3

 留置所を出てから、速水は迷わず秋森しずくの自宅まで引き返してきた。

 高々とそびえるタワーマンションを見上げながら、槇原はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「秋森の自宅か。まぁ手がかりは残ってるかもしれんが、探してる間に秋森は犯行をやり遂げるぞ?」

「いえ、きっとそうはなりません」

「どうしてそう言える?」

「槙原さんは、秋森のような女性にとってのアウェーってどこだと思いますか?」

「そりゃ何の話だ。まぁ男が多い場所とか、そういうことか?」

「いいえ、正解は自宅以外のすべてです」

 速水は答えながら、マンションのエントランスに入った。秋森の隣室の部屋番号を呼び出し、インターホンが繋がるまで待つ。

『……はい。どちらさま?』

 品のいい女性の声で応答が返ってくると、速水はカメラに向けて警察手帳を見せた。

「警視庁捜査一課の速水です。あなたの隣室で重大な犯罪が行われている可能性があります。お手数ですが、中に入れてもらえますでしょうか?」

『えっ、それってどういう』

「早くしないと人命に関わります」

『わ、わかりました』

 応答とともに、エントランスのドアが開く。速水が迷わず中に入ってエレベーターに乗り込むのを、槇原が慌てて追いかけてきた。

「お、おい。どういうことだ? お前、まさか秋森が自宅にいると思ってるのか?」

「そのまさかです」

 答えると、槇原は露骨に胡乱げな視線を向けてきた。

「俺が言ったことをもう忘れたのか? 秋森は逃げるか、長濱を殺しに行ったはずなんだぞ? どうして自宅にいるなんて発想になるんだ」

「逆に聞きますが、どこに逃げれば秋森に安息があると思いますか? 彼女はテレビでもかなり人気のある女性タレントなんですよ? 仮に海外に逃げたとしても、彼女の顔はネットに出回ってすぐに足がつきます。逃げたところで、一生他人の視線に怯えながら生きることになる。過度のストレスで暴走した彼女が、そんなストレスだらけの生活を選択するとは思えません。そんな生活を送るくらいなら、必ず長濱を追い詰めることを選びます」

「だったら、長濱の自宅付近を捜索したほうが」

「秋森はつい最近、男にレイプされかけたんですよ? 男の部屋に入るなんて抵抗があるに決まってますし、殺すつもりの相手が有利に立てる場所にわざわざ飛び込むほど、秋森が考えなしとは思えません。それより、私だったらこう言って長濱を呼び出しますね。『連続殺人事件のことで話したいことがある。一対一で話がしたいから、自宅に来て欲しい』ってね。長濱はとっくに犯人が捕まったと思ってますし、間違いなく下心丸出しで飛びついてくるでしょう」

「……言えてるな」

 長濱の顔を思い浮かべたのか、槇原はすぐに納得したようだった。

「だが、どうやって秋森の部屋に入るつもりだ? 管理人に連絡でもするのか?」

「秋森の部屋はこのマンションの十五階です。以前聴取に行った際、彼女の部屋のリビングからベランダが見えました。ベランダの隔壁板を破って秋森の部屋に渡れれば、ガラス戸を割って中に入れるはずです」

「それで秋森も長濱もいなかったら、完全に違法捜査だぞ」

「それまでに、長濱が秋森の自宅にいるって証拠を見つければいいんでしょう?」

「……お前、急に図太くなったな」

 槇原は呆れと感心が混ざった苦笑を浮かべた。

 エレベーターが十五階で止まると、速水は秋森の隣室の呼び鈴を鳴らした。中年女性の住人が恐る恐る顔を出してくるので、速水は再び警察手帳を提示する。

「警視庁の速水です。申し訳ありませんが、中に入れてもらえますでしょうか?」

「あの……一体どういうことなんでしょう?」

「隣の部屋で殺人事件が進行している可能性があります。中に入れて、隣室の様子を確認させてください」

「は、はい」

 半ば押し切る形でドアを開けてもらうと、速水は素早く移動して隣室の壁に耳を当てた。目で槇原に合図を出すと、槇原はすかさず長濱のケータイに電話をかける。同時に、壁に当てた速水の耳に微かな電子音が届いてきた。

