第38話 七月二十一日、午前八時四十二分。+一周。
空気を読まない純真無垢な空模様に苛立ちを感じたのは、これで二度目であっただろうか。
なんの原因も責任もない空模様に当たり散らしたって一文の得もないだろう。だが、整理のつかない思考は完全に機能を失っており、その無様を自覚しながら僕は帰路に着いていた。暑さが尋常なく鬱陶しくあり、それを鬱陶しく思えることだけが今の僕が正常な思考回路にあることを感じられる命綱でもあった。
ぐしゃぐしゃに散らかった感情を置きっぱなしで、無心になって歩く。
「――――――りは、織葉っ!!」
だから、グッと、後ろ襟を掴まれて、やっと、彼女の存在に気が付けた。
肩で息をする久遠さん。取り乱した様子で僕の肩を握るように掴み直す。
「……久遠さん、来てくれたんや」
「当たり前やろ!!……あんな、あんなフラフラした状態の織葉を一人で帰らすわけに行かんし!!……織葉、今にも倒れそうな顔色してるのわかってる?」
汗だくの形相で、それでも必死に僕の異変を訴える久遠さん。
さしもの僕の怠惰な思考も、これには怠慢を許さなかった。
「……どんだけ心配したんか、わかってんの?」
「……そっか、ごめんな」
久遠さんの語気の荒さは、怒っているようで、悲しんでいるようで、憐れんでいるようだった。ごっちゃまぜの感情を言葉では端っこをも捕まえきれずに、隔靴掻痒のもどかしさを抱えながらも、「……ほんまやで」とボソッと呟く言葉に色々な感情を感じ取れる。……彼女も、必死なのだ。
優しくて、豊かで、つい好きになっちまいそうな感情をぶつけてくるのだ。
……だから、だからこそ、『僕』は、この問いをせねばならない。
「……ねぇ、久遠さん?」
「……なにさ、もう」
心の奥底から願っている。ただ、僕にとって、どうしようもなく都合のいいことだけあればいいと。
そんなことが起こりようないこと。きっと、それを僕が一番知っているだろうに。そんなことを思う。
「……僕ってさ、何者なんやろうな?」
保健室で唐揚げ弁当を食べさせてもらった。美味しかった。早退した時、一緒に並んで下校した。実はドキドキしていた。言語化し難い罪悪感と、それに勝る幸福感は、出前でとったピザの味を霞ませるぐらいには今もしっかりと覚えている。だからこそ、ショッピングモールでの一件は辛くもあった。
……でも、後悔こそ多かったけれども、本当に楽しかったのだ。
「……織葉がなにを言いたいんか、わかんない」
……あぁ、そうだよな。……そんなもんだよな。
だから、たとえ記憶なんてもんがなくたって僕のことさえ理解してくれていれば、と。けど、そんなもん夢物語も夢物語で、僕だって記憶喪失の身の上で出来ていなくって、それでいて終始僕にだけ都合のいい話がこれだ、なんてことを心の中じゃわかっていたのだ。だって、そんなもん、あるはずないのだから。
……その心構えがあったから、ほんのちょっとだけ、落胆が小さくすんだ。
「織葉は、織葉やろ?……私、難しいことはわからんし」
「……そっか。そうやんな。ごめんな」
「……なにさ。……含んだ言い方しちゃって」
むすっとする久遠さんは、それでもそっぽを向くことなく僕の面倒を見てくれている。甲斐甲斐しいというか、イジらしいというか、その分だけ惨めな思いが積もっちまうもんだから、自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだ。
……口なんてないのに、心は黙ることを知らない。
……あぁ、そうだよな。やっぱ、僕の好きな人は『僕』なんて見てねぇよな、と。
……ちくしょう。……ちくしょう。……ちくしょう。
……だったら、僕がやるべきことなんて限られるじゃないか。
「……じゃあ、ここでお別れやね」
「……送るって。倒れられでもしたら、ホント、ヤダから」
つまりそうになる言葉を、それでも喉を震わせながらしっかりと紡ぐ久遠さん。そうだね、ここからだと君の家までも距離はそう無い。きっと、君のお節介な気性が働いて、もてなそうとでも思っているのだろう。……覚えている。僕は覚えている。あの日、あのうざったい猛暑の日も、君は僕に元気をくれた。
……あわよくば、そんな感情が再燃してしまいそうなぐらいは、惚れ直してしまいそうだった。
「……ありがとう。でも、ごめん。やっぱり、いいや」
だから、これはせめてもの意地だ。最後のワガママだ。
「……しばらく、久遠さんの顔、見たくないんや」
想定なんてしていなかった言葉だったのだろう。久遠さんは目を丸くして、固まってしまっていた。だが、僕は一言一句、意味に誤解を含ませる表現はしていない。これは、僕の心の本音を述べたまでだ。発言を取り下げるつもりも、弁解を施すつもりもない。
気付いた時、久遠さんは目尻に涙を溜めていた。
「……私、……なにか間違えたことした?」
「……なにも間違えてないよ」
「……じゃあ、なんで。……なんでなの?」
なんで、なのだろうか。僕は君が大好きだから、君を裏切る真似事なんて考えられない、とか。僕のことも覚えちゃいないやつなのだから、僕が顔を合わせたくなくなるのも当然じゃないか、とか。なんだか不測の事態というか天変地異みたいな事態が起こっているし、危ないから、このメチャクチャな事態の中に関わっちゃいけない、とか。……なんだこれ、全部嘘っぽいし、そうじゃないだろうと僕は思ってしまっている。。
じゃあ、なんて言ってやれば正解なのだろうか。
僕の心は、なんて、言いてがっているのだろう。
「……僕は、君のことが嫌いだからだ」
……嫌いなわけがあるかと、そう思った。
……けれども、これが正解だとも思えた。
もう、交わす言葉もなかった。僕と久遠さんはお互いに言いたいことが山ほどあっただろうが、目線も合わせずに僕が逃げるように久遠さんの元から去ったせいで呑み込む他なかった。……たぶん、もう二度と会うことはない。会うことを、僕の言葉が拒んだから。岸辺織葉ではなく、『僕』がやったのだから。
さようなら、も言えない別れだった。
――――――――――――
「……これで、これ以上、僕は彼女を傷つけずに済む」
……いいや。そんな殊勝なものだろうか。
「……これで、君のことが嫌いにならずに済むから、か」
……もう、どうでもいいか。
……やっと、決心が付いたのだ。
「……僕が、この異常事態を解決する。……終わらせてやる、こんなこと」
仮称『時間遡行』現象。僕は現在、七月二十一日を繰り返しているらしい。
僕の『記憶喪失』現象に『入れ替わり』現象、岸辺さんの『幽体化』現象、そして校舎の『窓破』事件に街道の化物騒ぎ。それに加えて、またもや不可解で理不尽な現象が自然発生の災害の如く舞い込んできやがったのだ。この分だと、僕が気付いていないだけで他にも多く突飛な現象があるのかもしれない。
だが、それら全ての異常事態を解決し、本来あるべき世界へと向き合う。
それが僕のすべきことであり、僕の在るべき贖罪の形であろう。
それが例え、『僕』の消滅を意味しようとも、僕の意志は変わらない。
青い、青い、青い空は、手を伸ばせども届きそうになかった。
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