第31話 七月二十二日、午後十一時三十二分。
目覚めて一番に見えた光景は、ネズミの足音がしそうな天井の木目であった。
『おはようございます。あと、おかえりなさい。』
枕元に置かれた紙に几帳面な文字が綴られている。
これは字面でわかる。岸辺さんの文字だ。それに、なんとなくだが呆れ返っているようことが伝わっている。しかし、何故、呆れられることなどあるのだろうか。そういえば思い当たる節がないわけでもないが、かといってあるのかと聞かれれば無い気がしなくも無かったりする。いろいろやらかしてますからね。
「……おはよう。……って、あれぇ、外、暗ない?」
ひらりと揺れるカーテンの隙間から、星と月と夜空が見えている。
『そうですよ。真っ暗な夜です。こんばんは、が正しいでしょうか。』
「……あれれ、なんで僕、こんな時間に布団の中で居眠りこいてんねやろ」
文机の上でデジタル時計を覗けば時間は夜の十一時半ごろ。寝こけていた、にしてはなんとも微妙な時間帯だ。
『本気で仰っているのですか?』
「……割と本気で言ってんねんけど」
『であれば、救いようが無いです。』
どうやら僕は救いようのない馬鹿らしい。だが、寝惚けている僕の意を汲んでか、はたまた呆れ返って言葉を失った彼女の理性のよるべに綴った文字列なのかは定かではないが、彼女は僕が今布団に包まるまでの経緯を紙の上に話してくれた。
――――――――――――
『今日の夕方頃、十九時少し前ぐらいでしたか。』『ドアをノックする音がしました。』
『ご覧の通り幽体ですから、来客には非常に困ります。ドアを開けることさえままなりません。ですので、のぞき穴から外を窺いみることしか出来なかったのですが、本当にびっくりしましたよ。びっくりです。貴方がドア越しに鼻ちょうちんを作っているのですから。』
『どれだけ疲れれば、ノックだけして眠られるのですか。まったく。』
『余程の出来事でしたので、気が動転してしまっていたのでしょう。』
『急いでシャワーを浴びせ、着替えさせた後、就寝までのすべてをやってのけてしまっていました。』
――――――――――――
それはまた、随分と器用なびっくりのされ方で。
『あまりに起きないものですから、死んでいるのかとさえ思いました。』
「……貴方の身体なんですけどね。……ご自愛ください。僕のためにも」
今更ながら、じんわりと気を失うまでの記憶が蘇ってくる。あれは確か、逃げ延びた先に石塀があって、ぐったりして、、、その後はぷつりと暗転している。しかし実際にはドアの前まで僕はいて、その上でノックまでしているらしい。その間の記憶は本当にさっぱりなのだが、歩く気力があったとは到底……。
もしかすれば、誰か優しい人が送ってくれたのだろうか。
……いや、だったらこの住所を知らないはずではないか。
「……じゃあ、僕は自力で帰ってきたんかな。……僕、すごい」
『すごくないです。馬鹿です。あと、お礼言ってください。』
うるせぇな、このお礼ジャンキーめ。ちくしょう、原理はわからんが見えねぇくせに何故か嘲笑姿がありありと目に浮かびやがる。どうして同じ帰宅でも愛犬ならば全米が泣くってのに僕の帰宅は「馬鹿め」と愚弄されなければならないのだ。泣いて喜べ。むしろ僕の無事の帰宅に丁寧めな謝辞を述べろ。
『それで、馬鹿は今まで何をしていたのですか?』
「…………え、なにが??」
『馬鹿ですか。馬鹿でしたね。小学生でも帰宅直前に爆睡なんてしませんが、それほどまでに学校生活は楽しかったのですか、という趣旨の質問に決まっているでしょう。馬鹿だから日本語も不得手だったりするのですか。それならそうと、私も配慮が必要になりますから。』
「……えぇ、そこまで言う?」
『がっこうせいかつは、たのしかったですか?』
「……僕を虐めてそんなに楽しいか、この野郎ッ!!」
いや、返答は結構です。見ません。『気分がいいです。』なんて返答は僕は見ません。。。
