第10話 ゾディアック教団編1
天気は快晴。
湿度も高くなく空気がさっぱりとしていて実に清々しい朝だ。
対して僕の気持ちは背中に岩でも背負ってるのかというぐらいに重い。
廊下を進む度に周囲から感じる好奇の視線。何を言っているのか分からないけど僕と隣のリディアさんの方を見て何か言っているのは分かる。
「すいませんリディアさん……。僕のせいでリディアさんまで噂になっちゃって」
「ん? いや別に私は気にしてないぞ。元々誰かから視線を向けられることは多かったからな」
おどおどと歩く僕とは裏腹にリディアさんは平然とした様子で堂々と廊下の真ん中を歩いている。
すごいなぁなんて感心していると突然前を歩いていた生徒が廊下の端に除け、道が開いた。
何事かと思っていると正面からこちらに向かって歩いてきたのは数名の女子生徒と一緒に歩いているクロエさんだった。
「あ、クロエさ――」
昨日は結局顔を合わせることなく今に至ってしまったので、挨拶をしようと声を掛けたらクロエさんは僕に一瞥だけ向けると何事もなかったかのようにそのまま友達と僕の脇を通り抜けていってしまった。
「え?」
呆然としているとリディアさんに肩をぽんと叩かれた。
「お前、何かあいつを怒らせるようなことしたのか? あいつがあんな風に怒っているところ今まで一回しか見たことないぞ?」
「クロエさんやっぱり怒ってた……んですかね……?」
「分からないが、少なくとも私にはそう見えた」
それだけ言うと教室に向かって歩き始めてしまったリディアさんの跡を追って僕は小走りでその背中を追う。
教室についてからも僕とリディアさんに好奇の視線は降り注いでいたが今はそんなものも気にならなかった。頭の中にあるのは朝の光景。
クロエさんが僕の方に少しだけ視線を向け、興味を失ったようにすぐに友達の方に笑顔を向けたあの瞬間が何度も頭の中をループしている。
そんな状況で臨んだせいか授業中も午後の実習でも身が入らず、今日一日何度も先生方に注意された。
放課後、いつものようにリディアさんとの鍛錬中も例外ではなく。僕が打ち込んだ剣はいとも簡単にリディアさんに弾き飛ばされた。
手に残る痺れと上気した身体の熱を感じながらその場に呆然と立ち尽くしてしまう。
「シン、どうしたんだ? 今日一日中様子がおかしいぞ」
「え。あ、いえ……。少し気になることがあって……。それだけです」
僕は笑顔で答えたつもりだったが、リディアさんは難しい顔をしたままだ。
「……お前が気にしてるのは朝の一件か?」
「……はい」
はぁ、と溜息を吐きリディアさんは自身の剣を鞘にしまうと両腕を組んで背中を壁に預けた。
「昼食の時、お前は何も食べず教室でぼーっとしていたから気づかなかっただろうが、今学院で幾つかの噂が流れている。その一つは私とお前が恋仲でお前が夜中に夜這いをしていた、というものだ」
「……まあ、何となく予想はしてました」
「二つ目はノワール公爵家の令嬢、クロエ・ノワールがブラン公爵家の子息、ライオット・ブランと婚約するというものだ」
「……え? クロエさんが婚約!?」
それまでぼんやりとしていた頭が一気に覚醒する感覚を感じる。飛びつくようにリディアさんの元に近寄る。
「それって、本当なんですか!?」
「はぁ……。ああ、公爵家と公爵家の婚姻だ。今日の未明に王都中に報せが届き、学院でも実際にクロエ・ノワールの口から婚約するという証言を聞いた者がいる。今日一日お前への視線が多かったのは前半の噂に加えて、お前が学院に入学してからの一週間、お前があいつと一緒にいるところを多くの生徒が目撃していたのも関係してるんだろう」
駄目だ情報量が多すぎて脳がパンクしそうだ。クロエさんが公爵令嬢で相手も公爵家の貴族で、クロエさんが婚約してなんでか僕のことを避けてて。
