水上バス

らくだや

水上バス

「やっぱり三段変速にしておいて良かったな・・・」

ダラダラと緩い上り勾配が続く広めの歩道を、和俊かずとしは新品の自転車で軽快に進んでいた。

バイト先にはちょっと遠くなっちゃったけれど、学生専用住宅の堅苦しさが無いだけでも良しとしよう。

この三ヶ月の間、アルバイトの日数も増やし、切りつめて切りつめて、やっと引っ越し費用を捻出したのだ。

駅までの距離や、買い物やら何やらで「自転車は必須だぞ?」と友人たちから言われ、交通費もバカにならないしなぁ、と考えた上での「先行投資」として エイッ!という気持ちで買った自転車だ。

多少は海に近い、ということで(潮の香りでもするのかな)と想像していたのだが、まず行き当たったのは運河沿いの広い道路だ。

お汁粉のような色の水の広い水路からは、潮の香りというよりはちょっと生臭いような匂いと、何やら灯油のような匂いが混ざって和俊の鼻をくすぐってくる。

「トシくん、本当にちゃんと一人暮らしなんて出来るの?」と理恵りえに訊かれた声が、川からの風に紛れて聞こえたような気がした。

「どーってことねぇよ!やる気になりゃあ、こんなもんよ!」

和俊は立ち上がり、腰を浮かせてペダルに力を込めた。

もう少しで、桟橋への曲がり角だ。


発着場のすぐ手前に自転車を停め、歩いて行こうとしたが、ふと思い直しもう一度サドルを跨ぐ。

もう少し前に進んでみると、運河がすっかり見渡せる場所があった。

自転車に跨ったまま(ここならこっちに向かって来るのがよく見えるかもしれない)と思ったその時だった。

ほぼ真上からの太陽の光をギラリと反射した、やたらとガラスで覆われたような奇妙な「船」が水飛沫みずしぶきを上げつつ、緩いスピードでこちらに近づいて来るのが視界に入ってきた。

和俊は反射的に左手首の時計に目を走らせる。「あれに、乗ってるのかな・・・?」

好天の土曜日ということもあって、その船には結構な人数の乗客が乗り込んでいるようだった。

前方の大きなガラスに囲まれている展望デッキ部分には、たくさんの人達が岸辺の方を指差したりして笑っている様子まで見える程に近づいて来ていた。

その中で、水色のワンピースを着たひとりの女性が、こっちを見ている。

和俊はズームレンズを操作したように視界が狭まるような錯覚に陥ると同時に(理恵だ)と認識して、右手を大きく振ってみた。

ワンピースの女性もパッと花が咲くような笑顔を見せ、右手を振ってくる。

周りにいるのは東京見物の観光客なのだろうか、一緒になって皆が手を振ってくるのが可笑おかしくて、和俊はもう両手を上げて大きく振って応えていた。


「東京都観光汽船の水上バスをご利用頂きましてありがとうございます・・・こちらの・・・」と自動で流れるアナウンスを聞きながら、発着場の方へ戻るように近づいていった和俊は、自転車を引きながら眩しそうな目で水色のワンピースを見ていた。

「トシくん!すぐわかったよ!アハハ」

「理恵ちゃん、いらっしゃい。荷物ももう落ち着いたしさ・・・水上バスはどうだった?」

「うん、思ってたよりも眺めが良くてね、電車の方が早いけど、半分は地下鉄だし、駅は人が多いし」

「だよなぁ、っても東京は仕方ないけどな」

「船の方が全然気分良かったよ!次もこれ乗って来ようかなぁ」

理恵が和俊の袖口を握って微笑みかけてくる。

(いいなぁこういうの、やっぱり理恵は可愛いんだよな)

