第二章 ドン・ファンの死
1
この世には、始末すべきクソ野郎があまりにも多すぎる。
夜の街を歩きながら、〈騎士長〉は慨嘆していた。
通りには、深夜になっても人がひしめくバーに加え、誰も知らない音楽を爆音で垂れ流すライブハウスが所狭しと並んでいる。バーでは女をナンパして連れ帰ろうとするサルどもが、ライブハウスには『バンドマン』というブランドを餌に女を釣ろうとするバカどもが、客の女を値踏みしながら狩りを楽しんでいるに違いない。
だが、〈騎士長〉にはそういった連中への共感は微塵もなかった。〈騎士長〉はただひたすらに彼女の幸福だけを追い求め、彼女への愛だけを貫き通す。彼女からの愛など求めていない。ただ彼女の障害となるものを、一人一人確実に排除していくだけだ。
日中にチェックした防犯カメラの位置を避け、ターゲットの自宅付近へ向かっていく。徐々に周囲が住宅街に変わっていき、街灯や建物の明かりも減っていく。
こぢんまりとしたアパートにたどりつくと、〈騎士長〉はアパートの脇の細い小路に身を潜めた。
夜の闇と完全に同化し、息を殺してじっと待つ。得物を右手に構え、目を凝らしてやつが帰ってくるのを待つ。
しばらくじっと待っていると、遠くから不規則な足音が聞こえてきた。
足音が少しずつ大きくなり、次第に小路の向こうに男の姿が見えてくる。
小綺麗にカットされた髪に、百八〇センチを超える長身。普段は整った顔立ちをしているはずだが、酒をしこたま飲んだのか、表情はだらしなく緩んでいる。足取りも完全に千鳥足で、壁に手をついてないとまともに歩けもしないようだった。
獲物の姿を確認すると、〈騎士長〉は武器を構えながら足音を抑えて小路を出た。アパートの壁に手をついてるターゲットの後頭部に向けて、得物を振り下ろす。
がつん、という鈍い音が手を通して伝わってくる。
初撃をもろに食らって、ターゲットはその場にうつ伏せに倒れるが、構わず〈騎士長〉は得物を彼の頭に叩きつける。何度も何度も打ち据え、確実に死んだと確認できたタイミングで、得物をしまって素早くその場を離れる。
住宅街を足早に歩きながら、〈騎士長〉は満足げに口元を緩める。
また一人、彼女を傷つけたゴミを片付けた。彼女をたぶらかし、彼女の貴重な時間と体を貪り食ったクズ野郎。死んで当然の汚物を処理したことで、吸い込む空気もいくらか清潔になったような気がしてくる。
だが、まだだ。彼女を傷つけた野郎はまだたくさんいる。
そいつらをすべて片付けるまで、〈騎士長〉の狩りが終わることはないのだ。
十月十一日、朝五時。第二の被害者が現れたという電話で叩き起こされ、速水は取るものもとりあえず現場に駆けつけた。
現場は下北沢の住宅街の外れで、小さなアパートの前だった。時間も時間なだけに、野次馬やマスコミはまだ姿を表していない。珍しく槇原も遅れているようなので、速水は初動捜査にあたった警官たちから情報を引き継ぐことにした。
被害者は須賀和馬、二十八歳。蓑田茂と同様、後頭部を棒状のもので何度も殴打されており、傷口はグロテスクな様相と化している。後頭部だけでなく右側頭部にも打撃痕があり、このあたりも蓑田殺害と状況が酷似している。財布の中身やスマートフォンは抜き取られておらず、普段から人通りが多い場所だけに毛髪や下足痕は期待できそうにない。住宅街のため付近に防犯カメラもなく、あっても夜陰のせいで犯人を鮮明に捉えているかはかなり怪しい。第一発見者はアパートの住民で、早朝出勤のバイトのために家を出ようとしたところで遺体を発見。犯人と思しき人物は見ていないとのこと。念のため須賀和馬の名前をネットで検索かけたみたら、舞台を中心に活動する売れない役者の名前がヒットした。所属プロダクションのホームページを確認したところ、清潔感があって女受けしそうな甘い顔立ちに、一八〇センチの長身という特徴が被害者と一致していた。
遅れてきた槇原にわかっていることを報告すると、彼は忌々しげに髪をかきむしった。
「クソっ。やっこさん、まさか連続犯だったとはな」
