第11話 七月二十一日、午前八時二十九分。
さぁて、諸君、これはジレンマってやつである。
現時点において専らな目的の一つは『岸辺織葉』についての情報収集である。あわよくば『僕』の情報についても解明されれば御の字だが、それは些か勇足ってもんだろう。順序が肝要なのである。
しかし、『岸辺織葉』の情報収集とは、言葉以上に漠然とした目的だ。
然るに、順序である。目的達成の為の目的を模索しなければならない。
大目的として、『円満解決』を置こう。
中目的として、『岸辺織葉』並びに『僕』の情報収集があるのだろう。
小目的として、だったら当然に中目的の達成手段がココに当てはまる。
例えば『岸辺織葉』の情報収集の達成手段として、『岸辺織葉』を知る人物とのコミュニケーション、なんてものは余程に上手く立ち回ろうとも完遂しなければならない関門である。なんなら関門は歩いて向かってくる。
――――――つまり、『岸辺織葉』を知らない僕が、
――――――『岸辺織葉』を知る学友達に入り込み、
――――――『岸辺織葉』と、認識されながら、
――――――『岸辺織葉』を知らねばならない。
具体例、「ヤッホー岸辺さん!!昨日はよく眠れた??小学生並の身体の岸辺さんの就寝時間は夜の九時ぐらいかな??ところで、とある事情から君の口座番号を知りたいのだけれども、君が岸辺織葉ならわかるよね??」的な日常的会話をふられたとしよう。
「……ふざけんじゃないよ。まったく。無理やろ」
もっとも、この眉間に皺寄り小学生体型ガールに学友がいるならだが。
しかし、人間社会、学校生活において、友人以下の知り合い未満とぎこちない笑みを交わしながら事なかれ主義を貫く道化が我々人間である。だったら学友でなくとも『岸辺織葉』としての会話を成立させなければならない。
そうしなければ、文字通り、お話合いにさえならないのだから。
「……ならばもういっそ、記憶が無い事を白状するべきなんかな」
……ま、そんな事をしでかせば情報収集どころではなくなるだろうが。
そもそも、『岸辺織葉』と『僕』が同一人物かさえ疑わしいのだ。これ以上に話をややこしい方向に持って行きたくないし、そうなったとて旨味もない。わざわざ登校をした趣旨にも合わない。ただただ面倒で意味のない時間だけが過ぎる徒労に終わるだろう。
「……それでも、もうそろそろ、腹決めんと」
現在時点、場所は、『三年一組』の教室前。
こうも苦労なく到着するとは予想外だった。
まったく、僕が優秀なのか、生徒手帳さんが余程非の打ちどころのない万能器具なのかは神のみぞ知るところだろうが、もうちょっとばかし迷ってくれても僕的にはよかった。諦めがつく程度に迷ってくれてもよかったのだ。
「……はぁ。…………帰りたいんやが」
何処に帰るというのだね記憶喪失君。
どうせ押しても引いてもアウェーな戦場なのだから腹を括るほかないのだ。
なんて、一人一悶着を演じているうちに、キーン、コーン、カーン、コーン、と校内を反芻するチャイム音。コレが本鈴なのだろう。廊下に立ち竦む生徒など僕を置いて誰もいない。もう、この引き戸を引くほかなにもない。
…………あぁ、もう、どうにでもなれ。
僕はその引き戸の窪みに手を掛け、横に凪いだ。
――――――この教室では、僕は『岸辺織葉』である。
――――――僕でもなく、『僕』でもない人物である。
――――――自己が、希釈する。他者が、濃密となる。
端的に言おうか。僕は、怖いのだ。
『岸辺織葉』の仮面を被る自分が怖かった。その分、僕が、『僕』が、消えてしまうかのように思えたから。だけれども、『岸辺織葉』が嫌われることがもっと怖い。『岸辺織葉』が嫌われることが怖い自分がまた、怖いのだ。
――――――間違えてしまうことが怖い。
――――――陰口を叩かれることが怖い。
――――――かといって、羨望も怖い。
――――――けれども、誰からも気付かれないことが、一番に怖い。
僕は、誰なんだ。『岸辺織葉』が対外的に嫌われて困る僕は誰なんだ。
自我が希釈していく。結局、僕なんて存在しない。全て、全て、全て、錯覚の賜物で。産物で。出来損ないで。いつの間にか僕が消え『岸辺織葉』の自我が目覚めてしまえば、僕は塵も芥も残さない死を味わうのだ。
…………ほら、やっぱり、一番怖い死に様だ。
…………誰も、僕さえも、気付かれない死だ。
教室内は、さながら、百八十度別の異世界であった。