「ここからだと、自転車乗ってどれくらい?」

「うーん、10分くらいかな? ああ、でも帰りは「理恵ちゃんの分」があるからなぁ〜」

和俊が手を顎に当てて考える風を見せておどけると、理恵はたちまち頬を膨らませて

「ひっどーい!そんなに重くないんだからね〜!」と和俊の背中を小突いてくる。

自転車の後部の荷台には、100均店で買った硬質スポンジの板を括り付けてあった。

「おっ、こんな工作したんだ、本当は交通違反なんだぞォ〜」

理恵がふざけながらも、横座りでヒョイ、と荷台に体を預ける。

「じゃあ、行くよ、スタート!」

「新居へGO!」

明るく言ってくれる理恵が、和俊には本当に愛おしかった。


来る時に比べたら、緩い下りになっているのもあって、自転車は軽快に進む。

一応、交番の位置などは確かめておいたので、見咎められようなルートは走らずに済みそうで、何の意図もなく、上機嫌の和俊は鼻歌がついて出て来ていた。

「お、カーステレオがONになったゾォ〜」と言った理恵がイェィイェィ!とはやす。

この「イェィイェィ!」が出る時は理恵も上機嫌の証拠だ。

鼻歌から、だんだん言葉が重なってゆくように、風に乗るように歌が口をついて出ていた。


あるがままの心で 生きられぬ弱さを

誰かのせいにして過ごしている・・・・


和俊の腰に回されている理恵の右手に、ぐっとチカラが込められる。

Mr. Childrenの歌は理恵のフェイバリットであり、洋楽育ちの和俊は理恵から教えてもらって何曲かはちゃんと覚えたのだ。

「あっ、そうだ、名もなき、じゃないけど・・・この二つ向こうの通り沿いにさ、出来たばっかりのカフェがあるんだ」

「何ですとぉ〜」カフェ、と聞いて理恵が黙っているわけがない。

「偶然見つけたんだけどね、店の名前がさ『名無しカフェ」っていうんだ」

「へぇ!なにそれ〜 面白そう!」

「コーヒーも美味かったし、ケーキもいくつか自家製、って言ってたからさ、理恵もきっと気にいるよ」

「えー、自家製ケーキなんて、かよっちゃうよ〜」

和俊は(ここに連れてきたら、きっとそう言うだろうな)と思いながら先週一人でコーヒーを楽しんだのだ。

他にも、買い物やちょっとした公園など、何処を歩いていても(理恵と一緒に)と想像してしまう。

そもそも、借りた物件そのものが不動産屋と大家から「ここは、二人暮らしでも良いんですよ〜」と言われているのだ。


この街に越してくるまで、和俊にとっては結構な「人生の岐路」であったことは間違いない。

東京の大学にストレートで受かり、仕送りを貰いつつ半分は寮のような学生アパート住まい、二年生から始めた写真ラボ・スタジオでのアルバイトが妙に自分の性に合っていて、職場の面々も学生にありがちな不規則なスケジュールを理解してくれた上できちんと教育してくれ、学生にしては、という時給も出してくれていたので、職場・従業員お互いに「良い関係」であるのは間違いなかった。

だからこそ、だったのかも知れない。

和俊は、同級生たちが就職活動に本腰を入れ始めた頃から、妙に「しらけた気分」になってきていた。

「カメラマンにでもなるのかよ?」とあざけられたりもして、多少「ムッ」としたこともあったが、そんな肩書きを身につけるにはどれだけ大変なのか、という現実がわかっていたので、苦笑をもってそういった同級生の嫌味を退しりぞけることができた。


サークルの二年後輩である理恵も、もう就職活動を本気で始めている。

和俊が去年に「今年はもう就職活動はしない、まずは今のバイト先でフルタイムでやってみて、それで自活することを最初の目標にする」と宣言した時、理恵は「大賛成、は出来ないけれど、でも、トシくんはその方がいいのかも・・・」と言ってくれたし、「なんか、普通のサラリーマンになるトシくんもちょっと想像できない」とクスクス笑っていたので、まぁ、いわば「許容範囲」って事なのかな・・・と判断できていた。

「女子の方が、大変なんですからね?」と言うのは全くその通りで、同期の女子も郷里に帰ってしまったのが何人もいる。

でも、引っ越しが決まってからは二人の間でそういう話題があまり出なくなった。

和俊は、いわば呑気に考えていたし、理恵は理恵で、あえて就職の話題を出してこなくなっていた。


「ああ、南向きでいい窓だねぇ」理恵が窓際に座って外を眺めている。

「まだ陽が長くて、これから夕焼けが期待できるよ」

「ふーん・・・」

遅めの昼食を二人で部屋でゆっくり食べ、理恵が持って来てくれたDVDの映画を一本観終わったところだ。

理恵が窓から空を見ながら、手をニギニギ、とするように和俊に向けて動かしてみせる。

(こっちに来て)のサインなのだ。

「ね、空がピンクっぽくなって来た・・・」

「ああ、やっぱり夕焼けだ」

部屋のフローリングに、夕陽を浴びている理恵の影が長く伸びている。

和俊は理恵の右側から、彼女の長い髪越しにその影を見ていた。

「影が・・・重なっていくね」

理恵も影を見ているようだった。


ゆっくりとこちらを向いた理恵の髪を撫で、和俊は唇を重ねていった。

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引っ越して三ヶ月、理恵がこの部屋にやって来る時は必ず水上バスで来ていた。