「リディアさん……僕、どうすればいいんでしょうか」
「そんなものは知らん」
すっぱりと言いきられ僕はリディアさんの顔を見上げる。
目を瞑り涼やかにそう一言言い放ったリディアさんに少し怒りが湧いたが、すぐにこの怒りが見当違いなものだと理解した。
リディアさんの言う通りなのだ。僕がどうすればいいかなんて他人には分からない。僕自身にしか分からないんだ。
「シン、お前はどうしたいんだ?」
「僕は……」
僕はどうしたいんだろう。クロエさんはこれから公爵家の貴族様と婚約する。それは王都中の周知の事実で、皆がきっと祝福してる。婚約っていうのは幸せなもののはずだ。
なのに、どうして僕はこんなにもやもやしているんだろう……。
「聞き方を変える。お前はあいつの、クロエ・ノワールのことをどう思っているんだ?」
クロエさんは、王都について間もなく何もかもが分からない僕を助けてくれて、学院に入ってからもずっと一緒で、僕のことをたくさん揶揄ってきたりもしたけど別に嫌じゃなくて、傍にいるだけで楽しくて……それで、それで――。
「まだ、一緒にいたいっっ!!」
気付けば視界が僅かに滲んでいた。
気持ちが昂り、声は上ずり、鼻が詰まって息がしづらい。
「こんな風に、訳も分からないままお別れ何て嫌だ!!」
「それがお前の答えか、シン」
リディアさんの言葉に僕は大きく首を振った。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、視界もぼやけて考えも全然まとまってなくて。
それでも目線だけはリディアさんの方を真っすぐと。
そんな僕を見て口端をあげて笑みを浮かべた。
「シン、お前今までで一番かっこいい顔してるよ」
僕の目尻に溜まった涙を親指で拭いながらリディアさんは続ける。
「私は学院に入るまで冒険者としてもやってきたが、傭兵としてもそれなりに活動してた。それでだ、つい最近私の元に一つの依頼が舞い込んだんだ――」
リディアさんの語った依頼内容は驚きのものだった。
それはクロエさんの誘拐。依頼主は不明。
しかし依頼を受けるなら前金として白金貨千枚、成功報酬として更に白金貨二千枚を提示されたのだという。これは僕にも分かるほど破格の報酬だった。
白金貨千枚あれば一生働くことなく暮らせる額、とても僕が生きている間には無縁な代物だ。
「リディアさんはその依頼を……」
「勿論断った。公爵家に手を出すなんてリスクが高すぎる。もし誘拐に失敗したら何たらかんたらの大量の罪を被せられて散々情報を吐かせるために拷問された上で死刑だろうな。確かに報酬は美味かったがこんな危険な依頼を受ける奴はいないだろ」
「その依頼が来たことをリディアさんは誰か、それこそ学院長とかに伝えたんですよね?」
「いいや、このことを伝えたのはお前だけだよ」
「ええ!?」
その事の方が驚きだ。こんな依頼が出ているなんてことをもしクロエさんが知らないままだったら危険すぎる。
「どうして……!」
「傭兵の世界は秘密主義。特に依頼主の情報や依頼内容をバラすようなことは絶対にあってはならない。もし情報が漏れたことが分かれば全力でそいつを抹殺するために大勢の傭兵が動く。だから私は誰にも話さなかった」
「え、でもリディアさん今……」
「ああ。まあお前が他の誰にも話さなければ問題ない。さっきの続きだが私は依頼を断った後きな臭さを感じて個人的に依頼主に関して色々な筋を通じて調べた。そしたら依頼主が分かったんだが、これがライオネット・ブランだったんだよ」
ライオネット・ブラン……?
それはついさっきリディアさんの口から聞いたばかりの名前だった。
そう、クロエさんと婚約する公爵家の名前。その名前がどうして出てくるんだ?
