菊の行方

人喰い刀

第1話 雪中の赤

「昭和維新の春の空

   正義に結ぶ益良雄が

      胸裡百万兵足りて 

         散るや万朶の桜花」


その歌が聞こえて老人は目を覚ました。

「あぁ。あぁ…夢であったか。」

手元のランプを付けて時計を見るとまだ夜中であった。


彼の名は白藤。百歳を過ぎた老人である。

懐かしい歌を思い出したものだ。

長い人生の中で埋もれていたあの出来事が鮮明にその脳裏に浮かんだ。

若かりしあの頃、彼の心に深く爪痕を残したあの出会いを…


昭和十一年。1936年2月26日。

白藤青年は午後からの授業に出るため、家を出て不忍池を通り、上野駅に着いた時に異変に気が付いた。


人だかりが出来ているその中をくぐり抜けると、目に入ったのは小銃に銃剣を付けた将兵達の壁であった。

将校が叫んだ。


「今日は汽車は動かん。

       皆、早々に家へ帰れ。」

青年はその異変に驚く。いつものあの日常とはあまりにも違う現実にしばし目を疑った。

我にかえると

急ぎ親に伝えるべく家に帰る事にした。

23日から降り続いた30年振りの大雪で上野公園はすっかり雪景色。

その静かな美しい風景に反して人々は慌てふためき、動揺の中である。

千駄木方面に歩いている途中で、軍の輸送車が通りすぎる。

尋常ではない。

五・一五事件を思い出した。

これはやはり大事だ。

白く吐く息も荒々しく家へと帰った。

彼は高等学校に通っていて家は裕福で、いわゆる華族階級の分家である。

普段は彼の荷物を持つ付き添い人もいるが、今日は風邪を拗らせ休んでいる。

根津神社近くにある自宅に着く。

それは立派な門構えの家だ。玄関までは石畳。両脇には立派な椿に松、竹林に灯篭。

玄関を開けると、すぐに母が出迎え

「如何したのですか?」と驚いた様子。

すぐに居間へと上がり訳を話す。

「上野駅が陸軍の部隊に封鎖されております。

帰る途中に多くの軍用車両が宮城(皇居)の方へ向かうのも見ました。」


「そうか…今日は大人しく家にいなさい。」

そう言うと父はラヂオを付けた。

白藤青年はかじかんだ手を火鉢で暖めた。

その手は小刻みに震えていた。


帝都不祥事件と呼ばれたクーデター未遂の起きた日であった。


ラヂオはもちろん新聞にも何も情報は入らなかった。

その日の午後、重く暗い帝都東京の空には気味悪く、偵察機が舞っているだけであった。

父も母も流石に不安な形相である。


午後七時にラヂオから戦時警備令が発令された後に、事の次第が分かったのは午後八時三十五分。

臨時ニュースが陸軍省の事件の概要を発表。


青年将校ノ一団、重臣ヲ襲撃

首相、内府、教育総監即死ス。


皆、不安な夜を過ごす事となった。


布団の中で白藤青年は、目にしたあの光景を思い出していた。純白の雪景色の中に、鮮明に映えた将兵達の軍帽の、その赤い色が印象的であった…


翌朝、朝刊の一面は事件の事で溢れていた。

既に戒厳令が発令され、内閣は総辞職。


「やはりこのような事が起きたか…」

父が重い口を開いた。


日露戦争、シベリア出兵に関東大震災、第一次世界大戦に世界恐慌、大正デモクラシーの後に広がり始めた社会主義、そして昭和恐慌、東北の冷害による大飢饉と生糸の値の暴落による農村の困窮。

この時代、日本国民の多くは貧しく不平、不満が溢れていたのだ。


老人はポットから湯呑みにお湯を注ぐと

ベッドの脇の窓を開けて、白湯を飲みながら夜風にあたった。

「夜明け前が一番暗いのだな…

      醒めよ日本の朝ぼらけ。」

懐かしい事を思い出したものだ。

そうだ。あの海に行きたいものだ。

あの元士官候補生と過ごした、北鎌倉の先にある鵠沼の海に。






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