「……はぁ。……楽しかったんは楽しかったよ。……けど、まぁ、いろいろあってね」
どう事態を説明したものやら。凸凹金属バットを振り回す青年に出くわしました、心配してくれる女の子の手を振り払って見ず知らずの青年の方へ向かいました、そこで正体不明の『化け物』に遭遇しました、そのまま逃げてきました、ってなんてちょっと言えそうにない。危ないクスリを疑われそうだ。
……そもそも、あの『化け物』の存在を彼女に知らせるべきなのだろうか。
「……へい、岸辺さん、君はパニック系ホラー作品とかはイケる口かい?」
『嫌いな部類ですね。稚拙な設定の作品が多いですし、なにより非科学的ですから。』
……なるほど。この幽霊さん、自分の身の上を話す時どないするんやろう。
あの『化け物』を、そこいらの人喰いサメ映画やパンデミックゾンビ作品なんかと同義としちゃうこと自体がちゃんちゃらおかしいのだが、僕の貧相な語彙でアレを岸辺さんに伝達する手段がないってのも確かである。あれは具体的な恐怖でありながら、あまりに抽象的な存在だった。言葉にできるものじゃない。
それに、やはり、話したくないってのが大きかったりする。
「……そういえば、校舎のガラス窓が全部破られてたっけ」
『全部、割れていたのですか?』
「……そうそう。大変やった。ホンマに全部破れてるんやもん」
だから、僕は『化け物』の話を避けつつ、今日あった出来事を並べる。
「……でも、明日からの文化祭はなんとか執り行われるらしいで。……その準備っていうか、買い出しっていうか、琵琶湖沿いのショッピングモールに久遠さんと行ってきたんやけど結局いっぱい遊んじゃって。……そんで、ちょっと、僕のせいで仲違い的なことになっちゃったり。……まぁまぁ散々やったかな」
『そうですか。遊んだのですか。私のお金で。』
「……なんでちょっと嫌な言い方するかなー?」
しかも君の腹と背中がくっついちゃいそうなザ・貧乏の銭袋なんてアテにするわけがないじゃないか。ここは男らしく、全額を久遠さんに奢ってもらいましたとも。全額ですよ。全額。ちょっとマジな憐れみの目を久遠さんがしていたことにちょっぴり傷ついちゃったけれども、交友費で君の財布に触ちゃいない。
『それに、仲違いだなんておかしな表現を使うのですね。』
「……え、なんで?」
『貴方と彼女の仲は知りませんが、私と久遠詩織さんとの仲は知人程度のものです。だから違える仲でもありません。貴方が何をしでかしたのかは知りませんし、興味もありませんが、つまりは瑣末なことなのです。気にしなくても構いません。』
「……あれ、励ましてくれてるん?」
『馬鹿ですね。部下への労いです。』
あれれ、おかしいぞ、この人は何時、僕の上司になったのだろう。
……と、冗談で流してくれた岸辺さんだが、下手くそなりのフォローだってことぐらい馬鹿が馬鹿なりに邪推しなくたってわかる。それほど失意が顔に出ていたのであれば謝らなくてはならない。だが、僕が生きていくうちの定款の一つに「岸辺織葉に頭を下げるな」があるから無理そうだ。ごめんね、岸辺さん。
あの『化け物』を抜きにしたって、どうにも今の僕には懸念事項が多いらしい。
「…………あっ、そういえば手提げ袋、、、」
あー、やっべー。そういえば三年一組の文化祭用買い出し分の入った手提げ袋が。
あれ、マジで、どこやったっけ。逃げるのに必死で持って帰ってこれた記憶がない。
……参ったぞ、僕の金じゃないのに。
……あれ、僕の金じゃあない、のに。
『貴方の仰る手提げ袋なら、貴方の足元にあるそソレではないですか?』
「……え、……あ、ホンマや」
僕が足を伸ばす布団のすぐ傍、そこに大学ロゴ入りの手提げ袋があった。
「……あれ、でも、なんで?」
『その手提げ袋なら、貴方と一緒にドアの前に転がっていましたよ。』
