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 アカウント名『七瀬』の自宅は高円寺のマンションにあった。

『七瀬』はウェーブのかかった黒髪を背中まで伸ばした、妖艶な感じの美女だった。オフショルダーの上衣から伸びる白い腕は目に眩しく、タイトなジーンズは脚のラインを綺麗に魅せている。華やかな顔立ちには、なぜか疲れの色が濃く浮かんでいた。

 室内に迎え入れられたあと、1Kの部屋でテーブルを挟んで向かい合った。速水が自分たちの自己紹介を終えると、『七瀬』もあとに続く。

「グラビアアイドルをしている七瀬瞳です。蓑田さんとは何度か、お仕事でご一緒させていただきました」

「失礼ですが、お二人のメッセージアプリのやりとりを拝見しました。お二人はどういったご関係だったのでしょうか?」

 速水が踏み込んだ質問をすると、七瀬は困ったように眉を寄せた。

「あれを見られてしまったんですね。それなら正直に言いますけど、私と蓑田さんの間には何度か体の関係がありました。きっかけは、八年くらい前かな……元々十八歳からレースクイーンをしてたんですけど、仕事の幅を広げたかったので、二十歳になってからグラビアアイドルとしての仕事も始めたんです。その一環として蓑田さんの番組のオーディションにも出て、そのオーディションには落ちたんですけど、もう一度チャンスをくれるっていうので一対一のオーディションを受けさせてもらって……」

 そこから先の流れは、光石から聞いた話とほとんど一緒だった。

「八年間ずっと、蓑田さんの気分で呼び出されて、セックスさせられて、代わりにバラエティの仕事をもらって食いつなぐっていう生活を続けてました。でも私、バラエティ番組に出てもあんまり結果を出せなくて……今度こそ、今度こそと思っても空振りを繰り返して、ずるずると関係を長引かせてしまったんです」

「最近も蓑田さんから連絡があったようですが、それには応じられたんですか?」

「いいえ。実は私、芸能界を引退して結婚することになったんです。なので、もう蓑田さんとの関係は終わりにしたいと思っていたんですけど、あの人に面と向かってそんなことを言ったら、プライドを傷つけられたと思って結婚の妨害をしてくるかもしれない。それで、蓑田さんが私を忘れてくれることを祈って、黙ってやり過ごそうとしていたんです」

「八年間も関係を続けるなんて、蓑田さんはあなたに相当ご執心だったんですね」

「いえ、正直あの人は私に特別な感情はなかったと思います。ただ、私は全然芸能界で売れる気配がなかったので、都合がよかったんだと思います。それに、体の相性もかなりよかったらしくて……『お前は三十超えても遊んでやるからな』って言われた時は、正直震え上がりました。この人は、いつになったら私を解放してくれるんだろうって」

 その時の気持ちを思い出したのか、七瀬は寒さに耐えるように両腕で自分の体を抱きしめた。

「早く逃げないと、まともに結婚できなくなる歳まで彼にしゃぶり尽くされるかもしれない。そう思って、ここ最近は必死に婚活してたんです。そうしたら、三ヶ月前にいい方と縁があって」

「ということは、出会ってから三ヶ月で結婚ということですか? すごいスピードですね」

「彼のほうもちょうど結婚を考えていたみたいで、収入の面でも家事の面でもお互いにサポートし合えるとわかったので、話がまとまるのが早かったんです」

 七瀬は嬉しそうにほころんだ顔をしていたが、次の槇原の質問で冷や水を浴びせられる形となった。

「そんな状況で蓑田さんから連絡があったとなると、さぞかし恐ろしかったんじゃありませんか?」

「……はい。結婚を発表するまで連絡がこなければ、うまく逃げ切れるんじゃないかと期待していたので、連絡が来たときには目の前が真っ暗になりました」

「蓑田さんからの呼び出しを無視したあと、蓑田さんがなにかほのめかしていましたね」

「あれは……もう隠しても無駄ですね。蓑田さんはセックス中の映像を隠し撮りするのが好きで、一度その映像を見せられたことがあったんです。私が消してって頼んでも消してくれなくて……蓑田さんはきっと、いつか私が言うことを聞かなくなった時のために、あの映像を残していたんですね。彼が最後に送ってきたメッセージも『その映像を流出させてやるぞ』という意味だったんだと思います」

