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長濱警護の許可はすぐに下り、東雲警部を中心に犯人をあぶり出す計画を立てることになった。
槇原と速水は高樋の自宅アパートに向かう。彼の居住地である広尾に着く頃には日はすっかり落ちていた。
速水は通りの向こうから、高樋の自宅アパートを俯瞰する。二階建てのアパートで防犯カメラなどはなく、セキュリティも無きに等しいボロアパートだ。付近には駐車場や駐輪場の類もなく、街灯も少なかった。
隣に並ぶように立ちながら、槇原は呟くように言った。
「広尾か。秋森しずくが住んでる中目黒まで、日比谷線でたったの二駅。その気になれば徒歩でも行ける距離だ。この時点で秋森への執着を感じるな」
槇原の言葉になんとも言えない不気味さを感じて、速水は少しだけ身震いした。
「高樋に接触しますか? 下手に刺激すると逃亡する恐れがありますが」
「接触しないんだったら、わざわざここまで来た意味はないだろ。それに……俺は正直、やつがまだここにいるとは思っていない」
「え?」
「長濱が言うには、高樋は今月に入ってから連絡が途絶えてるんだろ? 蓑田と須賀の殺害の状況を考えても、犯人は相当用心深いやつだ。徹底的に防犯カメラを避けた場所で犯行を行って、防犯カメラで特定されないように逃げ切っている。そんだけ頭の回るやつが、音信不通のまま足がつく場所にいるわけがないからな」
槇原は確信を持って言うと、高樋の部屋の呼び鈴を鳴らした。しばらく待っても返事がないため、何度かノックして高樋の名を呼びかけるが、それでも返事はない。ドアノブを回してみるが、さすがに鍵はかかっているようだった。
高樋の部屋のポストには郵便物やチラシがたまっており、少なくとも一週間は回収していないように見える。やはり槇原の言う通り、高樋は部屋に戻っていないようだ。もしかしたら、長濱との連絡を断った時点ですでに別の場所に拠点を移していたのかもしれない。
「これからどうします? まだ高樋が犯人だと証明できる物証もないですし、家宅捜索令状なんて取れませんよね?」
「令状がないなら、ないなりのやり方があるさ」
言って、槇原は携帯電話を取り出した。番号をプッシュすると、音声をスピーカーにしてどこかに電話をかける。
『もしもし。高樋ですが……』
「夜分に申し訳ございません。高樋光男くんのご家族の方でしょうか?」
『はい。母の泰子です』
聞こえてきた応答に、速水はぎょっとした。だが槇原は平然とした顔で話を続ける。
「私は警視庁捜査一課の槇原といいます。現在、ある事件を捜査しておりまして、光男くんを重要参考人として探しているのです」
『重要参考人って……まさか、光男を犯罪者として疑ってらっしゃるんですか?』
「いえ。事件に関して極めて重要な事実を知っている可能性があるため、ぜひお話をうかがいたいというだけです。申し訳ありませんが、お母様のほうから光男くんに連絡を入れていただけませんでしょうか?」
『あの……本当に光男は疑われていないんですよね?』
「ええ。もちろんです」
臆面もなく断言すると、高樋の母親は納得したようだった。
『これから光男に電話してみます。すぐに折り返しますので、しばらくお待ちいただけますでしょうか?』
「わかりました」
電話が切れるが、槇原は速水に説明もせずじっと折り返しの電話を待つ。さほど待つことなく、高樋泰子からの電話がかかってきた。
「はい。捜査一課の槇原です」
『高樋の母です。光男ったら、全然電話に出なくて……もしかして、なにか事件に巻き込まれてるんでしょうか?』
「ありえます。申し訳ありませんが、光男くんの安全を確かめるためにも捜索願を出していただけますでしょうか? 私の名前を出していただければ、スムーズに受理されるかと思います」
『……わかりました。すぐに警察に向かいます』
「よろしくお願いします」
