日のあたる刻

柚中 眸

第1話 人選り

『僕、この人にするよ』


 そう言って、少年はゆっくりと本を閉じた。


 その日、日野ひの憧子しょうこは、職場であるビルの屋上に立っていた。照りつける夏の日差しがジリジリと肌を焼き、ねっとりと温かい外の空気が体力を奪っていく。めまいを起こして倒れてしまいそうな午後だったが、頬に当たる風が多少暑さを紛らわせてくれていた。


 緩やかに吹く風が、長い黒髪をなびかせている。それを耳にかけながら、日野は九階建てのビルの屋上から街を見下ろした。


 目下に広がるこの世界では、日々多くの人々が忙しなく動き回り、そんな人々を乗せて走る車であふれていた。


 日野は幼い頃からずっと、この街で生きてきた。だが、薄い角膜を通して見える街はとても退屈で、同じことを繰り返す日々の中で徐々に色を失っていった。


 この街から、この世界から抜け出してみたい。どこか違う世界へ行けるのなら、この世界での自分など失っても構わない。いつしか日野は、そう思いながら生きるようになっていた。


 しかし何年経っても、その願いが叶うことはなかった。違う世界へ行こうだなんて、そんな魔法のような力は存在しなかったのだ。


 それよりも、今日の晩ごはんは何を買って帰ろうか。なんてことをいつもと同じように考えながら、ふと腕時計を見た。


 二本の針は午後三時二十五分を指している。そろそろ休憩の終了時刻が迫っていた。


「……戻らないと」


 日野は、溜まったストレスごと吐き出すように溜め息を吐いた。やらなければならない仕事はまだまだ残っていた。早く片付けてしまおうと、日野は屋上から伸びる階段を降りていった。


 ──静かだった屋上とはうって変わって、ザワザワとやかましいオフィスへ戻ってきた。鳴り続ける問い合わせの電話に、不機嫌そうなタイピング音。パタパタと忙しくフロアを小走りするパンプスの音。聞き慣れてはいるが、一人でいる時の静けさと比べると、やっぱりうるさいと感じてしまう。


 疲れた。早く帰りたい。


 頭の中に湧き上がる思いを振り払い、日野は自分の席に着こうと椅子を引いた。するとその時、隣の席の同僚に声をかけられた。


「ちょっと日野さん、このお客様の件なんだけど」


 神妙な面持ちの同僚は、ステープラーでまとめてある数枚の書類をコソコソと手渡してきた。


 何か問題でもあったのだろうかと、日野は受け取った書類をパラパラとめくっていった。そして、最後の一枚に目を通した瞬間、日野の顔色はみるみる青ざめていった。


「しまった……」


 同僚が手渡してきたのは契約書だった。ひとつ下のフロアで客との契約を行うのだが、しっかりと受付したつもりだったのに、サインが書かれていなかった。


 客は一時間程前に帰してしまっているため、もういなかった。日野は、どうしたらよいものかと悩んだ。上司にバレたら、きっと大きな雷が落ちる筈だ。もし客と連絡が取れるなら、今からでもサインを貰いに行くしかない。


 焦った日野は、椅子にかかっていた自身の上着を掴んだ。長年使い込んだ黒いバッグも、上着と一緒に腕にかけた。


 そして、「ちょっと行ってきます」と、それだけ同僚に伝えて、オフィスを飛び出した。


◆◆◆


「……疲れた」


 口から盛大なため息が漏れた。ここは、会社から帰る途中に見つけた小さな公園。そこに設置されていたベンチで、日野は脱力していた。蒸し暑い真夏のはずなのに、座っているベンチは妙に冷たかった。


 あれから日野は急いで客へ連絡を取り、タクシーで待ち合わせ場所まで向かうと、丁寧に謝罪をした上で改めてサインを貰った。客は幸いにも優しい老紳士だったため、咎められることもなく、その場は無事に切り抜けることができた。


 しかし、問題はその後だった。これでミスも隠蔽出来るとホッとしたのも束の間。足早にオフィスへ戻ったところで、待ち構えていた上司の雷が落ちた。


 日野がろくに報告もせずに会社を飛び出した事は、既に同僚が白状していた。サインを貰い忘れたことに加え、勝手に出て行ったことをこっ酷く叱られた。


 長々と続いた上司のお説教からようやく解放された頃には、空は茜色に染まりかけ、どこかでカラスが鳴いていた。普段から割と真面目に働いていた日野にとっては、今回のようなミスは想定外であった。