「ひどい話ですね。その脅しから一ヶ月近くが経ちましたが、その後映像の流出はあったんですか?」

「あの日から週刊誌やネットのニュースサイトなんかを毎日チェックしてますけど、今のところリークされていないみたいです。ただ……『明日発表されるのかもしれない』『来週には記事になるのかもしれない』と思って毎日怯えていたら、だんだんノイローゼみたいになってきちゃって。最近は不安で夜もあんまり眠れないんです」

 でも、と前置きしてから、七瀬は心底ほっとしたように表情を緩めた。

「もしかしたら、今日からはやっとぐっすり眠れるのかもしれませんね」

「そうなるといいですね」

 応じる槇原は眉一つ動かさないまま、光石の時と同じように紙とボールペンを用意する。

「ちなみに、あなたと蓑田さんの関係を知っている方がいたら、こちらに氏名と連絡先を記載して頂けますか?」

「誰もいない場合はどうすれば」

「その場合は、七瀬さんの名前と連絡先を書いていただければ」

 促されるままに、七瀬は紙にペン先を滑らせた。当然ペンからインクが出ず、槇原から替えの芯を受け取った。口金を右手で回して芯を替え、自分の名前と連絡先を書いて、ボールペンとともに槇原に戻す。

「これは形式的な質問なんですが、昨日の二十二時から二十四時の間、どこでなにをされてましたか?」

「この部屋で彼氏と過ごしてました」

「確認を取りたいので、彼氏さんの連絡先を教えていただけますか?」

「それはちょっと……あの、彼には蓑田さんとのことを知られたくないんです」

「お気持ちはわかりますが、必要な手続きですのでご協力ください。もちろん、蓑田さんとの間のことは話しませんから」

「本当ですか? それなら……」

 七瀬はもう一度ボールペンを手に取ると、紙に松嶋秀明という名前と電話番号を書き記した。

 速水と槇原は、改めて感謝の意を伝えて部屋を出た。駐車場に停めていた車に乗り込むと、槇原は七瀬に書いてもらった連絡先を取り出す。

「もののついでだ。リストより先にこっちを片付けるか」

「了解です」

 槇原が隣で電話をかけている間、速水は七瀬のことを考えていた。

 頭痛の種だった蓑田が死んだことで、彼女は少しは救われるのだろうか。

 捜査の手を抜くつもりは毛頭ないが、女として七瀬たちに同情する気持ちを消すことはできなかった。モノのように扱われ、下卑た視線を浴びせられ、そのことを訴えるとお前にも原因があると責め立てられる。どこに行っても同じような話が転がっているものだと、速水は苦い思いを噛み締めた。

 速水自身、槇原と組むまでは警察内部でひどいセクハラを何度も受けてきた。飲み会に強制参加させられてべたべたと体を触られたり、公務中に車の中で不倫を持ちかけられ、断ったら別部署に飛ばされたこともある。セクハラを告発したこともあったが、上司たちは警視庁の不祥事を公にすることに難色を示して何度もうやむやにされ、しまいには速水のほうが問題児のように扱われた時期もあった。助けてくれる女性警察官もいたが、裏では「上司に色目を使っている」などと陰口を叩かれていた。

 たぶん、自分は槇原と組んでいなければ警察を辞めていただろう。正義を夢見て始めた仕事だったのに、蓋を開けてみれば欲得と保身ばかりが目について、毎日が地獄だった。夢や子どもじみた憧れがずたずたに引き裂かれ、踏みつけにされた時、速水の心は確かに一度壊れてしまった。官舎を出る度に吐き気がして、非番の日は翌日の仕事のことを考えて眠れなくなった。捜査に没頭できていなければ、自殺を考えていたかもしれない。