「あの、それって同姓同名の別人とかなんじゃ……」
「いや、それは無い。この国で貴族の家名を名乗るのは犯罪だ。それに信頼できる伝手を使った情報だからな、間違いなくあの公爵家の人間だ」
「それっておかしくないですか……?」
仮にそのライオネット・ブランさんが本物だとしよう。
だとしたらおかしくはないだろうか?
だってこれから婚約する相手を多額の金で誘拐させるなんて意味が分からない。
それに、なんで今じゃなきゃいけないんだ?
「私もそう思った。それにこれまで聞いていたライオネット・ブランの人物像からは考えられなかったんだ」
王都に来てまだ日が浅い僕でも少しだけ聞いたことがある。
“太陽”のライオネット。彼は人々からそう呼ばれている。
リディアさんの補足によれば彼が太陽の名で呼ばれているのには理由があるらしい。
彼は常に爽やかな笑顔で接し、その整った容姿などから多くの女性層から人気があり、老若男女誰に対しても優しく、平民と貴族誰に対しても分け隔てなく接するその様が光り輝く太陽に例えられた結果なのだという。
そして彼は学会で類まれな研究成果を残し今は王城の次期宰相候補とされているのだとか。加えて彼は男の身でありながら魔力を扱うことなく己の鍛え上げた肉体と磨き上げたその剣術で
正に完璧と言わざるを得ない。
欠点の一つもなく、曇りないその経歴。己の実力を積み上げた実績で証明し続ける様は天才と言わざるを得ない。
「あまりにも欠点がない、こんな人間は今まで見たことがなかった。だから正直私も疑ったよ、本当にライオネット・ブランが依頼主なのかって。ただ、昨夜シンが私を部屋まで運んでくれた後、少し経ってからだ、人の気配を感じて目を覚ました。私が気配を殺してそいつに近づいていくとソイツは寮の二階、その角部屋で足を止め、扉をピッキングし始めた」
「二階の角部屋って……まさか……!」
「ああ、クロエ・ノワールの部屋だ。闇に紛れる黒装束に巧妙な気配の消し方。そして隠しても隠し切れない身体から抜けない血の匂い。すぐにそいつが私と同業だって気が付いたさ。放っておいても良かったんだが私のいる学院で同業の奴が面倒事を起こすのは見過ごすわけにはいかなくてな、始末した」
「始末したって……」
リディアさんはまさかその人を殺したのだろうか?
確かにその人はクロエさんに何かしようとしていた悪い人なのかもしれないけど、何も殺さなくたって……。
「私が怖いか? 私はこの手で何人もの人を斬ってきた。立場が違えばクロエ・ノワールを誘拐してたのは私だったかもしれない」
「……怖くありません。例えリディアさんが人をこれまでに何人も殺してたとしても、僕の知ってるリディアさんはリディアさんです。だから怖くありません」
「ふんっ……そうか。それで今朝気づいたら私のところに差出人不明の封筒が届いていた。内容は次邪魔をするようならお前を殺すって脅迫文だった。まあ差出人は言うまでもなく――」
「ライオネット・ブラン……」
「そういうことだ」
「そのあと私は学院中の見回りに出かけたが、結局何も見つけることが出来なかった。一つ得た情報は相手がかなり腕の立つ奴だってことだけが分かった」
そうか、それで朝目覚めたら今日の鍛錬は無しの置手紙だけ残されていたのか。
リディアさんでも痕跡を見つけられない程相手が手練れで、そんな奴を使ってまでクロエさんのことを誘拐しようとする清廉潔白な公爵子息。
一体裏にどんな闇が潜んでいるというのか……。
「クロエ・ノワールを狙っているやつらの目的は分からない。ただ、奴らが考えてることは何となくだが読める。危険だがもしお前があいつをどうにかして守りたいんだったらこの作戦しかない。聞くか?」
「はい。クロエさんには助けられてばかりで、何もお返しできてません。クロエさんがそんな危ない連中に狙われていて、僕に守れる可能性があるならなんだってやります」
「分かった。作戦はこうだ――」
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