電話が切れると、槇原はにやりと笑ってみせた。
「殺人事件の嫌疑がかかっていて、家族からの捜索願が出されている。いわゆる緊急性の高い失踪人捜索案件だ。これなら令状がなくても、ある程度家の中を捜索できる」
「……親御さんのこと騙してるみたいに聞こえましたけど、大丈夫なんですか?」
「大丈夫に決まってるだろ。嘘は一つも言ってないしな」
あっけらかんと言う槇原に、速水は呆れつつも感心した。悪知恵の働く犯罪者と戦うには、このくらい頭が回らないと太刀打ちできないのだろう。この男のこういう図太さも、これから自分が磨いていかなければいけない部分だった。
しばらく待つと捜索願が正式に受理された旨の連絡がきたため、槇原はアパートの大家に連絡をした。鍵を開けてもらうよう交渉を始めるが、大家は管理物件に犯罪捜査の手が入るのを嫌がっているようだった。令状がないと捜索に応じられないと渋っていたが、捜査協力を拒否して高樋が犯人だった場合のリスクをほのめかしたら、大家も潔く協力する気になったようだった。
数十分ほどで着くと言うので、その間にアパートの住民に高樋について聞き込みをする。夜だということもあり、幸い住民のほとんどが在宅していたが、高樋との交流があるものも高樋の情報を持っているものも一人もいなかった。
しばらくして大家がやってきたので、速水と槇原はドアを解錠して高樋の自宅内に踏み込んだ。
ワンルームの部屋は雑然としていた。敷きっぱなしの布団に脱ぎ散らかされた衣服、テレビとパソコンにはホコリが積もっている。壁には秋森しずくのグラビアポスターが所狭しと貼ってあり、その様子はどこか異質な不気味さを感じさせた。
槇原と分担して、収納などの室内を徹底的に捜索する。小一時間ほど捜索するが、凶器やスマートフォンなどは発見されなかった。パソコンはパスワードがわからないため中を見れず、令状が出た状態で正式に押収しなければ解析は難しそうだ。めぼしい成果と言えば、衣服の山に埋もれていた大量のノートぐらいだった。ノートの表紙には通し番号が振ってあり、とりあえず一番目のノートをぱらぱらとめくってみる。
『二〇一七年五月二十五日
しずくが芸能界デビューしていることを知った。ミス青学に選ばれたことがきっかけでスカウトを受け、今はグラビアを中心に仕事をしているようだ。昔付き合っていた身としては、彼女が夢を実現させていってるのを見るのは素直に嬉しい。きっと彼女なら成功するはずだ』
『二〇一七年七月十三日
しずくのサイン会に行ってみた。久々に会った彼女は、前よりも更に綺麗になっていた。ただ、最近はSNSでも露出が多い写真ばかりアップしていて、ファンの連中もしずくの心じゃなく体ばかりをじろじろと見つめている。あんな低俗なやつらがしずくを付け回していると思ったら吐き気がしてきた。思わずしずくに「もっとファンを選んだほうがいい」「変なやつに付きまとわれていないか?」と聞いたら、彼女は困ったように引きつった笑顔を浮かべていた。きっと誰かに付きまとわれていても、それを誰にも相談できないでいるんだろう。こんな時こそ、俺がしずくを守ってやらなくては』
速水は思わず、ページをめくる手を止めた。
これは高樋の日記だ。それも、秋森しずくをストーカーしていた記録だと思われる。もしかしたら、ここには高樋の潜伏場所について重要なことが記載されているかもしれない。ちょうど五年前の二〇一七年から記述されており、秋森が「高樋にストーカーされ始めた」と言っていた時期とも符合する。
槇原にも声をかけて、分担して日記を精査していく。
『二〇一七年十一月八日
蓑田とかいう番組プロデューサーが、しずくと一緒にホテルに入っていった。しずくに限って、まさかあんな中年おやじと付き合ってるなんてことはないと思うが……なんだか妙な胸騒ぎがする。まさか、何か弱みを握られて脅されているんじゃないだろうか? 少し注意して様子を見ることにしよう』
『二〇一八年四月三十日