「同じ手口で犯行を繰り返すなんて、完全になめられてますね」
「まったくだ。畜生!」
槇原は憤懣やるかたないといった様子で、鑑識班が忙しなく働いているのをじっと睨みつけていた。
しばらくして検視官が到着すると、ざっと遺体の状態を見てから槇原に話しかけてくる。
「蓑田茂殺害事件とほぼ同じだな。犯人の利き手は右手で、死因は脳挫傷。傷口の具合からして、凶器に使われた武器も蓑田の事件のものと同一と見ていいだろう。DNA鑑定で蓑田のDNA反応が検出されたら、同一犯かどうかはっきりするだろう。遺体がほやほやなもんで、死亡推定時刻はかなり絞れる。だいたい今日の二時から三時あたりの間だろうな。アルコール臭がするので、被害者が酔ってるところを襲ったんだろうな。おかげで、ろくな抵抗もできずに殺されたようだ」
検視官に礼を言って見送ると、速水は思考を巡らせる。
犯人の目的は一体なんなのだろう。蓑田茂と須賀和馬の接点を追っていけば、いずれは共通点が見えてくるだろうが……もし共通点が見つからなかった場合、最悪無差別殺人という可能性も考慮に入れなければならなくなる。
もしそうだとしても、これ以上犠牲者を出すわけにはいかない。
速水が覚悟を決めたのを見てか、槇原が燃えたぎるような瞳を向けてくる。
――絶対に犯人を止めるぞ。
言葉にせずとも伝わる熱意に、速水は小さくうなずきを返し、捜査のために動き出した。
所属プロダクションのサイトに記載されている出演舞台を手当たり次第に検索し、主催している劇団の連絡先を調べ、早朝のうちにアポを取れたのが劇団『下北座』の主催だった。
電話で告げられた場所は下北沢の貸しスタジオで、須賀の殺害現場とは駅を挟んで反対側に位置していた。
スタジオの中に入ると、小柄な男が速水と槇原を出迎えた。俳優にしては十人並みの顔立ちだが、一度見たら忘れられないほど目が痛くなるような配色の古着で全身をコーディネートしている。
彼はなめるような目つきで速水の全身を眺めてから、握手を求めるように右手を伸ばしてきた。
「ども。『下北座』の座長で、和馬の俳優仲間の立澤隆二っす。隆二って呼んでください」
「警視庁捜査一課の速水と槇原です。捜査へのご協力に感謝します」
握手を求める手を完全無視し、速水は自己紹介を簡単に済ませた。
だが立澤はまったくめげた様子もなく、強引にこちらの右手を取って握手してくる。
「こんな美人に会えるなら全然オッケーすよ。それに、大道具製作で行き詰まってて、ちょっと息抜きしたいところだったんで」
絡みつくような指の動きに怖気が走るが、速水はなんとか嫌悪感を表に出すのをこらえた。
聴取の相手が速水に好意を持っている場合、捜査のハンドルは自動的にこちらに回ってくる。もちろん、助けを求めれば槇原は助けてくれるだろうが、速水は個人的な感情で自分のすべきことから逃げたくはなかった。
絡みついてきた指をやんわりとほどくと、速水は速やかに本題を切り出す。
「須賀さんとは俳優仲間とのことですが、須賀さんがどういう方だったお聞かせいただけますでしょうか?」
「和馬かー。ダチの俺が言うのもなんですけど、あいつはやべーやつっすからね。よくつるんでましたけど、俺でもちょいちょい引くようなことやってたし」
「具体的にどんなことをしていたんですか?」
「マジでえぐいっすよ。あいつとは大学の時に出会ったんだけど、その時からあいつは雑誌モデルとかしてて、大学でもめちゃくちゃモテてたんすよ。その頃、和馬はもっと知名度上げたいから俳優になりたいと思ってて、俺もちょうど『下北座』の立ち上げを考えてたから、和馬がいればチケットの売れ行きもよくなるかなと思って誘ってみたんです。でもあいつ、演技の練習とか全然する気なくて……顔がいいだけで役者としてやっていけると勘違いしてるタイプで、練習にはこないわ、小道具や大道具制作は手伝わないわで、めちゃめちゃ扱いがめんどくさいやつだったんすよ。でも……」
「でも?」
立澤は両手を広げて、芝居がかった調子で続ける。
