第2話


 ーーーー……け、て……。



 ……誰かに呼ばれた気がして、すぅっと少女は瞳を開ける。

 十五、六歳程度に見える少女は、薄紫色の長い髪を床にまで垂らしながら、膝を抱えてうつむいていた。あわいサファイア色の瞳が髪の間からチラリと覗く。

 少女は今、何処に行くのかも分からない馬車の荷台の中にいた。荷台の中は薄暗くてハッキリとは分からないが、自分以外にも人がいる事が判別出来た。馬車が揺れると肩が当たり、時々話し声も聞こえる。少なくとも十人程度はいるようだ。

 だが少女には、自分が何故こんな所にいるのか、皆目かいもく見当もつかなかった。

 自分はいつも暗い洞窟の中にいたはずなのだ。誰も自分に気付いてくれなくて、寂しくて、怖くて……。

 そんな時、すごく優しい目をする青年に会った気がするが、ぼんやりとしか思い出せない。

 ーーーーあ、れ……?

 そういえば、その後にも誰かに会った気がする。誰……だっけ。

 ……ふと、少女の脳裏に三日月の形に口をゆがませる誰かの姿がよぎった。


『ーーーーあぁ、まだ、こんなところにいたんだ……』


「……っ」


 びくっと体を震わせ、少女は自分の胸の前の服をきゅっと握り締める。

 な……んだろう、今の……。

 だが少女の思考は、馬車が止まった揺れによってさえぎられた。外に人の声が聞こえる。


 どうやら街に到着したみたいだ。

 先導員に従って荷馬車を降りると、少女は久しぶりに感じるまぶしい光に思わず目を閉じる。何度か目をまたたかせた後、今度は生まれて初めて見る外の世界に圧倒された。

 ーーーーここが、外の世界。

 森の中央部の開けた土地を利用して開拓されたと思われるこの街は、森を最大限利用した建築がなされていた。

 木の枝の上には丸い卵のような家々が建ち並び、上手く枝への位置を工夫する事によって、まるで家が宙に浮いているように見せている。道も一応は整備されているが、ほとんどが草の生えたままだ。街を進むにつれて不思議な花々が地面をいろどり、異国風な雰囲気がある。それだけに限らず、市場や他の建物なども見たことないものばかりで少女は胸をおどらせた。

 それに何より、人間に会うということ自体が少女にとっては初めてに近い事なのだ。

 少女は辺りを見回すと、背中に視線を感じて後ろを振り向く。すると、先程の先導員がじっとこちらを見ていた。


「ーーーー……?」


 ……不意に、その先導員がニヤリと笑った気がした。

 ぞわっと、背筋に怖気が立つ。


 ーーーー同じ、だ。

 少女は無意識に一歩後ずさる。

 逃げなければと思った次の瞬間には、きびすを返して走り出していた。


「…………っ……」


 今まで動く事の少なかった少女の体は、走り出してすぐに限界を迎えた。息が上がって喉の奥が痛み出す。だが、早くあそこから離れたいという強い想いだけが、少女の足を突き動かしていた。

 早く、ここから逃げなくちゃ。


《ーーーー……け、て……》


 ……また、声が聞こえた。

 誰なんだろう、この声は。……ずっと、誰かに呼ばれてる気が……。



「ーーーー危ねぇぞ、どけろ!!」

「え……?」


 少女が横を向くと、こちらに向かって馬車が勢いよくせまってくる。

 少女は目を見開いた。

 馬車が迫っているからではない。一人の青年が、少女と馬車の間に立っていたから……。青年の瞳は、真っ直ぐに馬車に向けられていた。


「…………お前がどけろよ」


 その台詞せりふと共に、馬車が一瞬にして後ろに吹っ飛ぶ。反動で辺りに土煙が舞った。


「ーーーーえ……?」


 一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。

 青年が動いた気配はない。それにも関わらず、馬車が独りでに宙を飛行する。

 慌てて飛び出した運転手は、青年を一目見て口をあんぐりさせた。


「お、……お前は……っ」


 青年の眉がピクリと動く。

 だが、それだけだ。青年の口が開くよりも先に、運転手は青ざめた顔でその場から逃げ出した。

 その様を見てあきれた溜め息を溢すと、青年は少女に向き直った。


「ーーーー大丈夫か?」


 少女は一つ頷いて目の前の相手を見返す。

 青年は端整たんせいな顔立ちをしており、立ち振る舞いも隙がなく、非の打ち所がない人物だった。だが、それだけでなく、親しみやすそうな雰囲気もただよう。

 髪は癖毛で、光の当たり具合から茶色の髪が所々赤く見える。瞳は綺麗なエメラルドグリーンだ。

 少女は何となく、その瞳になつかしさを覚えて、無意識に青年のそでたもとを掴む。

 青年は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに何とも言えない笑みを浮かべる。そして軽く膝を折り、少女に視線を合わせた。その瞳は、どことなく優しい。


