行雲流水のごとく
青月クロエ
第1話 壱
長らく続いた隣領との
一年以上振りに再会した悪友の頼み──、山への薬草摘みを仕方なく引き受けたのが間違いの始まりだった。
険しい崖付近に生息する薬草を摘むのも、獣に襲われないよう警戒しながら森での野宿も面倒ではある。しかし、それらをはるかに超える面倒事が今、
枝葉の狭間から覗く、鮮烈な朱に染まりゆく夕空に悲鳴が轟く。
咄嗟に刀に手をかけ、いつでも迎撃可能な態勢を整える。
「くっそ面倒臭せぇな」
雑に括った白髪混じりの黒髪が風に靡く。背に流れる髪、紅の落葉が舞い上がる。
だらしなく伸びた前髪や無精ひげに覆われた顎に落ち葉が勢いよくぶつかり、いて、と声を上げるも刀から手は離さない。
悲鳴と複数の足音はたしかに樹の方へと近づいてくる。
秋風が吹きすさぶ中、獣か野盗の類に追われていたら、多少は血臭や獣臭が漂う筈。
なのに、それらの不穏な臭いは一切漂ってこない。
「……なーんかおかしくねぇか??」
違和感が拭えないからこそ余計に刀から手が離せない。
足音が迫りくる茂みへ睨みを利かせ、鞘から刀を完全に引き抜き──、草葉の影から何者かが勢いよく飛び出してきた。
「なっ……、が、
「そこのおっちゃん!たすけて!!」
「はあ?!なに言って……」
垢じみた継ぎはぎだらけの着物の子供は転がるように樹の背に回り込む。
は、はえぇぇな、こいつ……などとつい感心したのも束の間、この子供が逃げ隠れする理由はすぐに判明した。
「クソガキが!手間かけさすんじゃねぇ!!」
続けざまに茂みから姿を現した男は子供を認めるなり、唾を飛ばして怒鳴り散らした。
刀や槍など武器を所持しておらず、どう見ても野盗の類じゃない。かと言って、親子には到底見えない。
ぜぇぜぇと息を切らし、しきりに手を差し伸べながら近づいてくる男に一応警戒しながら問う。
「おい、てめぇ誰だ」
「お、おめぇこそ誰だ」
「俺はただの頼まれ薬草採りだ」
樹に怯えを見せていた男の顔に、分かりやすく安堵の色が浮かぶ。
こちらも疑ったように、相手もまた樹を野盗の類とでも疑っていたのだろう。
刀を持ち、凄みのある目つきで睨みを利かせる樹の方が余程野盗に見えても仕方ないが。
「おら、答えてやったんだから今度はてめぇが何者か答えろや。この
「こ、このガキは俺がわざわざ
「買い付け??てことはお前……、
男はへへ……、と媚びを含みつつ、挑むように樹を見上げた。
「あぁ、そうだ。こいつは貧乏百姓のガキのくせになかなか器量が良い。やり方次第じゃ良い値で女郎屋へ売り飛ばせる」
「で、死に物狂いで追っかけてたってわけか」
下卑た笑みへの嫌悪が込み上げ、刀を収めながら樹は男からふいと視線を外し──、外した先でまだ腰にしがみつく子供とたまたま目が合った。
樹に負けず劣らず、伸び放題の真っ黒のぼさぼさ頭に痩せこけた身体。一見すると貧しい農村に吐いて捨てるほど存在する餓鬼じみた幼子。言われなければ性別だって男か女かすらも判別し難い。
だが、顔のほとんどを隠すように張りついた前髪の下、わずかに覗く黒目がちの切れ上がった瞳が放つ強い光にほんの一瞬心を奪われた……、気がしないでもない。
「イヤだ!
少女は樹の腰ら辺に縋って隠れたまま必死で叫ぶも、抵抗虚しく、女衒は茹で蛸みたいな真っ赤な顔で素早く樹の背後へ回った。樹はともかく少女が逃げる間もなく。
「四の五の言わずにさっさと来い!!」
「痛い!放せ!!」
女衒は樹から離れようとしない少女の肩を掴み、力任せに引っ張った。
一回、二回、三回……、何度引っ張られても少女は意地にでも樹の小袖から手を放そうとしない。
「おっちゃん!こいつ、なんとかして!!追っ払ってよ!!」
「あん??知らねぇよ。俺がおめぇを助ける義理なんかねぇし」
「ひどいっ!おに!」
少女の、樹の小袖を引っ張る力は益々強くなる。
その少女を樹から引き剝がそうと、女衒も少女を引っ張るため、更に小袖への負荷はかかっていく。
冗談じゃない。
相当使い古されてはいるが、この小袖はまだ数日前に古着屋で手に入れたばかり。
なまじ上背があるため、身の丈に合う着物を探すのにどれだけ苦労すると思っているのか。
「おいこら、離せクソガキ」
「あっ!」
樹は少女の手を払いのけ、女衒の方へと軽く突き飛ばした。
もちろん女衒がちゃんと受け止めることを見越し、手加減はしている。
「とっととこのガキ連れて失せろ」
呆気に取られる二人へ、しっしっと猫を追い払う仕草をして見せれば、少女の痩せこけた頬にカッと朱が走った。
「おに!ひとでなし!」
「うるさい!!さっさと行くぞ!!」
「もしもあたいが死んだら地獄へひきずりこんでやるんだから!!」
「おー、怖ぇー」
随分と無茶苦茶言ってくれる。
少女の鼻っ柱の強さに怒りよりも呆れと感心が勝る。
「うるさい!黙れ!!」
遠ざかっても尚、絶え間なく続く激しい罵声に女衒の怒鳴り声が重なり合う。
騒がしい声が遠ざかり、完全に聴こえなくなるまで、うんざりしながら彼らが消えていった叢から目が離せずにいた。
太陽はだいぶ西に傾きつつあった。
空模様と辺りの木々を見比べ、背中の籠を軽く背負い直す。
薬草なら頼まれただけの量は確保したが、これから山を下り、里まで戻っていたら真夜中を過ぎてしまう。
もう少し開けた場所へ移動するか──、否、さっきの女衒と子供との応酬でどっと疲れが押し寄せている。今日はこの辺で野宿の準備を。
小枝を集めるため、背負っていた籠を下ろしかけると、夜の帳が降り始めた空に再び悲鳴が上がった。
しかも今度は一人、二人じゃない。数人分の悲鳴、それらを嘲笑う複数の声が上がり、かすかに血臭が漂ってきた。今度こそ野盗の類か──
薄闇に紛れて息を潜め、賊どもが遠く離れるのをじっと待てばいいのに。
奴等が自分のいる方向にさえ来なければ、別に無視しても良かったのに。
「あぁ!ったくよぉ!!本当にめんどくせぇええ!!」
自棄っぱちで吐き捨てた言葉と裏腹に、樹は悲鳴が聞こえた方へと駆けだした。
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