「あいつ、人を集めるのは抜群にうまかったんすよ。脚本担当とか小道具担当とか、女優志望の女の子とかもすぐに連れてきて、その子ら目当てで男どもも増えて……あっという間に無給で協力してくれる二十人くらいの劇団員が集まりました。それに、チケットノルマだってあいつだけは余裕で達成してましたしね」
「すみませんが、チケットノルマというのは?」
「劇団って、舞台のチケット売上が収入源じゃないですか。客に劇場に来てもらわないと金になんないんだけど、劇場を借りるのにも小道具、大道具を作るのにも金がかかる。その出費をどうにかして舞台のチケット代で賄わなきゃならないから、売るほうとしては結構必死なんですよ。だから、劇団員一人一人にチケットを何十枚かずつ強制で買わせて、それを友達とか家族とかに売ってきてもらうんす」
「それは……相当な負担ですね」
「えぇ。俺も最初はひーひー言ってました。でも和馬だけは別で、あいつはどんな無茶なノルマでも簡単に達成しちまうんです。それこそ、クラブでナンパした女の子とか、バーで出会ったOLとか、初対面の相手でもがんがん仲良くなってチケットを売っちゃうんです。正直助かるんで、俺らもあいつに頼り切りで助けてもらってたんすけど……それがきっかけで、和馬はどんどん態度がでかくなっていって。チケットノルマを全部背負う代わりに舞台の利益は全部よこせとか、もっとでかい劇場で舞台をやって箔をつけたいとか。しかも劇団員の女はほとんど和馬のファンみたいな連中だから、あいつの意見を押さえるのはホント大変で」
「意見の対立があったんですね」
「そんな高尚なもんじゃなくて、和馬がただ駄々こねてただけっすよ。まぁそんなわけで劇団は真っ二つに割れちゃって、結局和馬はほとんどの女の子を連れて、劇団やめちまったんです。ただ、あいつって演技に関してはホント努力を一切しないもんだから、所属プロダクションのほうじゃ全然役者の仕事がこないんで、すぐに『客演で出てやってもいい』とか言ってきたんですけどね」
言って、立澤は友人の行動を蔑むように笑った。
「うかがってる話からすると、須賀和馬さんの行動がそこまで『えぐい』とは私には思えないのですが」
「そのへんの話はここからっす。チケットノルマの件で『自分は金を稼げる』って自信を持ったみたいで、和馬は大学も辞めちまったんです。あいつ顔がいいし、事務所所属の役者って肩書を最大限に活かして、女の子を落としまくってヒモみたいな生活をし始めたんですよ。で、毎晩あちこちの女をヤり捨てたり、金持ちの奥さんをたぶらかしたり、嘘話をこいて女から金をせびったり……まぁそのくらいは若手タレントなら誰でもやってることなんだけど、その内あいつはデビュー直後のタレントや若い女優なんかを狙うようになったんすよ。そういう子らを口説き落としたら、タレントの子らが寝てる間にスマートフォンを覗き見したり、スパイアプリ入れるなりして売れる前にスキャンダルのネタを握って、その子が売れたらそのネタを使ってまた金をせびるんだって言ってましたよ。ね? えぐいでしょ?」
そう言って、立澤は笑い話のように楽しげに笑い出した。
速水はこの小男に完全に生理的な嫌悪感を抱いていたが、それでも聞くべきことはまだあった。
「須賀和馬さんを恨んでいる人物に心当たりは?」
「んー。正直わかんないっすね。俺は和馬目当ての女優や客を離さないために和馬とつるんでただけだし、和馬は役者って肩書を捨てたくないがために俺とつるんでただけっすから、ダチって言ってもお互い利用してるだけって感じで、プライベートの込み入った話はあんまりしないんですよ。和馬と飲む時もあるけど、だいたいあいつに女と金についてマウント取られるだけだから、愚痴られたこととかもないし」
「須賀さんに捨てられた女性や、須賀さんに彼女を奪われた男性の情報などはご存知ありませんか?」
「それも詳しくは知らないなぁ。正直に言うと、あいつを恨んでるやつなんて山ほどいると思いますよ? 和馬のやつ、うちの劇団の中だけでも十股してたことがあって、一時期劇団の女子メンバーがぎすぎすして最悪だったんすよ。まぁそういうやつなんで、遅かれ早かれ誰かに刺されるんじゃねーの、って気はしてましたけどね」
