☆第34Q 信じてやれ

 時期は遡り、朝比奈や夜野達1年組の世代が高校入学する前の3月のときだ。


「いい加減自分で飯ぐらい作れよ」

「いや、作れるんだって。ただ自分1人ってなるとめんどくさいんだよ」

「それ言い訳にならないからな? つかそもそも態々俺の家に来てまで飯食いに来るな35歳」

「いいじゃーん、お互い独り身なんだし」


 そう言いながら桝田はすでに2用意されていたおかずが乗った皿、白米が盛られているお茶碗、味噌汁が入っているお椀を対面になるようにテーブルへ並べる。

 互いに独身のため、こうして我が物顔で何度か桐谷宅に転がり込む甥っ子の桝田に対して、呆れた様子を見せるが追い出さないのを見る限りいつもの出来事なのだろう。

 桐谷は一度大きな溜め息をつくと自身の椅子を引き、座った。


 「いただきます」と手を合わせて紡がれるのは、大きくも小さくもない2つの声。

 桐谷はテレビのリモコンを持ち、テレビの電源を入れる。桝田は手元にある味噌汁を手に取り、音を立て啜る。

 テレビから聞こえる女性アナウンサーの朝に相応しい爽やかで元気な声が耳に伝わってくる。ドラマとかで見る家族団欒のシーンのように穏やかな時間が流れていた。


「お前がプロ辞めてもう1年は経つのか」

「もうそんなになるのか。なんつーか歳をとると、こう……時が経つのが速いな」

「……ちがいねぇ」


 桐谷は何かを噛みしめるように、呟く。

 約1年前まで目の前にいる甥っ子は、あの大きなアリーナで1万人もの観客に囲まれながら当たり前のようにプレーをしていたのだ。現役引退するまでギラギラと獰猛な目をしながら『タフショットマシーン』と称された。敵味方問わずここぞという場面、ここで決めてほしい決めてほしくないという場面でのあの理不尽なほどに正確で決定力のあるスリーポイントシュートは、彼の代名詞と今も尚Bリーグファンの内で語り継がれている。

 桐谷にとって目の前にいる桝田一颯ますだかずさという男は、例え日本代表に選ばれずとも、ある意味日本のトップリーグでトップを走っていた1人でもあった。


 目の前にいる桐谷がそんなことを考えているとは知らず、桝田はテレビのご当地(この日は神奈川県)の観光地からライブ映像を見ながら「へぇー」と気の抜けたような声を出す。

 

 ――これがこうも、穏やかな目をするようになるとはな。


 小さい頃から見ていた桐谷からすると、甥っ子の成長に目頭が熱くなる。朝からしみったれてしまうな、いかんいかん。桐谷は別の話題を切り出す。

 

「それにしても、俺が誘ったとはいえ本当にコーチになるなんてな」

「まあ、普通に就職するかで悩んだけどな」


 プロバスケ選手としての寿命は体力の消耗であったり、怪我を理由に30~40歳を目途に引退する人がほとんどだ。そこで付いて回る問題になるのは『セカンドキャリア』である。

 プロのリーグに所属していた経験を基にどこかのチームやスクールのコーチになるという考えを持つ者もいれば、バスケの解説者として活動する者、一般企業に就職や起業する者などピンキリだ。

 目の前にいる桝田も引退前から引退後数か月に及んでセカンドキャリアに関して悩みに悩んだ結果、伯父の桐谷と同じコーチの道を歩むことを決めたわけである。その後は、eラーニングでJBAによるコーチライセンスで一番下のE級を取得し、数か月前にはその1つ上のD級を取得している。


「そんで、お前のお気に入り。最近見て半年は経つんだろ? どうだコーチとして初めての教え子」

「……難じぃむじぃ

「ハハハッ! だろうよ、クラブ主導のクリニックとはちげぇんだからな」


 プロリーグのクラブチームには、ある種のイベントとしてある一定層の年齢のバスケ選手を対象に現役選手が見てくれるクリニックがある。勿論、シーズン中は試合を優先するためその時期に行われることは無いに等しいが、オフシーズンや日本代表期間且つ休養期間であるバイウィークには各チームで行われていることが多い。