 七瀬たちも、あの時の自分と同じ気持ちでいるんだろうか。もしそうなら、自分にとっての槇原のような存在が、彼女たちの前にも現れてくれることを願うばかりだった。

 物思いにふけっていると、電話を終えた槇原が住所を告げるので、速水は指定された住所に向かって車を走らせる。

 七瀬の彼氏である松嶋の自宅は新宿にあり、数十分ほどでたどり着いた。新築のタワーマンションの高層階に住んでおり、松嶋氏の収入額がうかがえる。

 玄関口の呼び鈴を鳴らすと、中から爽やかな風貌の男が出てきた。髪をしっかりとワックスで固め、整った顔立ちには人好きのする笑顔が浮かんでいる。年齢は三十過ぎくらいだろうか。仕事から帰ってきて間もないのか、ワイシャツとスラックスという服装には清潔感も感じられた。

 今回は相手が男性ということもあり、槇原が前面に立って対応する形だった。

「警察の方ですか?」

「夜分にすみません。事件の捜査で二、三質問したいことがありまして」

「いえいえ。警察への協力は市民の義務ですから。どうぞ中に入ってください」

 案内されて中に入る。リビングのテーブルにつくなり、松嶋は浮かれた様子でしゃべり出した。

「いやあ。実は僕、ミステリ小説を読むのが趣味なんですよ。本物の警察に捜査されるのなんて初めてだから、なんだか興奮しちゃうなぁ。それで、どんな事件のことなんですか?」

「すみませんが、事件の詳細については言えないんです」

「そうなんですね。あー、なんか本物の警察っぽいなぁ。あ、そういえば自己紹介がまだでしたね。松嶋秀明といって、新宿でIT企業の役員をしてます」

「捜査一課の槇原と速水です。早速なのですが、昨日の午後に、松嶋さんがどこでなにをされていたかを教えていただけますでしょうか?」

「昨日の午後ですか。昨日は金曜だったので、普通に仕事してましたね。えーっと……十二時に新宿の定食屋でランチして、それからずっとオフィスで仕事して、仕事を上がったのが二十一時くらいかな。二十一時半くらいに彼女の家に行って、それからご飯食べたり映画見たりして、そのまま彼女の家に泊めてもらいましたね」

「松嶋さんが三十分以上一人になる時間などはありませんでしたか?」

「んー……どうだろ。定食屋はたぶん防犯カメラとかに映ってるんじゃないかな。定食屋と会社の移動は往復でも十分くらいだし、仕事中はずっと誰かしらオフィス内にいました。電車で彼女の家に移動してる間は三十分以上ひとりだったけど、それも新宿駅の防犯カメラに映ってるはずですね。彼女の家についてからはずっと彼女と一緒だったので、そこからは特にないですね」

「ありがとうございます。最後に、彼女さんの名前と連絡先を書いていただいてもいいですか?」

「もちろんです」

 松嶋は進んでボールペンを手に取り、槇原に差し出された紙に彼女の連絡先を書こうとした。槇原は律儀にまたインク詰まりを起こしている芯に戻しておいたらしく、松嶋は右手でボールペンの口金を回して芯を取り替え、右手で紙に七瀬瞳の名前と連絡先を書く。

 書き終えてボールペンと紙を返す時に、松嶋は困ったように眉を寄せた。

「質問がこれだけってことは、これってたぶん瞳のほうのアリバイの裏付け捜査ですよね? 捜査一課で昨日の夜ってことは、蓑田さんの事件かなぁ」

「蓑田さんをご存知なんですか?」

「バラエティ番組を観てる人間からすると、有名人ですからね。今日はもうどの局もそのニュースでもちきりでしたし。ていうか、蓑田さんの殺人事件で瞳が疑われてるって、あの二人なんか関係があったのかなぁ」

