最終章

第38話 ハナコの反撃

 アコガレクリニックを辞めると心に決めたものの、その先の道は決まっていなかった。

 勿論退職する時期も決まっていない。


 院長に嫌気がさしたとはいえ、9年間もお世話になっていた職場に迷惑をかけるわけにはいかない。


 業務の引継ぎもある。


 どうしたものかと悩んでいたある日、息子たちが将来について話し合っていた。

 私は、若い二人の考えを聞きたいと思い会話に参加してみる。


 「これからの時代は、フリーランスとして主体性を持って働く方がいいと思う」


 長男は社会人3年目だが起業を考えているようだ。


 「お母さんは書く事が好きなんだから小説を書いてみたら?」

 次男の言葉が胸にストンと落ちる。

 彼もまた大学に通いながら個人で働くことを考えているらしい。


 二人の話を聞いているうちに、私は遠い昔小説家を目指して大学の文学部を卒業したことを思い出していた。


 よし! 

 辞める理由が決まった!


 「これからは好きなことに時間を使おう」  

 心の中でそう決めた瞬間、視界がパッと開け清々しい気持ちになった。



 職場の状況を考えると退職時期は三か月後が望ましい。

 シズカさん、キニシヤさんの仕事が落ち着く時期であり、繫忙期に入る前だからである。


 契約では一か月前に退職の意思を伝えれば良いことになっている。


 退職を伝えたあと何か月もだらだら勤めていたくない。


 私は密かに院長やセッカチさんに対して少しばかり抵抗を試みる事にした。


 退職をスムーズにするための計画と協力をシズカさんにお願いしたのだ。


 シズカさんしか頼める人はいない。


 シズカさんは、アコガレクリニックに出戻る前から、私の話を聞いてくれていた。


 自分が勤めている病院で働かないかと誘ってくれた事もある。


 私の抱えている仕事は、労災を含め引継ぐのに3か月は必要という事も理由であった。


 早速シズカさんに思いを伝え協力してくれるよう頼む。

 彼女はもう引き止める事なく、私の計画を快く引き受けてくれた。



 時は過ぎ、退職を決意してから二か月が過ぎようとしていた。

  

 「明日セッカチさんに退職相談するからね」

 シズカさん・ヤンキーさん・ノンビリさんに伝える。


 「わかりました、上手く交渉できることを願っています」

 その頃三人は、私が辞めたあと困らないように自らの行動も変えていた。


 そして運命の時。


 私は受付のスペースから去ろうとするセッカチさんを呼び止めた。


 「今後の事でご相談したい事がありますので少し話す時間いただけますか」

 セッカチさんは首を傾げ不思議そうにしている。


 「嫌な話ではないよね?今日のお昼に話しましょう」

 「…………」


 お昼になり、セッカチさんはすぐ私を別室に呼んだ。

 「どんな話ですか?」

 椅子に腰を深くかけ足を組むセッカチさん。


 「申し訳ないのですが退職させていただきたいと考えています」

 申し訳なさそうに小声で答える私。


 「……えっ?」

 「シフトを減らして欲しいという相談じゃないんですか?」

 驚いたように目を丸くする。


 「……」

 余計なことは言えない。

 

 「辞めたいということですか?」

 信じられないと言いたげに聞き返してくるセッカチさん。




 「すみません」

 もう貴方と仕事をしたくないから。


 「いつが希望なんですか?」

 能面のような顔になっていくセッカチさん。


 「できるだけ早くと考えています。可能なら一か月後の退職を希望します」

 辞めると決めたら長くいたくない。


 「それは困ります。ハナコさんが辞めたら、私が事務の仕事をする時間がなくなるじゃないですか」

 事務というのは、ワクチンの手続きやクリニックの色々な事務手続きの事である。


 セッカチさんが事務仕事をする時間は、私が必ず受付にいて他のスタッフと仕事をしていたので、それができなくなるというのだ。


 もともと事務作業は、業者にお金を出して頼んでいたのだが、いつしかセッカチさんが請け負う事になっていた。


「事務仕事をする時は、他のスタッフに頼めばいいのでは?」

 そんな理由で私を引き留めないで。


 この二か月で、シズカさん・ヤンキーさん・ノンビリさんは意識を変えている。

 セッカチさんは気づいていないようだけれど……。


 「それは出来ませんよ、皆さん扶養内で働いているのだから、年収越えてしまうじゃないですか」 

 そんな理由で私を都合よく使わないで。


 「それはセッカチさんが勝手に思い込んでいるだけで、皆さんはそう思っていないかもしれませんよ」

 現にキニシヤさんは、もっと働きたいと言っているのを私は耳にしている。


 それに今はまだ5月である。今から年収を越える心配はしなくていいはず。


 「ハナコさんが辞めたら、人も不足するので、新しくスタッフを募集しなければいけなくなるの」

 知るか!

 新人をいれるか?残るメンバーでなんとかするか?どちらかにして!


 「三か月は待ってもらわないと」

 三か月もここにいたくない。


 「三か月は厳しいです」

 私が辞めても困らなくしたあります。


 労災の引継ぎもほとんど終わっている。


 それに昨年と違って今は受付メンバーが多くなったので、今のメンバーだけで十分やっていけるはず。


 これまで辞めていった人の穴埋めをして来たからこそ、このタイミングで退職を願い出る事は無理な事ではないと知っている。


 「取り合えず、今日のところは希望を聞くだけで、院長に私から話し、面談をしてから退職日を決めます」 

 気まずい雰囲気のまま話は終了となった。



 午後になり、院長はなかなか院長室から出てこない。

 セッカチさんと私の事を話しているんだろうなと思っていると、いつもより遅れて現れ受付の前で足を止めた。


 普段は受付の前を振り向きもせず通り過ぎるのにこの日は違っていた。


 不機嫌そうに降りて来たかと思うと、受付の前で一旦立ち止まって何も言わず私を睨みつけたのだ。


 「……」

 怒っているの? 


 「今、院長睨みましたよね?」

 横にいたシズカさんが驚いて私に耳打ちする。


 セッカチさんは院長にどのように伝えたのかしら?


 私を辞めたくなるように追い込んだくせに……。


 辞めると伝えた途端睨みつけるなんて……。


 ため息しかでてこなかった。

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