「今日はもう帰っていいから、少し休みなさい」


 ため息混じりの上司にそう言われてしまったため、そのまま大人しく帰り支度をして、トボトボと会社を後にした。そして、特に何もすることがなくなってしまったため、今はなんとなく、人気ひとけのない公園のベンチでまったりとしているところだった。


 生暖かい風が、緩やかに頬を掠めた。静かで過ごしやすい場所だが、こんなところに公園があるとは知らなかった。過去の記憶を辿ってみるものの、気にもしていなかったせいか、見かけたことがあるかどうかすらも思い出せなかった。なのに、誰もいないこの公園は、初めて訪れた場所にも関わらず妙に落ち着いた。


「どこか違う世界に行けたらな……」


 日野は再びため息を漏らしながら、そう呟いた。


 変わらない退屈な日々に、変わらない自分。いつもと同じことの繰り返しで、やりたいことも、なりたいものも何もない。ただ、言われたことだけをこなしながら、無気力に毎日を生きるだけ。目の前に広がるもの全てが、色の無い世界に見えていた。


 退屈だ。そう思いながら、ふと見上げた茜色の空が眩しくて、日野は目を閉じた。すると、バサリと紙のぶつかるような音がして、突然、膝の上に何かが落ちてきた。


「え……なに?」


 膝に当たった何かから、無機質な感触と、ずっしりとした重さを感じた。だが、公園には自分以外に誰もいなかった筈だ。いま座っているこの場所は、上から何かを落とせるような足場もなかった。


 日野は少し躊躇ためらったが、何かの正体を確認するために、おそるおそる目を開けた。


「……本? すごく綺麗」


 膝の上にあったのは、分厚い本だった。深く濃い青色の表紙には、金色の装飾が施されている。タイトルは書かれていない。表紙の真ん中には小ぶりの黄色い宝石が付いていて、赤い陽の光を反射してキラキラと輝いていた。戸惑いながらも、日野はそっと本に触れた。


 高そうな本だが、新品ではなく古書のようだ。なくした持ち主はさぞ困っていることだろう。


 誰がこんなものを落としたのかなどと想像しながら、日野は立ち上がった。


 振り返りながら辺りを見渡して、持ち主がいないか探してみた。しかし、周囲に人の気配はまったくなかった。自分以外に誰もいないのなら、この本は一体どこから落ちてきたのだろうか。そう考えると、少し気味悪く感じた。


 しかし、気味が悪いという感覚と同じくらい、いつもと違う不思議な出来事に、日野の好奇心が騒ぎはじめていた。日野はベンチに座りなおすと、左手で髪を耳にかけた。そして、そっと青い表紙を開いた。


『僕、待ってたんだよ』


 ふいに誰かに声をかけられ、日野の身体がビクリと跳ねた。今、確かに声がしたのだ。しかし、日野が辺りを見渡しても人影はなかった。


『ずっと、待ってたんだよ』


 幻聴なのか、どこから聞こえているのか全く分からなかった。そしてその声は、耳ではなく何故か頭の中に響いていた。


『早く来て』

「誰? 誰なの? あなたは……」


 言いかけた時、日野の頭に激痛が走った。内側から殴られているような強烈な痛みを感じ、咄嗟に両手で頭を押さえた。持っていた青い本は手から滑り落ち、日野はそのまま地面に膝をついた。


 すると、うずくまった日野のもとに、足音もなく誰かの影が近付いてきた。そして影は、日野が落とした青い本をそっと拾い上げた。


 日野は影に目を凝らした。しかし、すぐに視界が霞みはじめ、意識が朦朧としはじめた。そのため、目の前の影が誰なのかハッキリとは分からなかった。閉じていく瞼の向こうにぼんやりと映ったのは、青い本を抱えた……少年に見えた。


 だが、その姿をしっかりと確認することもできず、日野はそのまま意識を手放した。


 少年は、倒れている日野にゆっくりと近付いた。すると、幼い手に抱えられている本から、金色の光が放たれた。柔らかなその光は日野の小さな体を包み込み、やがて静かな公園には、使い込まれた黒いバッグだけが残された。

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