 まずい。松嶋のミステリ好きが完全に裏目に出ている。

 速水はうまい言い訳を考えるために必死に頭を回転させるが、とっさには何も出てこない。その間に、すでに松嶋は核心に触れてしまっていた。

「あー、たぶんアレか。瞳と蓑田さん、そういう関係だったんですね。そう言えば付き合う前は、蓑田さんの番組にちょいちょい瞳が出てたし、瞳に蓑田さんの話振ったら話題そらされたこともあったな。アリバイ確認なんて容疑者にしかしないんだから、瞳が容疑者になるほど蓑田さんと接点あったんだとしたら、そっち系の関係くらいだもんな」

「……失礼ですが、憶測で物事を判断すべきではないかと。我々の捜査内容についてはご説明できませんが、我々の捜査が原因で、見ず知らずの女性にご迷惑をおかけするのは不本意です」

「んー。でも、それ以外想像できないっていうか。瞳のやつ昨日はオフだって言ってたから、昨日蓑田さんとたまたま一緒に仕事してたってわけでもないし。いやー。プロデューサーと寝ちゃうかー」

 松嶋は表情を隠すように顔に手を当てると、深くため息を吐いた。

「あーあ。せっかく芸能人を奥さんにして連れに自慢できると思ってたのに、枕営業で食いつないでただけの芸能人とか、バレたらクソダサいじゃん。枕とかほとんど風俗嬢みたいなもんだし。マジで結婚考え直せないかなぁ。あいつ結婚に必死だったし、揉めるのめんどくさいんだよなぁ」

 愛想のよい仮面を取り払った松嶋は、口からヘドロのようなゴミを撒き散らし始める。

 こちらの不手際でバレてしまったとはいえ、この反応にはさすがに腹が立つ。七瀬のことをまるっきりトロフィーワイフとしか思っていない。よほど文句を言ってやろうかと思ったが、それをすれば七瀬と蓑田の関係を認めることになってしまう。

 速水の不穏な空気に気づいたのだろう。槇原は咳払いして全員の注意を集めると、話を終わらせにかかった。

「瞳さんという方は存じ上げませんが、もしご不安があるようでしたら、一度ご本人ときちんと話をするのがよいかと思います」

「たぶん、刑事さんは瞳に口止めされてるんですよね? 刑事さんから聞いたとか言わないので、そのへんは安心してください」

「ですから、我々には何のことだか……とにかく、ご本人ときちんと話してみてください。それでは、我々はこれで失礼します」

 最悪の後味を噛み締めながら、駐車場の車に戻る。助手席に座るなり、槇原は座席に深く身を沈めて天を仰いだ。

「クソっ。すまねえ、俺のミスだ」

「いえ、あれはどうしようもなかったと思います」

「しかしな……これであの娘の結婚が破談にでもなったら、人の人生狂わせることになっちまう」

「あんな男と結婚するほうが、よっぽど人生狂いそうですけどね」

「えらく辛辣だな」

 槇原は苦笑していたが、速水としては冗談のつもりはなかった。結婚してから松嶋の本性に気づいたのでは、七瀬にとっては遅すぎる。バツがついた女性は結婚しにくくなるだろうし、あんな男のせいで七瀬の人生に傷がつくのは割に合わない。

「とにかく、彼女には電話でこのことを知らせておくから、お前は運転を頼む」

「わかりました」

 うなずくが、速水はどうしても七瀬のことが気がかりだった。彼女が恋人の本性を知っているのかはわからないが、疲れた顔をしていた彼女に、必要以上に心労をかけるのは忍びなかった。殺人事件の捜査はまだまだ糸口がつかめておらず、しばらくは忙しくて時間も取れないだろうが、余裕ができたら彼女に会って話をしてみよう。

 そのためにも、まずはこの事件の捜査を進展させなければ。

 隣で電話をかける槇原に聞き耳を立てながら、速水は車のエンジンに火を付けた。

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