譲り合い文化圏

そうざ

Cultural Sphere of Give-and-Take

 夜更けの鈍行列車、残業帰りの俺はその先頭車両のシートにゆったりと腰掛け、うつらうつらとしていた。今日もこれと言って何もない一日だった。

「ユッキーが座んなってぇ~」

「トモッチーこそ座んなってぇ~」

 その笑って欲しいが為に敢えて振り撒いているとしか思えない馬鹿臭が、瞼を閉じたままの僕にも『今時の若者』が至近距離に棲息していると知らせた。

「ユッキーが座んなってぇ~」

「トモッチーこそ座んなってぇ~」

 一組の男女が鼻に掛かった声を発しながら、やんわりと互いの身体を小突き合っている。僕の隣の空いているスペースにどちらが座るかで揉めているらしい。

「ユッキーが座んなってぇ~」

「トモッチーこそ座んなってぇ~」

 俺が越し掛けているのは優先席だった。時刻的に人影が疎らだったので、特に何も考えずここに座ったまでだ。二人ならゆったり座れるが、三人だとちょっと窮屈だろう。他に空いているシートは幾等でもある。それなのに、カップルは再放送のように一字一句変わらぬ会話を繰り返し、その度にヘラヘラと笑い合っている。

「ユッキーが座んなってくんなきゃ、私、泣いちゃう~」

「トモッチーこそ座んなってくんなきゃ、僕も泣いちゃう~」

 不意に、或る日、或る時、何時いつか、何処かの飲食店のレジ前で見掛けた光景が甦った。

「ここはアタシが払うからぁ」

「やめてよぉ、私が誘ったんだからさぁ」

「いつもお世話になってばっかりだから、私に払わせてよぉ」

「そんなの気にしないでぇ、お互い様じゃなぁい」

 二人のババァが、どちらが勘定を持つかで揉めに揉めていた。

 俺は苛立った。一見、自分が相手のコストを引き受けようとする尊い行為に映るが、どこか嫌らしさが見え隠れする。

 アタシは気を遣う良い人間なのよぉ、でも本当はアンタの分まで払いたくなんかないのよぉ、だから精一杯アタシの申し出を断ってよぉ、アンタがアタシの申し出を受け入れようとする一歩手前でアタシは自分の申し出をササッと引っ込めるからさぁ、最終的には自分の分は自分で払う形で纏めましょうねぇ――という腹なのだ。

 俺は妄想の中でババァ達を蹴手繰けたぐり倒し、それぞれの財布をふんだくって床に叩き付けた。

 そして決め台詞。

『譲り合ってんじゃねーっ!!』

「ユッキィってばぁ~」

「トモッチーこそぉ~」

 気が付くと、カップルは身体をくねくねさせながら立ったままイチャ付いていた。

 俺は、カップルに目にも止まらぬ速さで往復ビンタを食らわした後、襤褸切ぼろきれになるまで振り回し、車内の彼方此方あちこちにぶち当たりながら後方車両へとすっ飛んで行くカップルを妄想すると、腕組みをして寝た振りを決め込んだ。

「何で座ってくんないのよぉ、ユッキ~っ」

「トモッチーこそぉ、なんで断んだよぉ~っ」

 どうも譲り合い合戦の雲行きが怪しくなって来た。僕は目を瞑ったまま耳に全神経を集中させた。

「座れば良いじゃん。座っちゃえば良いじゃんっ」

「お前こそ黙って座りゃあ良いじゃんっ」

 その勢いで別れちまえば良いじゃん、と僕は密かにせせら笑った。

 そもそもお前等みたいに血税を納める事もなく繁栄の恩恵に只乗りしている輩に、近代国家にける利便性の具現の適例である所の公共機関のシートに座する権利は与えられていないのだ。譲り合いの美徳を我勝ちに乱用するお前等には床がよく似合う。そう、床に直接、尻を下ろせば良い。お前等みたいな快楽全肯定主義の若者ならば日常的によくやっている事だろう。普段ならばマナーがなっていないと眉をひそめて見下す行為だが、今回に限って忍びがたきを忍んで容認してやる。さあ、床に座れ。そして平伏せっ。土下座しろっ。額を擦り付けて摩擦熱を起こせっ――。

「ユッキィイィ♪」

「トモッチィイィ♪」

「ユッキィイィ♪」

「トモッチィイィ♪」

 いつの間にか、いざこざが妙ちきりんなメロディの歌に変わっていた。俺は堪らず薄目を開け、然り気なく様子をうかがった。

 あろう事か、カップルはお互いを追い掛けるようにその場でグルグルと円を描いて回っていた。キャンプファイヤーの定番であるところのオクラホマミキサーか、原住民が来訪者の為に良かれと思って披露する歓迎の舞い宜しく、疾走する列車の揺れで足元が覚束おぼつかず、今にも僕の方に倒れ掛かって来そうな危さだった。更に飽き足らず、尖らせた口と口とを断続的にチュッチュカと突き合わせているではないか。

 一瞬、もう別の車両に移動しようかと思った。だが、それでは奴等の思う壺ではないのか。この席は、俺が正当な手続きで獲得したのだ。『電車内ニ於ケル自由席ハ早イ者勝チデ占有出来ルモノトス』と六法全書か何かの分厚い本に明示されていると信じて疑わない。実効支配されて堪るか。一度失った領土を取り戻すのが非常に困難である事は、古今東西の歴史が証明している。

「ユッキィイィ♪」

 俺の隣にユッキーが勢い良くドッカと座った、と思ったら直ぐにスックと立ち上がり、また振りを付けながら回り出した。

「トモッチィイィ♪」

 今度はトモッチーがドッカと着席するや否や直ちにスックと起立して回転。

「ユッキィイィ♪」

 ドッカ、スック、グルグル、チュッチュカ。

「トモッチィイィ♪」

 ドッカ、スック、グルグル、チュッチュカすると見せ掛けて、ドッカ、スック、グルグル、チュッチュカしないと見せ掛けてチュッチュカ、グルグル――。

 ここは法治国の筈だ。国連加盟国の筈だ。先進国の筈だ。文明国の筈だ。戦争や大災害、飢饉や貧困を経験しながらも不屈の精神で復興、躍進して来た国だ。自由とは何だ。権利とは何だ。義務とは何だ。責任とは何だ。

 堪忍袋の許容量が限界に達しようとしている。俺はもう直ぐ見えないガスマスクをおもむろに装着するだろう。そして、堪忍袋の緒が切れた時、そこに内包された毒ガスが音もなく噴出するだろう。

 その時、列車が最寄り駅に到着した。俺は、そそくさと列車を下りた。

 若者よ、九死に一生を得たな。逃げる訳ではないぞ。サラリーマンの日常的行動の一環である帰宅行為を粛々しゅくしゅくと遂行しているだけだ。言わば、名誉ある転進なのだ。

 背後でドアが閉まる瞬間、カップルの会話が聞こえた。

「優しい人だね~」

「譲ってくれるなんてね~」

 走り去る列車を睨付ねめつけながら、俺は彼女居ない歴三十年の誕生日が過ぎる瞬間を迎えた。

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