第32話 七月二十三日、午前七時十五分。
篠突く雨の朝、透明ビニールの安傘じゃあ、やはり心もとがない。
いやはやしかし、僕は風流のわかる日本人なのだ。そして、この地は古都近江の国。なるほど、感じ方を変えてみりゃ夏の豪雨も乙ではないかね。雨、いいじゃないか。琵琶湖の源泉だ。琵琶湖の母だ。すなわち滋賀県民のおばあちゃん的存在なわけだ。敬老の日に雨乞いをする程度には尊敬すべきが雨なのだ。
ただただ雨露を凌ぐってだけじゃあ『いとをかし』は感じられんだろう。
「……そう、やまない雨など無いのさ」
……あれ、これだと雨がやんでほしいみたいになっちゃうぞ?
『キモいのですが。どうしたのですか?』
なんだと、この野郎。風靡もわからぬ無教養者め。
「……君には『いとをかし』の奥ゆかしさがわからないのですよ」
『頭脳が「いとあはれ」な方に言われても。もちろん誤用です。』
ちなみにですが、と『ここから近所にある石山寺に紫式部は参籠されていました。』だの、『そこで紫式部はかの高名な「源氏物語」を構想し起筆したとされています。』だの、『それらが縁となり石山寺は「文学の寺」とも呼ばれているのです。』だの、聞いても無いことをつらつらと並べ始める岸辺さん。
今日は饒舌だなーと思いながら、一切興味が湧かないので別の話題を振る。
「……そういや、なんだかんだ文化祭一緒に来てくれるんやね」
『気が変わっただけです。勘違いして私に好意など寄せないでくださいね。』
……ははは、冗談もほどほどにしておきなさいよ。あまり人が人を好きになる恋愛ってもんを嘗めないでいただきたのですよ。この阿呆めが。……なんて冗談の冗談はさておいて、本当によく来て貰えたものだ。十中八九諦めていたのだが実際はこうして僕の隣に歩いてくれているらしい。見えないからわからんが。
幽体といえど濡れた女の子を放っておくことは僕の倫理に反する。
濡れる概念なんてあるか知らんが、ビニール傘の半分は空けておいた。
「……で、実のところ、どんな心境の変化があったん?」
『本当に理由なんて。ただ、文化祭に参加したことがなかったので。』
「……なに言ってんの?小中高とそれぞれ文化祭ぐらいはあったやろ?」
『学年歴で文化祭の開催日時等は毎年把握はしていました。けれども、参加はしたことが無いです。クラスの一致団結といった雰囲気が苦手だったこともありますが、それ以上に生産性の観点から参加に値しない行事であると思っていましたから。その時間を、勉強に割いていました。』
お、おう。忘れていたが、この人は勉強中毒者だった。
『ですから、今日の行動はほんの気まぐれです。』
……と、そう述べる岸辺さんの文字は、それがさも当たり前のような言い回しだった。
……そこに青春を削ぎ落とす寂しさのようなものなどは感じない、なんでもない文字。
「……岸辺さんはさ、将来、何かに成りたいみたいな重いってあったりするん?」
だから、そんなことをふっと気になった。
『どうしたのですか、急に。人生相談なら間に合っているのですが。』
「……いや、勉強、勉強、勉強って。僕にはちょっと、無理やなって」
こと大学受験の受験対策を勉強と呼ぶ僕ではあるのだが、あれら教科を憶えたって教育関連職に就く以外に現段階で思いつく用途といえば、ただただ経歴の足しにする手段の確立ぐらいにしか思いが及ばない。こんなもの僕の知見が狭いだけなのだろうが、勉強にそこまでの価値があるとは思えないのだ。
だから、あのノート群を書き上げる彼女の生き様ってのに少し興味があった。
『将来ですか。あまり考えたことはなかったです。そんなもの。』
しかし、彼女のからの返答は意外にも素っ気ないものだった。
「……え、ないの?あんだけ勉強しておいて?」
『勉強はやるべきものだから頑張っているだけです。数学なんかは好きな教科ですが、学者になろうってほどでもありません。私は学生としての本分として、勉学に力を注いでいるだけです。それは逆を言えば、それ以外にしないといけないことがないから勉強をしているのかもしれません。』
……情状の起伏がない文字列を僕は眺めている。
……そんなものなのか、なんて思いながら。
……なんだ、僕。なんで、腹が立ってんだ?