しかし、段々と理恵の就職活動が忙しくなり、和俊もフルタイムでのラボの仕事に加え、土日や祝日も写真撮影のアシスタントなどに呼ばれるようになると、会える頻度はどんどん下がっていった。

メールなどで近況を報告しあったりしても、理恵にとっては「厳しい現実」を突きつけられる毎日を送っているわけだし、和俊は言わば「クリエイティブな業界」の居心地の良さにすっかり浸かってしまっていた。


話が噛み合わなくなって来るのは もはや当然とも言えた。


久しぶりに和俊は桟橋のいつもの場所で水上バスを待っていた。

いつものように水上バスは水飛沫を上げてやって来る。

寒さ故か、少なくなった観光客に混じって、ベージュのコートを着た理恵がニッコリ笑って手を振る。

桟橋の乗降船口からブーツの音を鳴らしながら近づいてきた理恵は「自転車じゃないの?」と尋ねてきた。

「うん、寒いしね・・・ちょっとそこらに入ろうか」


国道沿いのファミリー・レストランに腰を落ち着け、飲み物だけを注文した二人は向かい合った。

「おめでとう、内定取れたんだって」

「うん、第一志望じゃなかったけど、業種は一緒」

「やっぱり、外資系の・・・?」

「せっかく語学で資格取れたんだし・・・本当はもっと資格取らなきゃいけないんだけど」

「ふーん・・・翻訳とかは?仕事で出来たりするの?」

「そんなの、無理よ。入れただけでも・・・・」御の字なのに、というのは呑み込んだ。

「翻訳やりたい、ってずっと言ってたのになぁ」

「そんなこと、言わないでよ、コドモの夢じゃない、そんなの」

「・・・・・」

「・・・・・」

「もう、あたしたち、会わない方がいいよね」

「どうしてそうなるの?」

「だって・・・トシくん、変わらないんだもの・・・」

「そのままでいい、って言ってくれたじゃん?」

「・・・・」

「他に誰か?」

「それはないよ」キッ、と顔を上げた理恵がすぐに言った。

「それはない、トシくん以外の人と、って そういうのは今は全然考えられない」

「俺だってそうだよ」

「・・・・」

「・・・・」

「わかった、会わない方がいい、ってのは確かにそうなのかも」

「嫌いになった・・・?」


「なるわけないだろっ!」自分でも イケネ、っと冷や汗が出るくらいの声量だった。


「俺は・・・そりゃ俺のやりたいようにやってきたよ、就活だって「なんか違う」ってなってさ」

「でも、もう今は半分正社員の扱いで、社会保険だって入れたし、手取りだって同期の奴らより5マン以上多いんだぜ?」

「それは認める、トシくんが頑張ってたのは知ってるし、認めてもらえたのも・・・」

でも、なんかズレちゃったよね。というのは和俊も同意するしかなかった。

(俺は悪くない、間違った判断はしてない)という気持ちは強かった。

しかし、理恵が単純に心変わりした、というわけでもないのだ。


「このまま、離れるのが 二人にとっての正解なんだな」

コクリ、と頷いた理恵だったが、涙は見せなかった。


理恵も、自分からサヨナラを言うことが正解なんだと信じていたようだった。


いつの間にか、窓の外は雨模様だ。


二人それぞれの悲しみが満ちていくように 雨雫が落ちた。


_________________________________


春の気配の頃

和俊は中古で買った一眼レフカメラを肩から襷掛たすきがけにして自転車を漕ぐ。

(やっぱり三段変速だよ、な)

運河沿いのいつもの歩道を、桟橋に向かって進む。

職場で色々アドバイスを貰い、自分でもカメラで撮影することが楽しくなってきた。


特に水の動きが良い。


今日もまたいつもの場所に来た。

水上バスの水飛沫が見える。


和俊はゆっくり、カメラを構えて 水上バスの展望デッキにピントを合わせる。

シャッターは押さずに、カメラを降ろして眼を閉じてみる。


水色のワンピースだけが残像のように揺れていた。


眼を開き、「よし、行くかぁ!」大きな声で呟くと、また運河沿いの道を自転車で戻って行く。


Mr.Childrenの鼻歌を歌いながら。

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水上バス らくだや @rakuda_ya

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