念の為に中身を確認してみると、今日の昼間に購入した分の品物が入っていた。持って帰ってきちゃっているのがとてもいただけないが、紛失しなかっただけ御の字だと思わないといけないのかもしれない。……しかし、何故、ここにあるのだろう。あれだけの逃亡劇の最中も、この手提げ袋は、ずっと僕の肩で大人しくしてたってことなのだろうか。……まぁ、でも、あるんだからそういうことなのだろうが。
『手提げ袋はあると何かと便利です。鞄に入れておいて正解でした。』
「……あっただけマシやけど、ここにあるってのがなぁ。どないしよう」
……しばかれるぐらいは甘んじなければならんだろう
今頃この購入物が原因で作業が滞ってなければいいのだが。
仕方がないか。粛々と、クラスからの顰蹙は受け入れよう。
『それで、私への感謝の言葉はまだでしょうか?』
「……一緒にしばかれてくれるんやったらええで?」
そういえば、元を正せば文化祭準備は岸辺さんの責務だったりするはずだ。彼女が本来の三年一組のメンバーなのだから。だから僕の失態でも彼女がしばかれるってのは一定の道理があったりするはずなのだが、いかんせん彼女は幽体なわけで、しばきようがない。お浄めの塩とか掌に塗れば効くのだろうか。
「……はぁ、踏んだり蹴ってりや。まったく、、、」
……文化祭準備用の物品を持って帰ってしまうわ、
……久遠さんとは顔を合わせづらくなるわ、くそう。
『そうですか。明日は、文化祭ですか。』
「……なんっすか。一緒に回りますか?」
『あまり面白くない冗談です。』
……まぁ、正直、それほど冗談じゃないのだけれども。
岸辺さんは僕のアプローチを無碍に一蹴する。側から見れば、これは俗に言う『文化祭デート』のお誘い失敗なのだろうが、なるほどちっとも浮き足立たない。だから、これは『デート』ではないし『フラれた』わけでもない。デートってのはもっと甘酸っぱいと僕は知っている。だからこれはフラれてないのだ。
もちろんだが、これは僕が彼女を好いているからとかの提案じゃない。
……本当に情けのない話なのだが、ちょっと、心細かったりしたのだ。
「……お願いや、って言ったら来てくれる?」
『いやに真剣ですね。』
「……そうやね。……僕らしくもなく真剣や」
……いろいろあった。そこで、少しだけわかったことがある。
……僕がやりたいことってのは、意外に寂しいことなのかもしれない。
……僕は『僕』らしく生きるってのは、他者の否定だったりするのだ。
「……とりあえず、考えるだけでもええからさ」
……今のままじゃ、不安定な僕まで否定しかねない。
日和見的な結論で回答と保留とし、ひとまずの暇を得る。これをチキン野郎だなんて罵る輩が世間にひしめき合っているのだが、人をデートに誘うってのは人間の誠心誠意の所業であって相応に疲れる作業だったりするのだ。……思えばあの人は、よく誘ってくれたものだ、と今更ながらに感嘆している僕がいる。
「……ところで、なんやけどさ」
……そうだ、これは『ところで』なのだが。
ほんの『ついで』の質問を済ませてしまおう。
「……えーっとさ、思い当たる節がないなら適当に聞き流して欲しいんやけど、」
「……今日、岸辺さんさ、ショッピングモール付近まで外出とかしとった?」
『今日昨日とも終日ここに居ましたが、どうしてですか?』
「……ん、あ、あー、……ほら、室内で篭りっぱなしってなると気分が鬱々となっちゃうやんか。そうすると健康にもよくないかなー、って。……運動がてら、文化祭に誘う常套句を伝えようって思ってたんやけど、イタリア紳士でもないもんやからパッと出てこうへんかったね。不覚や」
『本当、馬鹿ですね。貴方には、私が不健康にでも見えるのですか?』
そっか、そうだよな、それならいいんだ。
「……まー、気晴らしにでも。考えといて」
……僕は、あの『化け物』について岸辺さんに話せそうにない。
……だって、あのもの言わぬ圧力を、僕は一度味わっているのだから。
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