第39話 七月二十一日、午前八時五十二分。+一周。
うまく嵌まらない鍵穴を、ぐりぐりと押し込み差し込む。
錆び付くドアは、キーっと古めかしさばかりが誇張されているようだった。気持ち、開けづらかったようにも思う。そのドアの奥には暗がりの廊下が間伸びするように続き、逆光照りつけ一本の人影が浮かび上がっていた。一人分の影。小さな女の子風の影だ。これは、僕の皮の影だ。
見た限り、解錠者である僕の他には誰もない、寂れた廊下である。
しかし、それが、そうではない、と。僕は既に知っているのだが。
「…………た、ただいま」
返ってくる声なんて無いことも知っている。
案の定、灰色の静けさだけが無尽蔵に押し寄せてきた。外の蝉時雨だけがいやに懐かしく、遠い存在に思えてしまうほどに。三日と一日過ごした部屋だというのに、世界から隔絶されたような錯覚に陥るぐらいには色素の濃い空間で、つい息を忘れてしまいそうになる。暑さ以外の汗が、ブワッと噴き出す。
そっと、肺に蟠る空気を吐き出す。憂慮がある。呼吸するたび心臓が痛くなるぐらいの憂慮が。
いつしか憶えた脳の間取りのままに、僕は靴を脱ぎ、迷うことなく和室へと向かった。
「…………いるんなら、返事ぐらいして欲しいんやけどな」
ガラリと障子を開けるも、広がるのは虚空。箪笥と文机、丸机のみ。
……カーテンがひとりでに翻る。窓を閉め忘れてたろうか。
……しかし、それでも妙に蒸し暑い。
……いかん、神経が過敏になっている証拠だな。落ち着け。
和室の中央にある丸机を見遣る。しかし、その上には何もなかった。
書き置きをここに置いておいたはずだ。それが、無い、ということは。
「……書き置き、確認自体はしてくれてるんかな」
……すると、居ることは居る、と考えていいのだろうか。あの同居人は。
少なくとも頭が狂っちまいそうな世界で、本当の意味で僕は一人っきりを逃れたらしい。
だが、それで憂慮が払拭し切れるのかといえばノーなわけだ。同居人の存在がひとまず確認できたことは幸いだが、本日は七月二十一日の午前、つまり二度目の朝にあたる。全てがまるっきり遡行してしまっているのであれば、それはとてもかなり非常に困る。
「……『文化祭』の手紙の件、読んでくれた?」
……刺激しないように、太刀振る舞う。
「……笑えるやんな、色々と馬鹿げた現象に囚われてきたけど、ここまでヒドイのは初めてちゃうかな」
そして、言外に伝える。僕の考えていることを。今、僕の置かれている状況を。
まず、僕は憂慮せねばならない。岸辺織葉は『僕』の存在を忘れているのではないか、と。
「……もしかして、僕を追って学校に行っちゃったんかな。……参ったなぁ」
……いいや、そこに居るんだろ。知っている。
……僕には君が見えてない。匂いだってしない。
……けれども、見えない以上に『君』を感じる。
「……なぁ、おるんやろ。……おるんやったら、頼むから返事ぐらいしてくれ」
そして、そうだとすればもう一つ、看過し難い『憂慮』が生まれる。
杞憂であるはずだと噛み砕こうとも、疑念や懐疑心は僕の理性を揺さぶり続ける。信じるもなにも、僕は彼女をよく知らないし、彼女も僕をよく知らないはずだ。なのに、それでも意固地になって馬鹿な仮定であると切り捨て、見て見ぬふりを突き通したのは他ならぬ僕でしかない。
それがわかっていても、こんなもの、疑いすら持ちたくない。
……さっきから、ずっと、あの『化け物』が彼女の連想する度に呼応するように現れるのだ。
……不可視で、威圧的で、ぐじゃぐじゃな感情が絡まり合う、あの『化け物』の存在感、
……たとえ二周目でも忘れられない。
……初対面であったあの日の君と、『化け物』は、あまりにも酷似し過ぎているのだから。
違う、違うぞ、そうじゃないぞと、僕は僕を納得させる言説をいくらも展開してみせる。
けれども、だとすればおかしいじゃないか。僕の奥底の恐怖心は、それを呑み込まない。
……だって、そうだろう。そうじゃないのであれば、
……今だって、同じように怖がる必要がないじゃないか。
……見えていない以上に、見えている君のことを怯えるだなんてあってはならないじゃないか。
「……なぁ、岸辺さん。……どこに、おるんや?」
……頼むから。
……頼むから。
……僕を、見捨てないでくれ。
――――――ポトリっと、足の甲に小さく柔らかい感触が伝わった。
――――――憶えのある感触だった。見ると、それは消しゴムの欠片だった。
――――――それが、線のように伸び、辿り着く先には一枚の紙切があった。
――――――『ここにいますから。』と。
「……き、岸辺さん、やんな?」
『筆談のせいで返事が遅れただけです。泣かないでください。』
……泣いてなんか、、、まぁ、いいか。
機械的な文字列、嫌味な口調、そうだ、これだ。これが岸辺織葉だ。
……そうだ、そうだよな、そうだった。そんなわけがないのだ。岸辺織葉は岸辺織葉であって、それ以外の何者でもない。僕と共に意味のわからない怪事件に巻き込まれ、わけのわからない事態になす術も持たない無垢の被害者なのだ。……だから、『そんなこと』ってのは、あるはずがないのだ。
……そっか、そっか。よかった。
……だったら、僕はまだ君の傍に居られる。
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