 やはり長濱は秋森の部屋にいる。速水が視線でそれを伝えると、槇原は長濱への電話を切って新たに東雲警部へ電話をかけ始めた。この場に応援を要請しつつ、秋森逮捕のための令状を取るためだ。

 速水はおろおろしている住人を軽くなだめてからベランダに出ると、ベランダの隔壁板を蹴破って秋森の部屋に移動する。ガラス戸の向こうはリビングのはずだが、カーテンがかけられていて中は見えない。もし秋森がいるなら先程の隔壁板を壊す音は聞こえたはずだ。動きを止めて気配を殺しているつもりなのだろうが、ガラス戸に耳を押し当てると室内から微かに人の気配が感じ取れた。

 スーツの上着を脱いでガラス戸に押し当て、その上から警棒でガラスを叩き割る。開いた穴から手を突っ込んで鍵を開け、ガラス戸とカーテンを一気に開ける。

 リビングには異様な光景が広がっていた。

 まず目に入ったのは、椅子に両手両足を縛り付けられた長濱だった。猿ぐつわを噛まされていてしゃべれないようだったが、必死に口を動かしてなにかを伝えようとしている。さっと体に目を走らせるが、出血された様子もなければ殴打された様子もない。恐怖に染まった顔には、涙が乾いた痕が残っていた。

 椅子の後ろには、秋森しずくが悠然と立っていた。こちらの侵入に動じた様子もなく、その顔にはなぜか穏やかな笑みが浮かんでいる。長袖のトレーナーにロングスカートという清楚な出で立ちとは裏腹に、その手に持ったナイフは長濱の首に押し付けられていて、なんだか奇妙な風刺画を見ているような気分になる。

 彼我の距離はおよそ三メートルほどで、長濱を無傷のまま保護するには距離がある。速水はいつでも動き出せるように腰を落としたまま、秋森の説得を始めることにした。

「秋森さん、ナイフを下ろしてください。もうすぐ応援が来て、この部屋は警察に取り囲まれます」

「そうですか。なら、早く始末をつけないとですね」

 言って、秋森はナイフの切っ先で長濱の首筋を撫でた。長濱の手足が恐怖でより一層震え出し、速水は思わず足を前に踏み出しかける。だが、その前に秋森が冷たく警告を投げてきた。

「それ以上近づかないでくださいね。ガラス戸に背をつけて動かないで。あまり威圧されると、私も変に力が入って、うっかりこの人を殺してしまうかもしれませんよ?」

「長濱さんを殺しても、何にもなりませんよ」

「それは私が決めることです」

 答える秋森の表情は、不気味なほどに穏やかなままだった。こちらを見返す瞳には怒りも絶望もなく、速水への敵意や軽侮の念すら感じない。その表情の凪のような静けさが、速水にはどうしようもなく不穏で仕方がなかった。

 速水は説得の材料を探すために、周囲に視線を巡らす。テーブルの上にはスマートフォンと飲みかけの紅茶のカップが置かれており、おそらく紅茶に睡眠薬を仕込んでおいて、眠ったところで長濱を拘束したのだろうと思われた。長濱が座る隣の椅子には、長濱の物と思しきカバンが置かれている。位置関係から見るに、テーブル上のスマートフォンは長濱のものと見て間違いなさそうだった。

