不実な神が支配する

森野一葉

第一章 ゼウスの死

1

 この世に神が存在するなら、そいつはきっと最低のクソ野郎だ。

 罪に罰を与えることもせず、悪人を野放しにし、あまつさえ連中がこの世の春を謳歌するのを止めようともしない。虐げられたものたちがどれだけ苦しみ、嘆き、悲鳴を上げようと、その声に耳を傾けることもない。

 きっとやつは、この地獄を上から眺めて、悪趣味な出し物を見るみたいに笑っているに違いない。

 だが、そんなクソ野郎を楽しませてやる義理などない。

 罪には罰を、悪人には報いを。誰もそれを与えられないというなら、自分が与えるだけのことだ。

 夜の底で息を潜めながら、〈騎士長〉は逸る気持ちを抑えるように得物を握り直した。

 繁華街から離れた住宅街には、すでに人の気配は絶えている。表通りは街灯やマンションの明かりで多少視界が確保されているが、細い路地をひとつ曲がってしまえば、先の見えない闇の中に放り込まれる。

〈騎士長〉は路地裏の隅で息を殺しながら、獲物が通るのをじっと待っていた。

 入手した情報が確かならば、やつはそろそろこの道を通るはずだ。日中にざっと歩き回って、付近に防犯カメラがないことの確認も済んでいる。心の準備などとっくに済ませている。

 あとは標的が通りさえすれば――そう思った矢先に、表通りを人影が通り過ぎた。そっと路地裏から出て、通り過ぎた男の後ろ姿を確認する。

 間違いない。あの男だ。

 彼女を利用し、散々に傷つけ、今また再び彼女の人生を土足で踏み荒らそうとしている男。裁かれざる悪人。他人の傷を踏みつけにして、この世の春を謳歌するクズ野郎。彼女の未来を守るために、この男は絶対にここで始末しなければならない。彼女を傷つけるものを徹底的に排除し、彼女の未来を守り続けることこそが、自分が彼女に向けられる最大限の愛情表現に他ならないのだから。

 確信を得ると同時に、〈騎士長〉は路地裏から足を踏み出した。右手の凶器が音を鳴らさないように気をつけながら、歩調を合わせてそっとやつの背後に近づいていく。

 近づく足音に気づいたのか、やつは足を止めてこちらを振り返ろうとする。

 その頭頂めがけて、〈騎士長〉は右手の凶器を思い切り叩きつけた。

 がつん、という鈍い音とともに手が痺れるように痛む。一撃で気絶したのか、やつはそのままうつ伏せに地面に倒れたが、〈騎士長〉は構わずその後頭部を凶器で殴り続ける。

 がつん、がつん、がつん、がつん――無心に殴り続け、確実に死んだと確信を持つに至って、ようやく〈騎士長〉は手を止めた。

 カエルの死骸のように無様に倒れ伏した男を一瞥してから、〈騎士長〉は凶器をしまって足早にその場を歩き去る。まだ人が寝静まるような時間帯ではないが、周囲のマンションや民家の住民が犯行に気づいた様子はない。

 上出来だ。これで彼女の敵をひとり片付けられた。自分の彼女への愛が証明された。

 だが、まだだ。まだ始末するべきクズどもは山ほどいる。彼女のためにも、速やかにやつらを始末しなければ。

 確かな満足感で胸を満たしながら、〈騎士長〉は闇の中へ身を没した。


 死骸にカラスが集まるように、殺害現場にはたいてい野次馬やマスコミが集まってくる。

 五反田の住宅街の表通りには、早朝だというのにすでに人だかりができていた。野次馬もマスコミも携帯電話やカメラを掲げ、なんとか現場の写真を撮ろうと必死になっている。

 速水詩織はうんざりしながら野次馬を押しのけて、なんとか黄色いバリケードテープの前までたどり着いた。テープを持ち上げて現場に入ろうとすると、現場保存を担当していた警官に道を塞がれた。

「ちょっとあなた、勝手に中に入らないでください!」

 詩織が無言で警察手帳を見せると、警官は目を丸くして彼女の顔を凝視した。

 肩まで伸ばした髪を後ろで束ね、細い鼻梁に切れ長の瞳。整った顔立ちに加えて、高めの身長と引き締まった体躯もあいまって、刑事というよりはファッションモデルのような容姿をしている。喪服のような黒いパンツスーツを着ていなければ、とても本物の刑事だとは信じてもらえなかっただろう。いつものことながら、こんなやり取りを繰り返すことも鬱陶しかった。

「し、失礼しました!」

 敬礼して道を開ける警官を無視して、速水はテープの内側へ入った。

 五反田の住宅街の表通り、その歩道の上で男がうつ伏せに倒れている。おそらく彼が被害者なのだろう。検視官が彼を調べ、鑑識が忙しくその周囲を動き回っているのを横目で見てから、速水は相棒に頭を下げた。

「すみません。遅れました」

「この時間の呼び出しだ。気にするな」

 言って、槇原はヤクザか凶悪犯かという強面をこちらに向けた。一九〇センチ近い長身に、柔道五段、剣道五段で鍛えられた筋肉もあいまって、遺体のそばにいるとこの男が犯人のように思えてくる。だが実際のところ、槇原は非常に優秀な刑事であり、速水にとっては数少ない尊敬できる先輩でもあった。

 こちらの質問を先回りするように、槇原は持っていた手帳を読み上げた。

「被害者は蓑田茂、四十二歳。身分証を見たところ、自宅はこの近くだったらしい。財布から現金類が抜き取られた形跡はなし。スマホは鑑識が本庁に持ってって解析中。今、別の班が令状を取って自宅の中を調べに行ってる」

