女王陛下の忠犬―人狼と吸血鬼の怪奇事件簿―

保月ミヒル

第一章 路地裏の悲劇

 ロンドンは夜霧に重く沈んでいた。


 汚物がぶちまけられた路地裏では、ネズミが餌を探し徘徊している。

 やがてネズミは色褪せてしわしわになった小さな林檎のかけらを見つけ、嬉々として咥えようとする。

 けれどにわかに動きを止め、警戒したようにはっと顔を上げた。


 ぴくりと動いた小さな耳が捉えたのは、こちらに向かってくる小さな足音と弾む吐息。

 ネズミは慌てた様子で林檎を咥えると、急いで排水口へと逃げていく。


 入れ替わりに、場所に似合わず身ぎれいな格好をした少女が路地裏へと駆け込んできた。

 少女はあどけなさの残る顔に恐怖と絶望を浮かべ、すぐ後ろを迫いかけてくるモノから逃れようと、細い手足を懸命に動かして路地裏の奥へと逃げていく。

 しかしそこは行き止まりだった。


「どうして……どうしてこんなことに……っ」


 少女が涙をこぼしてくずおれる。

 ネズミが排水口から顔を出したその時、追跡者がついに路地裏に姿を現した。

 その影は大きく、獣のように荒い息をしている。


 少女はまるでその首筋に生ぬるいものを感じでもしたかのように、引きつった表情で振り返る。

 獣の一歩は、少女の十歩もあるように思えた。


「ねえ……ねえ、どうして? 私のことが嫌になったの? 私はあなたのことが本当に好きだったのに。あなたが、たとえ――でも」


 少女は獣に語りかける。

 けれどもう言葉は通じないと半ば悟っていた。


 獣が低く唸って地を蹴った直後、少女の悲鳴が響き渡った。

 惨劇の滴を浴びて、唯一の観客であるネズミが口にしていた萎びた林檎が鮮やかな色を取り戻す。

 ほんの少しだけ欠けた明るい月に照らされた路地裏は、たちまち血の匂いにむせかえった。


 ◆


「悲惨だな」


 クライヴ・マーシャルは手袋の位置を直しながら、神経質そうに眉根を寄せてそう呟いた。

 ロンドン警視庁から支給された制服が、細身の長身を隙なく包み込んでいる。

 灰青の目を細め、薄く血色のある唇をきゅっと引き締める。

 プラチナブロンドの短髪は、角度によって銀糸が含まれているように煌めいた。


 微笑めば周囲の誰もが振り返るだろう中性的な美貌だったが、今は目の前の光景に表情を曇らせている。

 昨夜何者かに襲われた少女の遺体はすでに片付けた。

 だがこうも血が飛び散っては、雨が数日降り続けない限り元通りにはならないだろう。


 被害者はアンナ・ファーカー。小さなテーラーで針子として働く娘だった。

 どうやら職場からの帰宅途中に襲われたらしい。

 甘い匂いが鼻腔をくすぐり、クライヴはますます不機嫌そうな表情になった。


 幸い今は空腹じゃない。これくらいの血を見ても平静を保っていられる。

 人に気取られないよう静かに深呼吸をしたその時、若い警官の一人が、じっとクライヴの様子をうかがっていることに気付いた。


「なんだ?」


 問われた警官は、しばらくためらってから口を開く。


「その……平気、なんですか?」

「その質問は、僕にしているのか? この仕事を3年も続けている僕に。今さら事件現場を見てまいってしまうようなことはないが」

「あっ、いや――そ、そうですよね。失礼しました」


 けれどまだ少年の面影を残した警官の瞳には、まだ納得していないような色があった。

 町の安全を担う立場ゆえか、あるいは単なる好奇心か。


「君の質問の意図は分かる。『吸血鬼にこの現場はきついんじゃないか』。そういうことだろう?」

「っ……」


 若い警官は図星を指されたように言葉に詰まる。


「吸血鬼は無闇に血を欲するわけじゃない。その様子では君の知り合いに吸血鬼はいないようだが、もう数百年も人間と友好的な関係を続けている。

 ごくたまに、瀉血で出た廃棄用の人間の血を、指定された機関で医師にしてもらうだけで、我々は人間と同じ生活ができる。

 その上、身体能力は人間以上だ。

 だから我々は、血を提供してくれる人間たちの恩に報いるため、人を守る職に就くことも多い。この僕も例外じゃないということだ」


 クライヴは、若い警官を安心させるため、噛んで含めるようにそう言った。


「要は、心配ない。僕が床に零れたディナーを舐め取るようなマナー知らずに見えるのなら別だが」


 最後にユーモアを添えることも忘れない。慣れない現場で緊張する後輩に向けてのささやかな気遣いだった。

 しかし若い警官は震え上がらんばかりの怯えた様子で敬礼をする。


「し、失礼いたしました!」


 クライヴの意図とは裏腹に、涼しげな容貌から発せられる淡々とした皮肉は、相手を萎縮させるに充分なもののようだった。


 クライヴは自分がまた人間とのコミュニケーションをしくじってしまったことを悟り、ため息をつく。

 奥の手を使えば今すぐ友好関係を築くこともできるが、個人的な信条としてその手段は取りたくなかった。

 そんなことをしてしまえば、自分が『化物』であると認めることになる。

 

 人と人ならざる者たちとの関係は、14世紀、ペストが大流行した直後に始まった。

 黒い病がヨーロッパで猛威を振るったせいで人口が大幅に減少し、栄えた文明も衰退した。


 そんな中、今まで闇の中に隠れて生息していた吸血鬼が突然人間にその正体を明かし、共に社会を作っていくことを持ちかけたのだ。

 本来なら捕食者と非捕食者の関係であるはずの吸血鬼と人間は、なぜか不自然なほどに早く結束を固めた。


 ここロンドンも、吸血鬼たちの協力のおかげで、ペストが治まった後に急速に再興を遂げたのだった。

 初めこそ怯えられ危険視されていた吸血鬼たちだったが、人間が払わなければいけない代償はそう多くないとわかり、その後は難なく受け入れられていった。

 恐ろしい病魔と、親切な申し出をしてくる未知の存在とを比べれば、後者の方が圧倒的に親しみを持って迎えられるというわけだった。


 その様子を見て、他の『人ならざるものたち』も、次々と正体を明かし、人間と共存する道を選ぶことになる。


 ただし、一部の種族を除いては。

 例えば、人狼たちは町に暮らすことを良しとせず、人里離れた森の中で群れを作った。

 人間と共存できなかった『人ならざるものたち』は文明に取り残され、あるいは滅亡し、あるいは人間へと憎悪を向ける。


 ――今回の事件のように。

 クライヴはしゃがんで、現場に落ちた数本の毛束を拾う。

 くすんでごわついたそれは、まさしく狼の毛だった。


 ロンドン警視庁特殊犯罪捜査担当官。

 それがクライヴの肩書きにして、人ならざるものたちの犯罪を追う特殊な警官であることの証だった。

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