第6話 七月二十一日、午前六時五十九分。
「……うーっわ。……あれかな、お勉強が趣味の方なのかな」
勝手に拝見されてもらっておいてなんだが、勝手にドン引きさせてもらっている。浅学故に勉強好きなる人種に偏見のようなものを持ち合わせている僕ではあるのだがしかし、これは度が過ぎているといったって叱責は受けないのであろう。
「……『社会科目日本史学(高三年生範囲)復習ノート』……ねぇ」
……こんな具合のノート集が各学年ごと、各学科ごとに分別されている。
控えめに言って尋常ならざる量の分厚いノートの群れ。気でも触れていたのだろうか。
真面目とは、おおよそ受動的かつ時に能動的に勉学に励み、それを苦とすることを自覚しながらも『刻苦勉励』『蛍雪の功』のお触れの元、いつかに抱いた理想に近づくための努力に勤しむ人間のことだと思っていたが、するとこれは真面目ではない。
こんなのは真面目ではない。
ただの、変態(HENTAI)だ。
「……うゲェ、何冊あるんや、これ。…………三桁はあらへんか?」
もう数を唱える気力すら湧かない。本棚にぎっしりと詰め込まれるノート共、それはまるで都心の満員電車に寿司詰め状態にされたサラリーマンの如く正気がなかった。っていうか、死んでいた。あーめん。僕は手元にあったノートをそっと元の棚に戻す。
「…………こんなん見ると、やっぱし『岸辺織葉』が『僕』だとは思えんなぁ」
性自認の壁は言わずもがな、滲み溢れる『人格』の壁は予想以上にぶ厚い。
パジャマの趣味も、上の下着も、几帳面さも、勤勉さも、『僕』ではない人格の匂いが漂うのだ。
「……有名な大学でも目指してたんやろか」
勉強量もさることながら、年代毎の赤本もずらりと。
僕でも存在を知っている大学名もちらほらとあった。
つまるところ、一般常識化するレベルの大学なのだろうが、観光地としてぶらりと赴くならばいざ知らず、ここに受験の過程を経て入学しようなどとは僕では頭が沸騰しようとも考えが及ばなさそうだ。
頭が沸騰……。あぁ、そういえば、なんか非常識なまでに暑い。
「……とうとう地球温暖化さんが人類に激怒でもされたんやろか」
理科の授業にて二酸化炭素云々がオゾン層云々にダメージ云々などの知識が脳裏によぎる。今になって思えば、そんなミジンコを顕微鏡で覗く方法バリの役に立たない豆知識を義務教育で教えるぐらいなら、本日の気の利いた納涼方法でも教示願いたかったと思う。
時間経過に伴い暑さが比例して猛暑、酷暑へと変貌しているような気がする。
「……これ、何度なんや。…………っていうか、今、何時なんや?」
温度計、湿度計と、便利なようで微妙なアイテムはともかく、時計ぐらいはあるだろう。
しかし和室の壁沿いには時計らしき存在は確認できない。試験会場じゃあるまい、和室内の何処か見やすい場所に配置していそうなものなのだが。などと散策を続行していると、見つけた、文机の上のスタンドライトに添えられるようにちょこんと置かれるデジタル時計。
『2019:07:21』『07:14』『30℃』
なるほど、今日は七月下旬の夏休みシーズンちょっと前ぐらいの時期、ってことらしい。
日付まで判明したのは棚ぼただった。すると、まだギリギリ日本の学生さんは学校への登校を強いられている時期なのかしら。なんて祖国にちょっと疎い帰国子女まがいなセリフを吐きそうになるが、海外は愚か今日の日付さえ存じ上げなかった無知蒙昧な僕に帰国子女は荷が重いのでやめた。
いやぁ、しかし、一週間の卒業旅行程度で世界を知った気になっていそうな大学生もいるくらいだし、大丈夫かな。大丈夫だな。
下には下が存在するのだ。下を向いて歩こう、そうしよう。上を向いて歩こうものなら鬱っぽくなるし首も痛いもんですから、下を向いて愉悦に浸るぐらいの人生が僕ぐらいの人間には丁度いいのかも知れないのです。……はい。
「…………で、まだ七時ちょっと過ぎ、ねぇ」
まだ登校時刻的には余裕がある、なんてね。
「……いやぁ、でも。…………えぇー」
つまり、僕は学校へ、『西大津高等学校』へ登校すべきか迷っているのだろうか。
名前が判明した。所属校もわかった。されども、まだまだ情報の不足は否めない状況下にある。だったら『岸辺織葉』の情報収集のため、ひいては『僕』の情報収集のため、外出を決行することも一つの手ではなかろうか。
しかし、それを『外』へ出てまでやるべきことなのだろうか。
記憶がない。『僕』に関しても、『友人』に関しても。
たったそれだけなのに、僕はひどく臆病になっている。
ただ、ここでジッと漠然的な不安を抱えたまま正気なんて保てるものなのだろうか。
とはいえ、『外』へ出て、襲いかかってくる恐怖に対峙できるほど胆力があるのか。
心の根っこではわかっている。どう転んでも、どう弾かれようとも、その過程に僕は『決断』と『責任』を余儀なくされる。すなわち、ここで何かしら行動を取るも自由、取らないも自由だが、どの道しばらく安寧などは期待できない。
どうしたって、この灯火のない夜道を抜けられない。
「…………だったら、行くかな。学校」
超消極的思考の末、僕は『登校』の決断を果たす。
校章・制服での一件にて、『岸辺織葉』と『僕』の関連性がどうにもきな臭く思えてくる。『岸辺織葉』と『僕』は本当に同一人物なのだろうか。であれば何故性自認が反転しているのだろうか。どうして僕は勉強を毛嫌いしているのに、あれほどまでの勉学に励めたのだろうか。
だったら、『僕』は一体、何者なのだろうか。
だったら、『僕』はどうして、こんなことに。
たぶん、『外』よりも、ずっと。そんな事が怖かったりしたから。
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