日のあたる刻
柚中 眸
第1話 人選り
『僕、この人にするよ』
そう言って、少年はゆっくりと本を閉じた。
その日、
緩やかに吹く風が、長い黒髪をなびかせている。それを耳にかけながら、日野は九階建てのビルの屋上から街を見下ろした。
目下に広がるこの世界では、日々多くの人々が忙しなく動き回り、そんな人々を乗せて走る車であふれていた。
日野は幼い頃からずっと、この街で生きてきた。だが、薄い角膜を通して見える街はとても退屈で、同じことを繰り返す日々の中で徐々に色を失っていった。
この街から、この世界から抜け出してみたい。どこか違う世界へ行けるのなら、この世界での自分など失っても構わない。いつしか日野は、そう思いながら生きるようになっていた。
しかし何年経っても、その願いが叶うことはなかった。違う世界へ行こうだなんて、そんな魔法のような力は存在しなかったのだ。
それよりも、今日の晩ごはんは何を買って帰ろうか。なんてことをいつもと同じように考えながら、ふと腕時計を見た。
二本の針は午後三時二十五分を指している。そろそろ休憩の終了時刻が迫っていた。
「……戻らないと」
日野は、溜まったストレスごと吐き出すように溜め息を吐いた。やらなければならない仕事はまだまだ残っていた。早く片付けてしまおうと、日野は屋上から伸びる階段を降りていった。
──静かだった屋上とはうって変わって、ザワザワと
疲れた。早く帰りたい。
頭の中に湧き上がる思いを振り払い、日野は自分の席に着こうと椅子を引いた。するとその時、隣の席の同僚に声をかけられた。
「ちょっと日野さん、このお客様の件なんだけど」
神妙な面持ちの同僚は、ステープラーでまとめてある数枚の書類をコソコソと手渡してきた。
何か問題でもあったのだろうかと、日野は受け取った書類をパラパラとめくっていった。そして、最後の一枚に目を通した瞬間、日野の顔色はみるみる青ざめていった。
「しまった……」
同僚が手渡してきたのは契約書だった。ひとつ下のフロアで客との契約を行うのだが、しっかりと受付したつもりだったのに、サインが書かれていなかった。
客は一時間程前に帰してしまっているため、もういなかった。日野は、どうしたらよいものかと悩んだ。上司にバレたら、きっと大きな雷が落ちる筈だ。もし客と連絡が取れるなら、今からでもサインを貰いに行くしかない。
焦った日野は、椅子にかかっていた自身の上着を掴んだ。長年使い込んだ黒いバッグも、上着と一緒に腕にかけた。
そして、「ちょっと行ってきます」と、それだけ同僚に伝えて、オフィスを飛び出した。
◆◆◆
「……疲れた」
口から盛大なため息が漏れた。ここは、会社から帰る途中に見つけた小さな公園。そこに設置されていたベンチで、日野は脱力していた。蒸し暑い真夏のはずなのに、座っているベンチは妙に冷たかった。
あれから日野は急いで客へ連絡を取り、タクシーで待ち合わせ場所まで向かうと、丁寧に謝罪をした上で改めてサインを貰った。客は幸いにも優しい老紳士だったため、咎められることもなく、その場は無事に切り抜けることができた。
しかし、問題はその後だった。これでミスも隠蔽出来るとホッとしたのも束の間。足早にオフィスへ戻ったところで、待ち構えていた上司の雷が落ちた。
日野がろくに報告もせずに会社を飛び出した事は、既に同僚が白状していた。サインを貰い忘れたことに加え、勝手に出て行ったことをこっ酷く叱られた。
長々と続いた上司のお説教からようやく解放された頃には、空は茜色に染まりかけ、どこかでカラスが鳴いていた。普段から割と真面目に働いていた日野にとっては、今回のようなミスは想定外であった。
「今日はもう帰っていいから、少し休みなさい」
ため息混じりの上司にそう言われてしまったため、そのまま大人しく帰り支度をして、トボトボと会社を後にした。そして、特に何もすることがなくなってしまったため、今はなんとなく、
生暖かい風が、緩やかに頬を掠めた。静かで過ごしやすい場所だが、こんなところに公園があるとは知らなかった。過去の記憶を辿ってみるものの、気にもしていなかったせいか、見かけたことがあるかどうかすらも思い出せなかった。なのに、誰もいないこの公園は、初めて訪れた場所にも関わらず妙に落ち着いた。
「どこか違う世界に行けたらな……」
日野は再びため息を漏らしながら、そう呟いた。
変わらない退屈な日々に、変わらない自分。いつもと同じことの繰り返しで、やりたいことも、なりたいものも何もない。ただ、言われたことだけをこなしながら、無気力に毎日を生きるだけ。目の前に広がるもの全てが、色の無い世界に見えていた。
退屈だ。そう思いながら、ふと見上げた茜色の空が眩しくて、日野は目を閉じた。すると、バサリと紙のぶつかるような音がして、突然、膝の上に何かが落ちてきた。
「え……なに?」
膝に当たった何かから、無機質な感触と、ずっしりとした重さを感じた。だが、公園には自分以外に誰もいなかった筈だ。いま座っているこの場所は、上から何かを落とせるような足場もなかった。
日野は少し
「……本? すごく綺麗」
膝の上にあったのは、分厚い本だった。深く濃い青色の表紙には、金色の装飾が施されている。タイトルは書かれていない。表紙の真ん中には小ぶりの黄色い宝石が付いていて、赤い陽の光を反射してキラキラと輝いていた。戸惑いながらも、日野はそっと本に触れた。
高そうな本だが、新品ではなく古書のようだ。なくした持ち主はさぞ困っていることだろう。
誰がこんなものを落としたのかなどと想像しながら、日野は立ち上がった。
振り返りながら辺りを見渡して、持ち主がいないか探してみた。しかし、周囲に人の気配はまったくなかった。自分以外に誰もいないのなら、この本は一体どこから落ちてきたのだろうか。そう考えると、少し気味悪く感じた。
しかし、気味が悪いという感覚と同じくらい、いつもと違う不思議な出来事に、日野の好奇心が騒ぎはじめていた。日野はベンチに座りなおすと、左手で髪を耳にかけた。そして、そっと青い表紙を開いた。
『僕、待ってたんだよ』
ふいに誰かに声をかけられ、日野の身体がビクリと跳ねた。今、確かに声がしたのだ。しかし、日野が辺りを見渡しても人影はなかった。
『ずっと、待ってたんだよ』
幻聴なのか、どこから聞こえているのか全く分からなかった。そしてその声は、耳ではなく何故か頭の中に響いていた。
『早く来て』
「誰? 誰なの? あなたは……」
言いかけた時、日野の頭に激痛が走った。内側から殴られているような強烈な痛みを感じ、咄嗟に両手で頭を押さえた。持っていた青い本は手から滑り落ち、日野はそのまま地面に膝をついた。
すると、
日野は影に目を凝らした。しかし、すぐに視界が霞みはじめ、意識が朦朧としはじめた。そのため、目の前の影が誰なのかハッキリとは分からなかった。閉じていく瞼の向こうにぼんやりと映ったのは、青い本を抱えた……少年に見えた。
だが、その姿をしっかりと確認することもできず、日野はそのまま意識を手放した。
少年は、倒れている日野にゆっくりと近付いた。すると、幼い手に抱えられている本から、金色の光が放たれた。柔らかなその光は日野の小さな体を包み込み、やがて静かな公園には、使い込まれた黒いバッグだけが残された。
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