しずくの家に、和馬とかいう役者崩れが通うようになった。一体どういうことだ? しずくは蓑田だけでなく、この男とも付き合っているのか? いや、彼女はそんなふしだらな女なんかじゃない。きっと何か裏があるに違いない。しずくのためにも、彼らのことを徹底的に調べなければならない。とはいえ、派手に動いてストーカーと勘違いされるのも業腹だ。俺はあくまで、彼女の本当の幸せを願っているだけだ。彼女が変な男と付き合って傷つかないように、絶対に守り抜かなければならない』
『二〇一八年八月一日
週刊晩秋の記者の助手のアルバイトに受かった。蓑田や須賀と付き合っていた女性タレントについて、よくすっぱ抜いていた雑誌だ。やはりこの雑誌は蓑田や須賀と結託しているらしく、俺は運良く連中の尾行と調査を任されることになった。これで四六時中、しずくとしずくに付きまとう悪い虫を調べることに時間を費やせる。もし連中がしずくを傷つけているのだとしたら、奴らにはこの世の地獄を見せてやるつもりだ』
『二〇一九年二月十一日
しずくとしずくの回りをうろつく連中を調べ始めて、もう半年が経つ。それだというのに、俺はまだ連中が何を企んでるのか何もつかめていない。連中は狡猾で、人がいるところで決定的な話題を口に出すことは決してなかった。ただ、蓑田の家にも須賀の家にも女の姿が絶えたことはなく、女癖が悪いことだけは間違いなさそうだ。しずくも段々二人の行状に気づき始めているようで、蓑田や須賀と一緒にいる時も暗い顔をすることが多くなっていた。この調子でしずくの目が覚めてくれたらいいのだが……』
『二〇一九年九月二十七日
蓑田に縁を切られた女の一人から話を聞いた。蓑田はやはり、仕事を餌に女に枕営業を要求していたようだった。男の風上にも置けないようなやつだ。おそらく、しずくも同じように騙されてしまっているのだろう。しずくの夢を盾に取って関係を迫るなんて、おぞましいほどの邪悪だ。どうにかして、彼女を助け出す方法はないものだろうか』
『二〇一九年十一月十五日
蓑田のスキャンダルを上司に報告したが、一向に記事にならない。気になって上司を問い詰めてみたが、やつはスキャンダルを記事にするつもりはないようだった。蓑田を泳がせたほうがもっと多くのスキャンダルを得ることができ、長期的な利益に繋がるんだと。ふざけやがって。しずくを蓑田の手から守るにはこの方法しかないんだ。俺が絶対やつを終わらせてやる』
『二〇二〇年一月二十日
須賀と別れた女から話を聞いた。芸能界を引退して結婚しようとしたところ、久々に須賀から連絡があったそうだ。その女は須賀と付き合っていた頃、須賀に自分の昔話をよくしていた。その昔話のひとつに、中学時代に毎日からかっていたクラスメイトが自殺したという話があり、須賀は「その話を婚約者に知られたくなければ金をよこせ」と要求してきたようだ。悩んだあげく、彼女は結局須賀に金を支払ったようだ。須賀のことを記事にするかと提案したら、彼女には拒否された。おおごとにして結婚を台無しにしたくないようで、俺に愚痴を吐き出したかっただけのようだ。この女は自業自得だが、しずくまで同じ目に合わせるわけにはいかない。あの邪悪な男にも、罪の報いを受けさせるべきだ』
『二〇二〇年三月五日
須賀の件も上司に握りつぶされた。あの長濱という男には、女性たちを守ろうなんて気概は微塵もないに違いない。雑誌の部数と金のことしか考えず、ジャーナリズムの欠片もないクソ野郎め。あんな邪悪な野郎どもに、しずくが餌食にされるなんてあってはならない。やはりしずくを守れるのは俺だけだ。他の誰も頼れないのなら、俺が彼女に忠告してやらなければ』
『二〇二〇年三月七日
しずくのポストに、蓑田と須賀の行状を記した手紙を入れておいた。これで彼女は目を覚まして、蓑田や須賀と縁を切ってくれるだろう。それでも連中が彼女を付け狙うなら、その時こそ俺がやつらに裁きを与えてやる』
『二〇二〇年三月十五日