「ーーーー大丈夫だったか?紫苑しおん


 青年の言葉に、少女は息を呑んだ。思わず青年の顔を凝視する。


「どうして、私の名前……」


 少女ーー紫苑が疑問を投げ掛けると、青年は瞳を震わせ、少しだけ瞼を下げる。


「…………そうか……。お前は、覚えてないんだもんな……」

「……え…………?」

「ああ、いや。何でもない。そういや、紫苑はハロゲンの森に来るのは初めてだったよな。家がないなら、俺達の家に来るといい。案内するから付いてきな」


 紫苑の疑問に答えるつもりはないらしい。青年は何事もなかったかのように明るい口調で話し始めた。

 紫苑も必死で青年の後を追いかける。何にせよ、今はこの青年だけが頼りだ。

 しばらく歩いたところで、紫苑は恐る恐る口を開く。


「……あの、名前、……聞いてもいいですか……?」

「ん?」


 突然の質問に青年は一瞬足を止め、後ろを肩越しに振り返る。そして、あぁと合点がてんのいった顔をした。


「そういや、まだ言ってなかったっけか。…………俺は、飛燕」

「ひ、えん……さん」

「飛燕でいいよ。さん付けされると鳥肌が止まらなくなる」


 そう言って飛燕は片目をつむってみせる。


「ほら、着いたぞ」


 街からだいぶ歩いて飛燕が案内した家は、森に囲まれ、周りから隔離されたような場所にポツンと建っていた。だが、家の大きさは街で見たものの二倍以上はある。階段を上ると家の前の扉にたどり着くが、なぜか家の上にさらに卵のような形をしたものが四つほど浮かんでいた。飛燕に尋ねると、二階部分はそれぞれの部屋なのだという。一階部分に、仕事部屋やリビングなどの共通スペースがある。

 家の周りの草木や家の壁の細工も素晴らしいものばかりで、紫苑は思わず目を奪われた。


「ーーーー……」


 言葉もなく家を眺める紫苑に、飛燕はスッと手を差し出した。


「行こう、紫苑。今日からここが、お前の家だ」


 い、え……と小さく口を動かし、紫苑は瞳を震わせる。

 ……本当に、入ってもいいのだろうか。

 自分は、そんな事望んではいけないものだと思っていたし、考えた事もなかった。

 だって、自分は化け物で、他の人間と一緒に生きる事は許されない。……ずっと、そう言われてきたのだ。


『……化け物っ!』

 そう呼ばれていた時の記憶が頭から離れない。

 紫苑はあの頃と同じように、耳をふさいで瞑目めいもくした。


「………………」


 それを見ていた飛燕は、そっと紫苑に手を伸ばした。ぽんと彼の暖かい手が紫苑の頭に触れる。そのエメラルドグリーンの瞳が静かに揺れた。


「ーーーー大丈夫だよ、紫苑。この家には俺がいる。お前を一人にはしない」


 紫苑は涙の溜まった瞳をそのままに、飛燕を見上げた。彼は、紫苑が不安に思っている事は何でも分かっているかのように話す。

 ふと、飛燕が先程さきほど言っていた言葉が脳裏を過った。


『…………そうか……。お前は、覚えてないんだもんな……』

 飛燕は紫苑の事を知っている。でも、紫苑は彼の事を覚えていない。

 飛燕を見て、最初に浮かんだ面影がある。懐かしくて、大切な人だったはずなのに、紫苑の記憶からはそこだけがすっぽりと抜けていた。思い出せるのは、断片的なもののみ。

 この街に来るまでの記憶が、どうしても思い出せない。

 この人と一緒にいられれば、無くした記憶を思い出せるだろうか……。

 紫苑は自分の服の袖で涙をぬぐうと、飛燕に対して頭を下げた。



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