第31話 気にすんな
そこは小さなアパートの一室。
夏の暑い日差しが窓から差し込み、蝉の鳴き声が煩く響いている。
部屋にはテーブルに座る二人の男女と、その部屋の隅で
泣き声も出さず、ぽろぽろと涙を流すその少女に二人が顔をしかめる。
「そうやってすぐに泣くところも、可愛げの無いところも本当にお前は母親そっくりだな」
「ほんと、口もきかないしニコリともしない。一体どこの男に似たんでしょうね」
「なんだと? 俺に似たって言いたいのか!?」
また始まった。口論を繰り返す両親から目を背け、少女は抱えた膝に顔を伏せる。
ぽろぽろと溢れ落ちる涙が細い太腿を伝った。
◆◆◆
閉じた目からゆっくりと涙が頬を伝う。ぼんやりとした意識の中、日野はそっと目を開けた。
夢に現れたのは幼い頃の自分……何故今更こんな夢を見たのだろうか。
瞬きをすると、再び涙が溢れ落ちた。その涙を、大きな手が優しく拭う。
「……ザック先生」
「嫌な夢でも見ましたか?」
ゆっくりと離れた手の先へ視線を向けると、アイザックが微笑んでいた。
何故ザック先生が傍にいるのだろう。私はどのくらい眠っていたのだろうか。
ズキっと痛んだ頬に手を当てると、湿布のようなものが貼られていた。
日野はぼんやりとした記憶を手繰り寄せ、何が起きたのかを思い出す。
赤みがかった髪の子供を追って行った先で、本を見せてもらっていた時に激しい頭痛に襲われた。
そして誰かに殴られて、気を失った……。
あの時、自分の身体に何が起きたのだろうか。確か、本を見たとき……本……あの本は……。
だんだんと蘇る記憶に、日野はハッとして飛び起きた。
「あの本……」
「……見失っちゃったけどね」
日野が声のした方を向くと、椅子に座っているアイザックの後ろからひょっこりと顔を出したハルが、眉を八の字にして笑っていた。
「ハル……」
「ま、話はあとにしましょう。お腹空いたでしょう? グレンが晩ご飯を作ってくれてますから」
そう言ってアイザックが目線を向けた方を見ると、部屋に備え付けられているキッチンでグレンが料理をしている。
言われてみれば、部屋の中には美味しそうな匂いが漂っていた。
「グレンは料理上手ですから、期待していいですよ」
アイザックはそう言って立ち上がると、座っていた椅子を持ってテーブルの方へと向かう。
その大きな背中に、日野は申し訳なさそうに声をかけた。
「あの、ザック先生」
「どうかしましたか?」
「ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、顔色も良くなって安心しましたよ。頬の腫れは少し時間がかかるかと思いますが、綺麗に治りますから安心してください。それに、日野さんを助けたのは私ではなくあの二人とアルですよ」
「そうだったんですか……でもザック先生も、本当にありがとうございます」
「怪我人を看るのも、医者の勤めですから」
いつも通りのアイザックの笑顔に安心する。
寝てばかりではいられないと日野がベッドから出ようとすると、キッチンから鍋を持ったグレンが不機嫌そうな顔でやってきた。
「何が医者の勤めだ、よく言うよ。俺にはブツブツ文句言ってたくせに」
「それはグレンが怪我人をパーティー会場に寄越すからですよ! 突然飛び込んで来たかと思えば、私の名前を叫んで兄貴を助けてくれって泣き出して……本当に大変だったんですから」
「パーティー会場に行けとは言ってない。アイザックって名前の医者を探せって言っただけだ。おじさんなら、どんな奴でも見捨てないだろ?」
そう言って、グレンはテーブルに鍋を置いた。
当たり前です、と溜め息混じりに答えるアイザックの横で、ハルが椅子に登り、よだれを垂らしながら鍋を見つめている。
相変わらず仲の良い三人の温かい空気にホッとしながらも、日野はグレンとハルにまた迷惑をかけてしまったことに気を落としていた。
ベッドから出ると、三人が集まるテーブルの方へ向かう。
「グレン、ハル、ごめんなさい。迷惑かけて……」
「ああ」
「ずっと、赤い髪の子供が気になってて、思わず追いかけちゃって」
「ああ」
「離れるなって言われてたのに、急に走り出して……心配かけて、ごめんなさい」
「他に言いたいことは?」
「……みんな。助けてくれて、ありがとう」
そう言って、日野は頭を下げた。
恐る恐る顔を上げるとグレンが目の前に立っていて、頭に大きな手が乗せられ長い黒髪をワシャワシャとかき回される。
見上げると、グレンはフンっとそっぽを向いてキッチンへ戻っていった。
「気にすんな、だそうですよ」
どういう意味なのか分からず呆けている日野を見て、アイザックがクスクスと楽しそうに笑っている。
「グレンって変なところで不器用だよね〜」
ハルも頬杖をついてニコニコと微笑んでいた。
気にすんな、ということはグレンは怒っている訳ではないと思っていいのだろう。
ホッと息を吐くと、ハルの方へと目を向ける。すると、ハルが椅子からサッと降りて駆け寄ってきた。
「気にすんな!」
ニッコリと笑って小さな手が日野の手を引き、そのままテーブルへと連れて行かれる。
すっかり日が落ちた街の中、とある宿屋の一室で、四人と一匹の騒がしい夕食が始まった。
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