 秋森はこちらの動揺を誘うようにナイフを動かしながら、独り言のように口を開く。

「なんとなく、あなたが来るような気がしてました。他の警察の人の顔なんて覚えてないけど、あなたのことだけははっきり覚えていたからかな」

「……なぜ、私だけ?」

「あなたにだけは、私の気持ちがわかってもらえると思ったからかな」

 それは速水も同感だった。だからこそ、彼女への説得を試みる。

「今なら高樋光男の殺害容疑だけで済みます。これ以上罪を重ねたら、死刑になる可能性だってあるんですよ」

「速水さん、私が死刑を怖がっていると思いますか?」

 刃物のように鋭い問いかけに、速水は思わず説得の言葉を見失ってしまった。

「でも、やっぱり私が高樋を殺したことまでご存知なんですね。色々後始末が不十分だったから、良子が捕まった時点で私にたどり着くだろうなとは思ってましたけど」

「……なぜ、高樋を殺したんですか?」

「動転してたんです。マンションに帰ろうとしたら高樋が待ち伏せしてて、怖くて無視したら無理やり路地裏に引っ張り込まれて……レイプされそうになったから、慌ててあいつが落とした警棒を掴んで、めちゃくちゃに振り回して……気がついたら、私に覆いかぶさったまま動かなくなってたんです。最悪ですよね。人をレイプしようとした上、あんなあっさり死ぬなんて……どれだけ私に迷惑をかければ気が済むんだって話ですよ」

 愚痴るように言うが、なぜか彼女の声は晴れやかだった。

「そのあと怖くなって良子に電話をしたら、あの子が高樋を処分してくれるって言ってくれたので、ついそれに甘えてしまいました。結果的にここまで良子に頼ることになってしまうなんて、あの子には悪いことをしました」

「峰村さんが蓑田さんや須賀さんを殺した原因にも、あなたが関係しているんですね」

「はい。速水さんにはわかるでしょう? 高樋を殺してしまって、夢や将来の希望がすべて台無しになってしまったとわかった時の、私の絶望が。それを見計らったみたいに、私に脅迫のメッセージを送ってきた蓑田と須賀への思いも」

 やはり、速水の推測は当たっていたようだ。無言でうなずくと、秋森は少しだけ笑みを深めたようだった。

「あの二人ときたら、とんだ間抜けですよね。私を女だと……抵抗する意思のない兎だと思って、一方的に搾取するつもりでいたんですから。メッセージが届いた瞬間、私は『こいつを殺してやる』と決意しました。あんなやつらを野放しにしていたら、きっともっと大勢の人が連中の被害者になる。誰かがやつらを止めなくてはならないんだって」

「どうして、警察に相談してくれなかったんですか!」

「その時、私は人殺しだったんですよ? 警察なんて頼れるわけないじゃないですか。それに……高樋にストーカーされていた時も、警察は立件してくれませんでしたからね。どのみち、警察に頼ろうなんて気はとっくに失せていました」

 秋森が穏やかな口調で語れば語るほど、彼女の胸に広がる途方もない闇が覗き見えるような気がした。

「不幸なことに、良子も私と同じ気持ちでした。ご存知でしたか? あの子は元々、有名なホテルの厨房で働いてたんですよ。でもそういうところって物凄い男社会らしくて、良子はよく『女は役に立たない』とか『女が一流シェフになれるわけない』とか言われてたみたいです。わかりますか? 私もあの子も同じように夢を見て、古臭い価値観の男たちが支配する世界に入って、利用するだけ利用したらゴミのように捨てられたんです。あの子がホテルの厨房を辞めてフードトラックをするようになったのも、男どもが保身のためにミスを良子に押し付けたせい……だからあの子にも私の気持ちがわかってしまって、殺人の共犯を申し出てくれたんです。私が直接蓑田や須賀を殺していたら、警察はすぐに犯人が私だと断定したでしょうからね。私のアリバイを用意したのも、犯行の発覚を先延ばしにするためです」

 話を聞いている内に、速水は警察に入ってすぐの地獄を思い出して、瞬間的な吐き気が喉までこみ上げてきた。あの頃の速水は、同僚や上司からセクハラを受け、女性警察官にも味方になってもらえず、世界中が敵になったような絶望感で毎日押しつぶされそうだった。