足のつかない店で特殊警棒を買った。バイトの身には痛い出費だったが、これもしずくを守るためだ』
『二〇二〇年十月二十八日
しずくの周辺で蓑田や須賀を見かけることはめっきりなくなった。きっと俺の手紙を読んで、やつらの本性を思い知ったのだろう。名前こそ書かなかったものの、彼女はきっとあの手紙を読んで俺のことを思い浮かべてくれたに違いない。いつだって、しずくのことを一番に考えているのは俺だけだ』
『二〇二一年六月三十日
しずくはすっかりブレイクしたようだ。テレビでしずくの姿を見ない日はなく、そろそろでかいCMも決まるんじゃないかという噂もある。元カレとしてとても誇らしい。彼女の成功を裏で支えたのは、間違いなく俺なのだから』
『二〇二一年十一月一日
しずくがタワーマンションに引っ越した。調査はしにくくなったが、そのくらい稼げるようになったのは素直に嬉しい。しかし、彼女の姿がなかなか見られなくなったのは残念だ。しずくを守るためには、他の調査対象を追う時間を減らして、もっとしずくを追う時間を増やさないとまずそうだ』
『二〇二二年五月四日
おかしなやつと出会った。あまり詳細には書けないが、やつは不気味なくらい俺の心を見透かしていた。なぜだかわからないが、俺はやつに言いようのない嫌悪感とおぞましさを感じていた』
『二〇二二年八月十九日
やつは俺としずくの関係を懸念しているようだった。しずくはもっと俺の気持ちに応えるべきだとやつは言っていたが、俺は鼻で笑ってやった。俺はしずくが幸せならそれでいいんだ。見返りなど求めたことはない。やつにはまだ、俺としずくの深い繋がりを理解できないのだろう。俺は少しだけやつが哀れに思えた』
『二〇二二年九月三十日
耳が腐るような話を聞いた。詳細は書く気も起きないが、しずくと俺の関係性を著しく傷つけるような話だった。バカバカしいと激昂したが、やつは「俺としずくの愛の深さを証明してみせろ」とのたまいやがった。いいだろう。しずくと俺の愛がどれだけ深く、代えがたいものか証明してやる』
重要な部分だけを抜粋して読んでいたが、それでも速水は湧き上がる嫌悪感を止められなかった。
日記の中で、高樋は自分を「秋森を守るナイト」か何かと勘違いしているようだったが、傍目から見れば一方的な感情を秋森に押し付けているだけのストーカーに他ならない。直接本人に危害を加えないだけまだマシではあるが、秋森の立場からしてみれば、高樋には不気味さと恐怖しか感じなかっただろう。
いずれにせよ、日記には高樋の潜伏先のヒントは残されていないようだった。最後の方に出てきた『おかしなやつ』というのが何者なのかは気になるが、現時点ではその人物にたどり着く術はなさそうだった。
一通りアパート内の捜索を終え、大家を見送ってから車に戻る。正式な家宅捜索ではなく、あくまで捜索願の範囲内の捜査だったため、日記やパソコンなどを押収できなかったのは残念だったが、得られたものは大きかった。
「警棒を所持していて、蓑田や須賀に殺意を抱いていた。その上、失踪する直前のあの書き込み……犯人はやはり、高樋で間違いなさそうですね」
「……ん? あぁ。そうだな」
槇原は気のない返事をするが、おそらく高樋の居場所について考えを巡らせているのだろう。速水は特に気にせず、話を進めることにした。
「高樋は今どこにいるんでしょう?」
「今の段階じゃ、まだ情報が少なすぎるな。高樋のスマホのGPS情報を携帯キャリアに問い合わせてるから、その返事を待つしかないな」
槇原はそれだけ言うと、会話を打ち切るように腕組みして助手席にもたれかかった。眠るように瞑目しているが、考えに集中しているのだろう。さすがに邪魔するのははばかられたので、速水も黙って運転席に背中を預ける。
フロントガラスの向こうに広がる闇は、より一層色を濃くしているように見えた。
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