 桝田もチームの移籍が何度かあったとはいえ、クリニックに現役選手側で何度か参加したことがある。


「そりゃ分かってるわ」

「あ、そう?」

「それより夜野あいつまだ中坊とはいえ、危なっかしくて仕方ねぇんだよ。あんとき俺に似てるって思ったけど全然違うね、確かに俺もあれぐらいがむしゃらにやってたけどまだセーブしてた。むしろ引退前に所属していたチームの城戸きどくんに似てる」

「へぇ、あの東京シーガルズの10番だったか」

「3季連続キャプテンだからな、城戸きどくん。あの負けず嫌いと責任感の強さはもうクローンかってぐらい似すぎててヤバい」


 城戸正人きどまさと。桝田の後輩である彼だが、新卒で東京シーガルズに入団してから今までどこにも移籍していない『ミスターシーガルズ』と呼ばれる31歳である。そんな彼に既視感を覚えたのだろう。


 プルルルッ。


 テーブルに置かれていたスマホからバイブと共に電話の通知音。そのスマホの持ち主は桝田である。電源を入れると、画面には『夜野母』と表示されていた。


「噂をすればだな」

「ちょっと電話してくる」

「はいよ」


 立ち上がり隣の部屋に移動した桝田を横目に、テレビを消音にした。


「ああそうでしたか……分かりました。すみません、ご連絡いただきありがとうございます。はい……失礼します」


 ピッ、と電子音が耳に入ると同時に桝田がゆっくりと椅子に座る。

 

「なんだって?」

「……夜野のイップスが少しずつ改善されてきたって連絡だった」

「は? イップスだって……?」

「現在治療中だけどな」


 桐谷は、桝田に対して聞き直す。それもそうだ、桐谷は桝田を経由して最近教えている相手である夜野という子が、水咲へ入学することが決まったと数週間前に聞いたぐらいだ。それ以外の事を知らない。


 ――前言撤回。全然成長してねぇわこいつ。

 

 何事もなかったかのように朝食のおかずであるスクランブルエッグを箸で口にする桝田。桐谷はピキリと石のように身体が固まり、目は笑っていなかった。そんな中で、桐谷は頭を抱えながら重々しく口を開く。


「……それいつの話だ」


 主語はないものの、桝田には桐谷が言いたいことを理解した。

 いつイップスに気づいたか。であることを。


「イップスに気づいたのは中学のバスケ引退してからだから、8月ぐらいの自主練のときかな。練習中1on1のときに目の前にいる俺のブロックにビビったのかと思えばどこか違う気がしたから病院に連れていって、イップスだって判明した」

「……随分前じゃねぇか! 社会人なんだから報連相をしっかりやれ!」

「いでっ!」


 約半年前に判明した事を今まで言ってこなかった目の前の馬鹿に対し、桐谷は拳骨をお見舞いした。


「ったく、あれ聞いた瞬間肝冷やした」

「……ちゃんと反省してるよ」

「だと良いけどな! ……そもそも俺が水咲の監督継続だってわかってる癖に報告しないのもおかしいだろ」

「へーへ―悪うござんした」


 あの3月から2か月経ったとはいえ、桝田は「まだ言うか」と少々辟易としており、お手上げポーズでロッカールームに戻る道中であった。


「んで、そんなに心配する理由はアレか? お前が現役時代に同じようにイップスになった奴らを見てきたからか?」

「……そうだよ」


 桝田は10何年もやったプロ現役のときにチームの優勝、2部への降格、1部への昇格。すべて経験した。人生を歩む中で、学生時代を含めても桝田がイップスにかかっていたことはない。

 しかし、イップスに罹った選手を何人か見たことはあった。


『俺があそこで決めていれば……!』

 