 やはり、秋森と峰村も自分と同じ地獄を通ってきたのだ。それを確信すると同時に、速水は様々な疑問が急速にクリアになっていった。

「秋森さん、もうやめましょう。あなただってこれ以上罪を重ねたくないはずです」

「知った風な口ぶりですね。そんな陳腐な言葉で説得できると思ってるんですか?」

「他の誰にわからなくても、私にだけはあなたの気持ちがわかります」

 速水が断言すると、秋森は面白がるように眉を持ち上げた。

「なら話してみてください。どうしてそう思うんです?」

「ずっと気になってたんです。あなたと峰村さんが犯人だとしたら、どうして最初の聴取の時、あなたは峰村さんを同席させたのか。あの時はまだ高樋殺害は発覚していないので、秋森さんだけが表に立って、峰村さんのことを黙ってさえいれば、共犯関係を隠せていたはずです。それなのに、どうしてあの時彼女を同席させたのか? あなたは心のどこかで、警察に止めてもらいたかったんです」

「随分都合のいい解釈ですね。警察を挑発していたとは思わないんですか?」

「あなたが本当に長濱さんを殺す気なら、私がこの部屋に入る前に彼を殺せたはず。今だって人質にしてるだけで、警察の応援が来るとわかっているのに移動手段の要求もしてこない。逃げるつもりもないのに人質を取っているのは不合理です」

「そうですか? 私にとっては至ってシンプルな理屈なのですが」

「なら教えてください。あなたが何を考えているのか」

 速水が問いただすと、秋森は速水の予想通りの言葉を返してきた。

「もちろん、警察の前で長濱を殺すためです」

 秋森の言葉に、長濱の顔がより一層青ざめていった。こちらに助けを求めるように声を上げるが、猿ぐつわのせいで言葉にはならない。その音がうるさかったのか、秋森は再度彼の首筋をナイフで撫でた。長濱は瞬時に声を止め、過呼吸状態で目に涙を浮かべる。

 長濱が完全に黙るのを待ってから、秋森は速水に視線を戻した。

「あなたの言う通り、私が警察を待っていたのは事実です。でも、それは別に『殺人を止めて欲しいから』なんて殊勝な理由じゃありませんよ。私はただ、許せないやつら全員にわからせてやりたいんです。自分が今まで何をしてきたのかを」

 秋森はナイフを持っていない手を大仰に広げると、速水に向かって微笑んだ。

「蓑田のような業界の重鎮には、自分が貪ってきた暴利のツケを払わせたかった。須賀のように女を食い物にする男には、自分が他人の人生を破壊しているのだと教えてやりたかった。長濱のようなゴシップ記者には、スキャンダルを追い回されることのストレスがどんなものか思い知らせてやりたかった。そして……肝心な時に役に立たない警察には、自分たちがいかに無力かということを知ってもらいたかったんです。だから、長濱さんは警察の前で殺さないと意味がないんです。できれば大勢の警官の目の前で、ね」

 長濱の呼吸がどんどん荒くなり、瞳から涙がこぼれ出す。彼は表情だけで必死に命乞いをしているが、そんなものが秋森に通用するはずがなかった。

「良子を傷つけたホテルのシェフたちにも、直接思い知らせてやりたかったけど……あいつらはきっと、良子の裁判で痛い目にあうでしょうね。良子はホテルで働いてた時から攻撃的な人格障害になったので、裁判でそこを踏まえた弁護戦略を組み立てれば、有名ホテルの内情を世界中に広めてやれると思います」

 穏やかな微笑みの裏で燃え上がる狂気に、速水の背筋が震えた。

 自分の人生をめちゃくちゃにした連中全員に復讐するため、彼女たちは本気で自分の命を賭けているのだ。元々辛うじて繋ぎ止められていた彼女たちの人生が、高樋殺害という大鉈によってタガが外され、連鎖的に崩壊してしまったのだ。