何故、僕が苛立ちを覚えなくちゃならんのだろう。彼女の進路で。
「……じゃあ、いま、改めて将来に何か成りたいものとかある?」
『質問の意図がよくわかりませんが、強いて言えば、何でしょうか。』
雨脚が強まる一方、ビニール傘の取っ手を強く握りながら彼女の返答を待った。
『あまり虚しいことは考えたくありません。私、幽体ですから。』
彼女の真意は定かではない。衝撃的なことの連続で時間感覚が狂ってしまいそうになるが、僕と彼女の出会いはつい二日前なのだ。心の奥底には彼女の根底を成す何かがあるのかもしれないし、恥ずかしがって言えず終いだったりしたのかもしれない。本当のところなど、僕にわかりようがないのだ。
ただ、本当に身勝手ながら、僕は少し彼女に失望した節があったのは否めない。
――――――――――――
三日目の登校日、西大津高等学校は一段と華やかな出迎えであった。
公立高校特有の無個性を際立たせた校門には、雨で濡れることの防止にビニール袋が被せられているものの、色鮮やかなペーパーフラワーで装飾されていてよく映えていた。それにあれは段ボール製だろうか、『西大津祭』の文字がデンッと一緒に掲示されている。学生の努力が伺える力作だった。
「……『西琵琶湖祭』とかにしなかったことは賞賛に値すると思わんかね?」
『滋賀関連の命名に『琵琶湖』率が高いのは滋賀県民の血に混じる琵琶湖の水のせいです。滋賀県民を悪く言わないであげてください。悪いのは貴方の頭だけですから。それに『琵琶湖祭』、いいではありませんか。今からでも作成仕直しをしましょう。手伝いますよ。』
おいおい、琵琶湖の血が騒いでいるぞ落ち着きなさい。
あと、幽体の癖に手伝えるわけないだろいい加減にしろ。
「……でも『大津』って文字が既に弱いんよなぁ」
滋賀県民は皆、『大津』の二文字を見ると鼻で笑う傾向にあるのだ。滋賀県の県庁所在地なのに。JR西日本の新快速電車は停まるのに。「通過点」、「いちいち停まるな」、「え、どこ?」と言われて久しいけれども、大津駅周辺には地方裁判所もあるぐらいには栄えているってのに。なんでみんな大津市のことを馬鹿にするのだろうか。大津市にもいっぱい素晴らしいスポットがあるんだぞ。ほら、例えば…………、、、
「……なぁ、岸辺さん。大津市って何があるん??」
『石山寺があります。他にも三井寺や日吉大社、それに比叡山延暦寺も大津市です。』
「……あれ、比叡山延暦寺って、大津市やっけ」
たしか『そうだ!京都に行こう!!』的な広告に延暦寺が載っていたはずなのだが。
『馬鹿ですね。比叡山延暦寺は大津市です。二度と間違えないでください。』
あれれ、殺気、漏れてますよ。けど、たしか比叡山延暦寺のある天台宗総本山は京都府と滋賀県にまたがっていたはずだし、世界文化遺産に登録されている古都京都の文化財には清水寺や平等院と並んで延暦寺があったはずなのだけれども、その口述はちょっと厳しくないだろうか。実質京都府なのでは、そこ。
『ちなみに比叡山延暦寺高校は体育総体で滋賀県の大会に出ています。』
「……おいおい、なるほど、そりゃ滋賀県だな。うん、滋賀県!大津市!」
滋賀県の大会に出ているならそれ滋賀県やないか?決して京都府よりも滋賀県の方がトーナメント勝ち上がりやすいからとか、それは邪推でしかない。それに高校野球だと近江高校とかめっちゃ強いですからね。頑張れ甲子園。負けるな甲子園。野球以外のスポーツ関連でも比叡山高校の健闘を祈りたいところだ。
……と、そうこう駄弁を挟んでいるうちに僕たちは屋台に囲まれていた。
「……おー、屋台がいっぱい。文化祭やねー」
『そうですね。食品関連の屋台が極端に少ないようですが。』
「……聞いた話やけど、食品衛生?の問題が面倒らしいで?」
これは又聞きの情報であり、またソースが久遠さんというなんとも信憑製が疑われそうな出どころなのだけれども、下手なもん学生に任せて食中毒事件なんて起こそうものなら誰が責任を負うのかと考えれば元から禁止事項にしてしまえば楽って判断は妥当なのだろう。ぜんぶ大人の事情なのです。
『そんなことは知っています。それを工夫するのが模擬店ではないのですか?』