「第一発見者は?」

「近くの住民だ。このへんを毎朝ジョギングしてるらしいが、その時に発見したらしい。細かい話はあっちで聴取中だ」

 言って、離れた場所で聴取されている青年を親指で指す。すっかり怯えた様子で、あたふたと受け答えしている様子を見ると、とても容疑者とは思えなかった。

「付近の防犯カメラは?」

「今のところ見つかっていない。まぁ住宅街だし望みは薄いだろう」

 聞きたいことを聞き終えると、ちょうど検視官がこちらに歩いてくるところだった。槇原は彼に近づくと、挨拶もそこそこに検死結果を確認する。

「お疲れ様です、検視官。で、一体どんな具合で?」

「詳しいことは検死してみないと断言できんが、死因は棒状のもので後頭部を殴打されたことによる脳挫傷。おそらく数回の殴打で死亡しているはずだが、犯人は死んだあとも何度も殴打を続けている」

「死亡推定時刻は?」

「それこそ検死しないと断言できねえが……ざっと見た感じでも、死後それなりに時間が経ってる。おそらく殺害時刻は昨日の夜頃だろうな」

 礼を言って検視官を見送ると、槇原はあごに指を当てて思案する。

「財布に現金類が残されているところを見ると、強盗目的ではない。防犯カメラの目を盗んだ上、殺したあとも執拗なまでに暴行を続ける……まぁ、普通に考えりゃ怨恨による計画殺人なんだろうな」

「怨恨の線であれば、まずは家族か職場を当たる感じになりそうですね」

「それが、被害者は独身で親も亡くなってるようでな。家族と呼べるほど身近な人物はいないらしい。職場がどこかについては、自宅の捜査に当たってる連中が調査中だ」

「それなら私が力になれると思いますよ」

 突然横から割り込んできた声に、槇原と速水は同時に振り返る。

 見れば、カメラを持った痩せぎすの男がにやにやとこちらを値踏みするように眺めていた。

「マスコミか? ここは立ち入り禁止だぞ」

「そんなつれないこと言わないでくださいよ。実は私こういうものでして……」

 槇原が受け取った名刺を横からのぞき込むと、『週刊晩秋・記者 長濱京次郎』と名前が記載されていた。

「ゴシップ週刊誌の記者さんか。どっちにしろ、あんたが現場に入っていい道理はない。さっさと出ていってくれ」

「そんなこと言っていいんですかねぇ。私なら、被害者の職業をお教えして差し上げられるんですが」

「あんた、被害者の知人なのか」

「えぇ。蓑田さんとは懇意にさせてもらってましてね」

 どうやら、被害者を知っているというのは嘘ではないらしい。速水は一歩前に出て、長濱に質問をぶつける。

「あなた、被害者とはどういうご関係ですか?」

「……おっと。刑事にしては、えらいべっぴんさんですね。一瞬モデルか女優かと思いましたよ」

「お世辞は結構です」

「お世辞じゃないんだけどなぁ」

 長濱は懲りずに無駄口を叩こうとするが、速水は冷たい眼光で返答を急かせる。世辞が通用しないと悟ったのか、長濱はようやく本題を口にした。

「協力するのはやぶさかではないんですがね。こっちは情報を商売にしている身ですから、見返りがないとなんとも……」

「警察に賄賂を要求するつもり?」

「まさか! ただ、捜査に進展があったら優先的に情報を共有してほしいというだけのことでしてね。弱小ゴシップ記者にとっては、警察からの鮮度のいい情報は喉から手が出るほど欲しい次第でして」

「申し訳ありませんが、私たちの立場ではお約束できませんね」

「それは残念。なら代わりに、美人刑事さんの連絡先を教えていただけるだけでもいいんですがね」

 またこれか。速水がうんざりすると同時に、槇原が間に割って入ってきた。

「くだらないことで時間を使わせるな。あんたの協力がなくたって、職場の特定くらいとっくに進めてるんだよ。協力する気がないんだったらとっとと失せろ」

「そ、そんな怖い顔しないでくださいよ。ほんの冗談じゃないですか」

 槇原の強面に気圧されて、長濱はようやく口を割った。

「刑事さんたちは知らないかもしれませんが、蓑田茂ってのは芸能界じゃ結構名の知れた番組プロデューサーでね。東都テレビでヒットしたバラエティ番組といえば、そのほとんどが蓑田さんが手がけたものなんですよ」

「じゃあ、職場は東都テレビってことか」

「えぇ。でもおわかりの通り、芸能界の人間関係ってのは複雑怪奇ですからね。過去に放送していた番組も含めて、演者やその関係者、番組スタッフまで含めると、蓑田さんと働いた人間は途方もない数になるでしょうね」

 芸能関係と聞いた時点で予想はしていたが、やはりそうなるか。槇原を見ると、彼は「長引きそうだな」とでも言うように肩をすくめてみせた。

「まぁ捜査に行き詰まったら連絡をくださいよ。条件次第で、ゴシップ記者特有の情報をご提供しますから」

 こちらの心情を知ってか知らずか、長濱はにやにやと笑いながら速水にも名刺を押し付けてきた。その瞳に下卑た光が宿っているのに気づいてはいたが、速水はかろうじて嫌悪感を顔に出すのをこらえた。

「ご協力ありがとうございます」

 長濱がバリケードテープの外に出るのを見届けてから、速水は蓑田茂の名前でスマートフォンで検索をかけた。検索結果に長濱の言った通りの情報と、本人の顔写真が出てくるのを確認してから槇原に顔を向ける。

「被害者の身元は彼の証言通りのようですね。顔も一致してますか?」

「ああ、被害者で間違いない。車を取ってくるから、お前は警部に連絡しといてくれ」

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