「須賀さんの知人の中に、蓑田茂という人物はいませんでしたか?」
「蓑田って、この間殺されたテレビプロデューサーの人? え、和馬の事件ってあれと関係あんの?」
「念のためお聞きしているだけで、関連性については現在調査している段階です」
「ふーん。でもまぁ、和馬から男の知り合いの名前なんか聞いたことないからなぁ。二人が知り合いだったかどうかなんて、俺にはわかんないっすよ」
「そうですか。これは形式的な質問なのですが、立澤さんは今日の二時から三時の間、どこで何をされてましたか?」
「アリバイっすか? その時間なら、ここで大道具作りをしてましたよ。ずっと一人でやってたんで、証言してくれるやつはいないっすけど」
「ご協力いただきありがとうございます」
礼を言って去ろうとすると、立澤が慌てて呼び止めてきた。
「ちょっと待って! ねえお姉さん、和馬のことでなんか思い出したら、その時はこっちから電話してもいい?」
「構いませんよ。その時は、槇原と一緒にお話を聞かせていただきます」
下心が丸見えの立澤に、脈はないときっぱりと伝える。
ぽかんとしたまま立ち尽くす立澤を置き去りにして、速水と槇原は車に戻った。運転席のドアを締めると、速水はどっと疲れが押し寄せてきて、ハンドルに突っ伏した。
「大丈夫か」
助手席の槇原が声をかけてくるのに、速水はうなずきで返した。
男性から性的な視線で見られるのは、いまだに苦手だ。本能が反射的に危機感を感じ、嫌悪感が全身を駆け巡る。あの舐め回すような目つきで見られると、嫌でも思い出したくない過去がフラッシュバックしてくる。
――幸か不幸か、速水は子どもの頃から容姿に恵まれていた。そのせいで小学生の頃から変質者に付け回され、電車に乗れば痴漢に会い、同級生からストーカー被害を受けたこともあった。
だがその中のどんなことよりも最悪だったのが、高校三年の時に母親が再婚した時だった。
義父は初対面の時から、速水のことを舐め回すような目つきで見つめてきた。何度も気のせいだと思おうとしたが、知らない内に下着がなくなっていたり、やたらボディタッチが多かったことで、速水は確信に至った。母親にも相談したものの、生活に困窮していた母は離婚を避けるために、娘の訴えを黙殺しようとした。速水も母親の再婚をぶち壊すのは忍びなかったので、高校卒業まで義父を無視して、そこから先は住み込みで働ける場所に逃げ切ればいいと思うようになった。
だが――無視され続けた義父は逆上し、ある日速水をレイプしようとした。
幸い予感はあったので、武器を準備していたおかげで行為に至る前に逃げることはできたが、あの時の記憶は忘れようとしても忘れられるものではない。怒りと欲望にぎらついた眼光に、歯をむき出しにして舌舐めずりする獣の形相。寝間着越しに胸を揉みしだかれた時の、全身に鳥肌が立つような嫌悪感。そして、目の前の男に生殺与奪権を握られているという恐怖。
その後すぐに児童相談所に駆け込み、母とも義父とも縁を切ることになったが、刻まれた傷痕はいまだ癒えることはなかった。
何度か深呼吸して気持ちを整えると、速水はようやく顔を上げた。
「槇原さん。聴取に口を出さないでくれて、ありがとうございました」
「……いやみかよ」
「本心ですよ」
速水がこれからも刑事を続けていくのであれば、ああいった状況に何度も遭遇することになる。槇原が同行している間に、もめずにあしらう方法を練習できたのは、速水にとって貴重な経験だった。おそらく、槇原はそこまで考えて、あえて前に出ずに速水に任せることにしたのだろう。
考えがバレて照れくさいのか、槇原は顔を見られないように窓の方へ視線を向けた。
「そんなことより、さっさと車を出せ」
「はい」
速水は苦笑してから、エンジンを始動させた。
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