 そうやって、チームの責任を自分自身に重石のように積み上げてしまい、踏みつぶされた蟻のように潰れて自滅してしまう選手がいた。

 その責任は本来、コーチ・選手・チームスタッフが平等に持つもののはずなのに。そう思うのは、第三者から見ているからだろう。結局のところ、当の本人の捉え方に依ってしまう。

 東京シーガルズの城戸きどという選手もその1人だ。桝田は途中からの移籍組であったため、すでに彼がイップスに罹っている状態での出会いだった。

 それでも20代前半からイップスに振り回され、やっと安定してきたのが28歳とプロとして遅咲きの部類になったとはいえ、そこへ至る尋常ではない努力を知っている。「体育館に住んでいるのでは?」と言われているぐらいと言われていた桝田でさえ、城戸きどはそれ以上のストイックな練習している様子をドン引き気味で見ていたと言えば伝わるだろうか。

 それほどイップスは責任感が強い、真面目な人ほどなりやすい傾向にある。


「落とし穴だって分かっているのを、わざと教えずに身をもって体験させる必要があるのか? わざと傷つけないように教えるのが大人の役目だろ」


 そういう桝田に対し、フゥ、と一息つくと桐谷は腰に手を当てながら口を開く。


「これは俺の持論だが。コーチという役職は偉そうに見えて、結構大変だ」

「俺のやりたいバスケをするだけなら、ロボットにやらせれば万事解決だ。けれどバスケって結局のところ人がやるだろ? だから選手の特徴や意向を把握しておかなきゃならない。意見の食い違いで、場合によっては親御さんと喧嘩になるしな」

「そんでコーチとして技術や戦術を選手達に教えることは出来るとはいえ、それでもそれを実行するのは選手だ。勿論、1から10全てが上手くいくとは限らない。それで勝てなかったりしたら、憎まれ役になるのはコーチの役目だから仕方がない。それでも結局のところコーチは選手を信じることしかできないと思っている」


 矢継ぎ早に紡がれる、コーチ歴何十年である桐谷の言葉。

 桝田にとって、今まで元選手としての目線で考えていたのもあった。それと同時にコーチとして、まだまだだなと自覚もした。

 

「だから、俺に言えるのは1つ。いちコーチとして信じてやれ。選手を、夜野やのを」

「……分かった」


 あの半年に近い夜野との自主練期間中も、常に伝えられていた『試合に出たい』。

 だがそれ以上に、今までの選手としての経験から1つの理由で落ちに落ちた選手が這い上がる大変さを知っているからこそ、夜野に対して保身的になってしまっていた。

 

 ――誰だって試合に出たいよな。俺が一番分かっていたはずなのに、何処か保身的に考えてしまっていた。


 夜野だけではない、今いるベンチメンバーも試合に出たいはずだ。途中交代で出場した内山だって、本調子ではないにしろやるべき事を懸命に遂行している。

 

「俺もまだまだだな……」

「何年もやっている俺だって、選手から学ぶことは多い。まぁ、勉強だわな……」


 話し声が聞こえなくなった廊下に、2つの足音だけが反響していた。


「さて早くミーティングしなきゃだし、短く聞きたい事言うわ。前に夜野のイップスが出るときって自分より背の高いぐらいって言っていたが、今の状態だとぐらいなら大丈夫そうだ?」

「俺ぐらい、ってなると185cm程度はほぼ確実に問題ない。190cmぐらいは前岡を前にして、最近なんとか強張りは前より減ってそれなりに打てるようになったぐらい。2mは試していないから分からん」

「じゃあ問題ねぇな! 相手の選手でデカくても190cm代とはいえ、うちの路川や前岡より小さい。第3Qの残り7分頃には夜野出すぞ」


 ドラマの脚本で言いたいことが決まっているかのように、掛け合いが、物事が淡々と進む。

 2人はロッカールームの扉を開ける。桝田はすれ違いざま、夜野の肩を軽く叩いた。


「えっ突然の肩ポン怖いんですけど!?」


 夜野がその理由を知るのは、あと5分もしない少し先の未来でのことである。

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