第31話 黒風の神様

「は?」

 アガサは不意な答えに思わず素っ頓狂な声を挙げた。ノックスはアガサを包み込むように微笑んだ。


「エラリーの遺伝子を宿した君の知識と考察は非常に素晴らしい。

 けれど、それはこの世界に留まっている。『一斑いっぱんを見て全豹ぜんぴょうぼくす』さ」


「どういう意味よ?」

「『世界』と『この世界』は同義ではない。この世界は世界の一部でしかないということだ。

 言っただろう? 僕は神を知っている。神の御心と、神の願いを」

 ノックスから薄ら笑みが消えた。



「舞い降りた者は人間に近づく、と君は言ったね。それは否めない事実だ。だとしたら、僕もまた君達のように進化しているとしたら?」

 ノックスはアガサの後ろに目を向けた。

「エラリーを見てごらん」


 アガサは言われるがままに振り返った。

 エラリーの顔色が明らかに悪い。先程からずっと苦しそうにしている。殴られた傷は痛々しいが、それよりも体中に帯びた蕁麻疹じんましんが異常であった。

「エラリー?」



 ノックスは構わず語り出した。

「エラリーは僕の力を吸収する。それが他にない特殊能力だ。確かに『以前の』僕ならエラリーを倒すすべは無かったに等しい。物理的になら可能だが」


 ノックスはエラリーの目を見つめた。

「さてエラリー、僕は今から目の前の彼女を消す風を放つ。君はかばうことが出来るかい?」

 ノックスはおもむろに右手を挙げた。


 エラリーは顔を上げ、痛みにもだえながらも立ち上がった。

「エラリー、ちょっと待って!」

 アガサはエラリーの体を支えた。

「落ち着いて!」

「どうだい、エラリー」とノックスは再び薄ら笑う。

「何か企んでる! 挑発に乗らないで!」

 アガサはエラリーを必死に止めた。

「彼女は再び風を弾くことが出来るかな? 君はどう思う?」

 ノックスは黒い右手を振った。風は舞い踊る。『黒い風』はアガサに向かって吹きすさんだ。



 エラリーは考える猶予も持たず力を振り絞り、アガサの前に立ち塞がってそれを体に吸収した。

 すると、エラリーは体を痙攣けいれんさせた。

「がはっ!」

 エラリーは大量の血を吐いた。

「エラリー!」

 エラリーは膝をつき、四つん這いで青白い顔を歪めた。


「何が……起きたの?」

 ノックスがエラリーを凛冽りんれつと眺めていた。



「今の風には、人間を消す微粒子の他に、別の抗原βが含まれている。僕の風に抵抗を持つ者は、それを外膜で弾くが、君はそれを体内へ吸収する。


 エラリー、君のその吸収する能力が勝手にその抗原をも吸収するんだ。この抗原は大したものではない。別に何だっていい。ところが君の体は勝手に抗体を作り出している。


 君は一度僕の爆発を吸収した時に不快感を覚えたろう? 僕が生まれ変わった時のだ。そして今、君は再び僕の風を吸収した。君の体は過剰な拒絶反応を示している。アナフィラキシーショックだよ」


 ノックスはゆっくりとエラリーへ歩みを進めた。

「吸収するという君しか持たない能力が、君のあだとなったんだ」



 ノックスはエラリー目の前に立って見下ろした。エラリーは体を小刻みに震わせ、それでもノックスの腕を掴んだ。

 ノックスは冷静にたたずんでいる。

「何をするつもりだ? 前のように僕の生気を吸い取るつもりか? よせ、死を早めるだけだ」

 それでもエラリーは離さない。

「愚かしい」


 ノックスはエラリーの首根っこを掴んだ。手に恐ろしいほどに力がこもった。

「子が父を越えられると思うな!」



 ノックスは体から黒い煙を発散した。

 煙はエラリーの体を包み、それを空気清浄機のように勝手に吸収した。エラリーは眩暈めまいに襲われて再び吐血した。

「ぐはっ!」

 ノックスは苦しむエラリーを冷酷に見下ろしている。

「君達の進化に進歩で立ち向かう、それが『医学』だ」

 エラリーはうつぶせに倒れ込んだ。

「エラリー!」

 アガサとクレイグが叫ぶ。



「さて、今のうちに後ろの二人を消してしまおう」

 ノックスはエラリーからアガサとクレイグに目を移し、右手に『黒い風』を生み出した。

 二人に照準を合わせる。



 その手をエラリーがまたも押さえた。片目しか開かず、その目を充血させ、口から血のしたたりをこぼし、それでも立ち上がってノックスの手首を掴んだ。


 ノックスは溜め息をついた。

いた種とはいえ、根を生やすとここまで駆除が面倒だとは」

 ノックスは掴まれた手を掴み返した。

「いい加減に……」


 途中でノックスはエラリーから離れた。瀕死ひんしであるはずのエラリーからノックスは距離をとった。

 それは予想だにしない事態。

 エラリーの体から黒い煙が立ちこめている。



「エ、エラリーの体が……」

 クレイグは湧き立つ煙をエラリーの背中から見つめていた。

「まさか、吸収した『黒い風』が?」

 アガサもエラリーの姿に驚いていた。

 朦朧もうろうとした意識の中で、エラリーは右手をノックスに向けた。煙が右手に集まり、それは渦を描き、寄り集まる。

 エラリーの右手に『黒い風』が巻き起こっている。



「風を生み出したのか?」

 ノックスはエラリーの姿に驚嘆した。

「僕の構造を見抜いたというわけか」

 ノックスは喝采かっさいを送った。

「面白い!」

 口では褒め讃えはしたが、ノックスは邪悪な形相を浮かべた。



 ノックスは顳顬こめかみに血管を浮き出させ、体を小刻みに震えさせた。そして体全体を黒い煙が包み込んだ。

にわか仕込みのそよ風が、風の神にかなうものか!」

 ノックスは血走った瞳で笑った。

「終わりにしよう、エラリー。お昼寝の時間だ」



 ノックスは体いっぱいの『黒い風』を発した。



 怒り狂う黒い波はこの世のすべての光を消し去るほどの闇の渦となり、エラリー達に迫り来る。



 エラリーは右手をノックスに照準を合わせ、体に溜め込んだ『黒い風』を解き放った。




『黒い風』は衝突し、絡み合い、せめぎ合って竜巻を天に昇らせた。そして互いを呑み込み、食い合い、噛み砕いた。



 そして、かつてないほどの巨大な黒い爆発が天と地を覆った。
















 チュンチュンとスズメが敷石へ降り、朝日に照らされて、くちばしを忙しなく動かした。







 ノックスはしわくちゃな体を震わせ、かすんだ目で紺碧こんぺきの空を見上げた。


「僕は……任務を遂行した。喜んで……くれるかい、圭吾……」

 かすれた声でつぶやくと、ノックスはその場にバタリと倒れ込んだ。


 そして二度と動くことはなかった。











 スズメは静かになった皇居の敷石を跳ね、落ちている赤いメガネをつついた。


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