗いこの冬空の下でもわかるほどの黒髪は後ろで1つにまとめられている。
猛禽類のような鋭い瞳は僕を値踏みするかのようにぎらつき、その瞳は僕だけを映し出していた。
まるで私の瞳で今一度自分自身を見直せと言わんばかりに僕を、醜い僕をそこに投影していた。
僕を貶し終えた口は真一文字に閉じられているが、もうじき開かれることが分かるほどにやる気に満ち溢れている。
僕は彼女の瞳から目を離す。
彼女の身に纏う制服には見覚えがあった。
紺色のセーラー服の襟には3本の白いラインがあしらわれている。
そんな落ち着いた印象のセーラー服には、白磁のように白いリボンが縫い付けられている。
まるでどこかの宗教が1枚嚙んでいることをうかがえるようなデザインであるが、あの高校は税金で建てられた公立高校であるため宗教の絡みがあるはずもない。
そう、ここの制服はただ単にダサイだけであり、そしてダサいが故に有名であり、そして偏差値が圧倒的に高い進学校であることでも有名だった。
しかし、僕が時々窓から目にするあのダサイセーラー服とは少し違った部分もある。
彼女の身に纏うセーラー服の左腕の部分には、彼女の通うあの高校の校章が乱雑ににそしてあからさまに目立つような大きさで縫い付けられていた。
先ほど僕の頬を叩いた手のひらは、おそらく定位置であるスカートの側に静止していた。
何もなかったかのように平然と。
・・・・変態!と言ってやりたかったがタイムオーバーみたいだ。
彼女の整った呼吸音と僕の荒い呼吸音が僕の耳を駆け抜ける。
どうやら始まるみたいだ。
『惨憺』で壮絶な初めてのお説教が。
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