朝方の斜光に朱色のスカーフが染まっているようで、着崩されたセーラー服と詰襟でごった返す三年一組の風景。
体温か、気温か、湿度か、密度のある香料を吸い込んだような、決して気分の良くない不愉快を味わう。
「…………あ、えっと、どないしよっか」
…………あ、そうか、そうか。
ひとまず席に着こうか。席に着きさえすれば、そうすれば、あとは自分の席で復習ノートの文字列を目で追うだけで漫然と、緩慢と、時間だけは過ぎていってくれるはずだ。穏便に、平穏に、じっとしておくだけで。それだけで。
チョークの粉末を吸い肺が痛くなる。
無遠慮で、無粋な雑音が耳朶を叩く。
「…………あれ、そう言えば、席ってどこや?」
…………目が回る。目が回る。目が回る。
…………あぁ、やばい。ヤバい。ヤバイ。
下駄箱での一件とは訳が違う。周囲全員同じスカーフの色で、同じ年で、同じ組で、顔見知り。当然シールも無ければ、時間もなければ、ヒントもなければ、回る頭も空回りばかりで。目が回る。目が回る。目が回る。
「…………どうしよう。……あぁ、どうしよう」
情けなく震える指で生徒手帳に縋る。ペラペラ、ペラペラ、と。
だけれども、席順に関する情報の該当思想なページは見当たらない。
焦ったくなったもんだから乱雑に扱ったことが良くなかったのだろう、生徒手帳は僕の手からスコリと滑り落ちてしまい床に叩きつけられてしまう。苛立ちとかじゃなかったと思う。ただ、深く、一人であることを自覚した。
落ちた生徒手帳を拾い上げるため、身を屈める。
身を屈めたのだが、どうしたものだろう。もうこのまま一向に動きたくない。
「…………なんで、なんやろ。何に怖がってるのかもよくわからんし」
…………もう、いややな。帰ろっかな。
実際、怖がる理由なんて自分自身よくわかっていない。
記憶の奥底に眠っていた耐え難いトラウマでも再燃したか。
それとも『岸辺織葉』か、それとも『僕』の本能的嫌悪か。
いいや、そんな『それらしい』ものではないのだ。きっと、題目じみていない何かだ。
だったらやはり、僕の消失が怖いのか。いいや、それはもっと違う。僕が消えるとか、消えないとか、そんな現実味が降って湧くような突発的な不安ってのは小中学生時期の思春期にて突如想起するような『死』の感覚に近いのだが、これはそうじゃない。
――――――僕は、『僕の皮』を幻滅されたくないのだ。
――――――『僕の皮』を、悪く言われたくないだけだ。
――――――たかがそれだけの突拍子も無い俗物的思考の末路だ。
…………なんだ、その下らない理由は。
「…………あーーー、ほんっとうに、くだらねぇー」
本当に、本当に、下らない。そんな声さえも抑えてしまう僕自身が誰よりも下らない。
気掛かりってのは『岸辺織葉』の評価では無いのだ。『僕の皮』の評価だ。『僕の皮』が映る眼の評価だ。僕ってのはどうしたって、落胆とか、失望とか、幻滅とか、そういった他人から見る『僕の皮』が気になってしょうがないのだ。
もうマジで救いようがない。そんなもんが大事なのだ。
そんなもんが『岸辺織葉』の情報収集なんかよりも、
そんなもんが『僕』の正体の追究手段なんかよりも、
「…………だから、帰った方が楽だ、なんて気分でいられるんやろな」
とはいえ、もう遅い。既に教室内の他生徒が僕を視認しただろう。
今になって帰路になど着けばいよいよ『僕の皮』は訝しがられる。
「……あぁ、畜生。…………ちくしょうが」
「……なんもできない。……本当に、何も」
……立つだけの勇気さえ、僕にはない。
「……もう、誰でもいい。誰でもいいから」
朗らかな空気が死ぬのが怖い。
途端にウザがられるのが怖い。
最後には無視されるのが怖い。
「……お願いだから。…………僕を、助けてくれ」
それでも、結局のところ、孤独ってのに耐えられないらしい。
「…………織葉?」
鈴の音色のような声が、頭上でおもむろに耳朶を打った。
屈んだ姿勢のまま、声の主の方へゆっくりと見上げる。
あわやあわやとしている内にとっくに鳴り止んだ本鈴も静まり、生徒達が着々と着席をしているのを背景に。まるで写真の一部分を切り取られたかのように『彼女』だけだが、僕のことをジッと見つめていた。
……きっと、もっと、思うべき所は沢山あったはずだった。
だが、僕は不意にもその子を見て、「綺麗な人だ」と、そう思った。
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