 もし、警察が高樋を逮捕できていたら。蓑田や須賀、長濱を何らかの形で取り締まることができたら、こんなにも多くの犠牲者を出すことはなかったのかもしれない。そう思うと、速水としてもやるせない思いだった。

 ――だが、ここまでは大筋、速水の読みとずれていない。

 速水はお互いの目指す盤面になるよう、最後の一手を打つ。

「だとしたら、あなたは今すぐ武装解除して投降すべきです」

「どうしてそんな必要があるの?」

「わかりませんか? この部屋はガラス戸のすぐ近くだし、この一帯にはビルがたくさんある。どこかのビルからあなたの頭を狙撃するくらい、SATのスナイパーなら簡単なはずです。私が説得失敗の合図を出したら、スナイパーが迷わずあなたを撃ち抜きます。大勢の警察の前で長濱さんを殺すなんて、どのみちあなたには無理なんですよ」

「……そう」

 秋森は声のトーンを落として呟くと、力を込めてナイフを握り直した。

「なら、今すぐ殺すしかないのね」

 長濱が再び言葉にならないうめき声を漏らすが、秋森は彼の髪を掴んで強引に首を反らせた。天井を見上げる形になった長濱の顔を上から見下ろし、秋森は鬼のような形相でナイフを逆手で振り上げる。

「さようなら、長濱京次郎。今まで苦しめてきた女たちの恨み、とくと味わいなさい」

「やめなさいっ!」

 速水が動き出すより速く、秋森がナイフを振り下ろす。長濱が断末魔のような絶叫を上げる。鋭い刃先が彼の喉笛に突き刺さり、勢いよく鮮血が迸る――

 ことはなかった。

 秋森の振り下ろしたナイフは、長濱の首に触れた瞬間、刃が柄の中に引っ込んで隠れてしまった。

 おそらく、舞台で小道具として使うマジックナイフというやつなのだろう。秋森がやたらと長濱の首をナイフで撫でるので、速水はすぐにナイフが偽物であると見当がついていた。警察を威嚇するのが目的なら、軽く刺して出血させたほうが効果的だし、そうする勇気がないならナイフで首を撫でるなんてこともできなかったはずだ。そのくせ何度もナイフを横に動かしていたので、刺せないことはすぐに察せられた。

 いまだ絶叫が響く中、長濱の足元から悪臭と水音がし始めた。見れば、彼は恐怖のあまりその場で失禁したようだった。だがようやく自分が生きていることに気づき、彼は涙目のまま呆然と秋森の顔を見上げる。

 秋森は鬼の形相から一転、長濱を蔑むように見下ろしていた。

「汚いですね。私が釈放されたら、ちゃんと椅子と床のクリーニング代を弁償してくださいね?」

 それだけ言うと長濱の髪から手を離し、速水に近づいて照れたように笑った。

「どうですか? 私、演技も捨てたもんじゃないでしょう?」

「……私には、少し大げさに見えましたが」

「手厳しいですね。まぁ、もう二度と演技なんて披露することもないんでしょうけれど」

 寂しげに笑う秋森に、速水はとっさに言葉を返せなかった。

「それにしても、こんなに上手くいくなんて思わなかったわ。やっぱり、あなたがきてくれてよかった」

 そう言って、秋森は手錠を促すように両手を差し出してくる。

 思えば、速水はこの部屋に踏み込むように差し向けられていた節があった。長濱が睡眠薬で眠っている間にケータイの電源を切っていなかったのは、長濱のケータイに電話がかかってきた時に、隣室や玄関ドアから音が漏れ聞こえるようにするためだろう。速水を寸劇に巻き込んだのも、速水なら秋森の思想を理解できると踏んだからだ。速水は秋森に話を合わせて、彼女の脚本を演じ切らせてやるだけでよかった。スナイパーの話などは完全にアドリブだったが、彼女の脚本を最終章に導くのに役立ったようだ。