「……その工夫を凝らした結果、三年一組は無難に食品を扱わない占いらしいで」
『しょーもないですね。創意工夫を求められている自覚はないのでしょうか?』
なぁにを偉そうに、文化祭欠席常習犯め。せめて出席してから能弁を垂れていただきたいものだ。……あ、フランクフルト屋だ。あれはセーフ基準だったのだろう。あとで食べに行こう、そうしよう。どうせ冷凍品をあっためるだけナンチャッテ料理なのだろうが、僕が食うのは文化祭の空気感なので大丈夫だ。
七月二十三日、文化祭一日目は無事、開催されるようだ。
西大津高等学校文化祭は今日と明日の二日間開催。まだ開会式さえ始まっていないために始まった感こそ薄いものの、明日の夜まで続くお祭りに生徒諸君は目に見えて浮き足立っている。しかし、ふと昨日の大事件の痕跡も気になり、校舎の窓に目をやった。
安全対策の為か窓枠ごと全て取り払われているようだ。
そして雨防止用なのだろう、段ボールが敷き詰められている。
どうせ直ぐに夏休みだ、と突貫工事がわかりやすく出ている。
「……そういや、ぜーんぶバリっばりに破られていたんやもんなぁ」
あんな大事件の後だってのに文化祭を開催する決定を学校側に下させたのだから、此度の文化祭は涙と努力と友情の勝利ともいえよう。暴力行為に文化は屈してはならないのである。せっかく開催された文化祭なのだから楽しまなければ損というもの、と思っているかは知らないが学生は皆、満足そうだった。
「……あのさ、岸辺さんは初めてやねんな、文化祭」
『そうですね。委員会に選定されたときもありましたが、欠席しましたから。』
……こいつ、実は真面目の皮を被ったクズなのではないか。ダメだろ、それは。
「……まー、うん。じゃー岸辺さん、どっか、まわってみたい屋台とかありそう?」
『どうしたのですか、急に。お伺いを立てるみたいな。』
「……いや、別に急な話やないよ。僕から誘っている以上、岸辺さんにも今日は楽しんで欲しいし。なんやったら岸辺さんの気になる屋台を優先しようと思ったんやけど。……食べ物系列はちょっと避けるとして、不幸中の幸いなことに食べ物系列少ないから、割り振られたクラスの仕事の合間にでも遊ぼうや」
幽体少女の前で食レポしてやっても面白いだろうが、それは許してやろう。
「……とにかく、いい機会やし、岸辺さんの楽しむ姿も見たいだけなんよ」
もっとも幽体化した彼女の楽しむ姿とやらは物理的に見れそうもないが。
『なんやそれ。変な人。』
「……あれ、関西弁?」
僕が指摘した途端、黒インクで消される文字。
「……え、今の、関西弁やんな。ええやん、可愛いやん」
『なんでもありませんから。』『それよりも、馬鹿じゃないんですか。』『貴方は貴方のやるべきことがあるから早めに登校したのでしょう。文化祭の手伝いや久遠詩織とのすれ違いの解消などの。そんなことも忘れたのですか。やはり馬鹿ですね。阿呆です。喋っていないで、さっさと準備されたらどうですか。』
「……おうっふ。嫌なこと思い出させないでくださいよ」
……そうだった。ほんわかとしている場合じゃない。
肩にのし掛かるズンっとした重み。これは昨日の手提げ袋の買い出し物品も入っているが、久遠さんとの一連の僕のやらかしに起因する後悔と懺悔が絡まっている気がしてならない。クラスの方々も怒っていらっしゃらないといいが、そんなことよりも久遠さんに許されたい思いでいっぱいだった。
……僕の謝罪、聞いてもらえればいいのだが。
――――――――――――
僕らは筒がなく投稿を終え、教室まで辿り着いた。
教室内はまだまだ始業時間だというのに雑踏に雑談にと賑やかさが占拠しているような雰囲気である。出し物の準備なのだろう小道具も多く教室内の床に散りばめられていた。みたところ、もう最終段階も終え、開店の準備段階と行ったところか。僕の出る幕はなさそうだった。
段ボールの敷き詰められた教室の薄暗さとは正反対に、明るい表情のクラスメイト。
しかし、その中にはまだ、久遠詩織は登校していないようだった。
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