 秋森の肩越しに長濱を見る。失禁と殺されかけたショックからいまだに立ち直れておらず、茫然自失としているようだ。これだけお灸を据えられれば、さすがに多少はゴシップ記者としてのあり方を考え直すようになるはずだ。

 そしてもちろん、秋森の怨嗟の声は棘となって速水の胸に刺さった。きっと刑事を辞めるまで、ずっと抜けないまま胸に刺さり続けるだろう。

 結局のところ、秋森は宣言通り、見事にゴシップ記者と警察への復讐を果たしたのだ。

 どこか満足げな秋森に、速水は苦笑しながらそっと手錠をかけた。

「秋森しずくさん。逮捕・監禁罪の現行犯と、殺人の容疑であなたを逮捕します」

 同時に、玄関のほうからドアを叩く音と槇原の声が聞こえてきた。

「警察だ! 令状が出ている。ドアを開けろ!」

 速水が秋森を連れてドアを開けると、こちらを見た槇原と捜査官たちは揃って意表を突かれたような顔をした。槇原はすぐに立ち直っててきぱきと指示を出し、秋森を護送する手続きと、室内の長濱を救助して現場の鑑識を行う手はずを整えていく。捜査員がすべて出払ったあと、速水は槇原によって無人の廊下に連れ出された。

「それで、中で何があったんだ?」

 槇原に問われ、速水は室内で起きた出来事を正直に説明する。話を聞くにつれて、槇原の眉間にしわが寄っていった。

「……綱渡りの対応だが、結果的に被害者が出なかったことは幸運だったな。だが、お前は秋森の芝居に協力した形になる。長濱から訴えられるか、上から処分されることは覚悟しておけ」

「了解です」

 速水が少しも動揺せずに応じると、槇原は一層眉間にしわを寄せた。

「お前、ちゃんと反省しているのか? 大体、ナイフが偽物だとわかった時点でなぜ秋森を確保しなかった?」

「確証がなかったからです。九割偽物だと思っても、一割本物である可能性があるなら、下手に動くべきではないと判断しました」

「それはそうだが……それなら、秋森が長濱を殺していたらどうするつもりだったんだ?」

「両手両足を拘束して、恨みつらみをいくらでも発散できる状況だったのに、秋森は長濱に傷一つつけていなかったんですよ? 彼女が長濱を本気で殺したいほど憎んでいたとしたら、痛めつけてから殺す可能性のほうが遥かに高いです。そうしなかったということは、彼女に殺意がないということです」

「だったら尚更、さっさと制圧すべきだろうが」

 槇原の弁はもっともだった。速水はやむなく、本心をさらけ出すことにする。

「秋森は命がけで、長濱を懲らしめるために一芝居打ったんです。刑事としては間違っているかもしれませんが、彼女が捕まる前に彼女のやりたいことをやらせてあげたかったんです。それに……正直、もし長濱が殺されたとしても、裁かれざる悪人が一人死んだというだけのことです」

「……お前、俺の話を聞いてなかったのか? 刑事は正義だの悪だのを決められる立場じゃないんだ」

「それはわかってます。でも、何が正義で何が悪かという信念は、誰もが持っているべきものでしょう?」

 それすら否定されてしまうのなら、刑事なんてとてもではないが続けられない。

 槇原は痛いところを突かれたように視線をそむけた。槇原にも彼自身の天秤があるからか、それ以上こちらを説き伏せる言葉を持たないようだった。

 それを確認してから、速水は槇原に話を切り出す。

「そう言えば、裁かれざる悪人がもう一人残っているんですが、槙原さんも付き合ってもらえますか?」

「何? 一体誰のことだ」

「わかりませんか? この一連の事件の、最も重要な部分を知っている唯一の人物――それが、光石音乃です」

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