淡水魚と恋

倉田日高(管原徒)

淡水魚と恋

「あなたのことが、好きなんです」

 目の前に立つ彼女が深々と頭を下げた。僕は突っ立ったまま返事をしない。彼女の言葉が向いているのは、僕ではないからだ。


 彼女は腰を曲げたまま、ちらりと目線だけを上げた。僕が抱えた金魚鉢の中で、金魚は悠然とひれを翻し、水底へ潜っていった。冷たい水の中で暮らす彼には、彼女の焦がれる視線は熱すぎるのだろう。

「……」

 瞼の縁に涙をためた彼女は、制服の裾で乱暴に目を拭った。


「また明日、来るね」

 毎日繰り返されるその言葉は、一割くらいは僕に向けられたものだった。

「うん、また明日」

 僕の返事は聞かず、彼女は理科室を出て行く。


 残された僕は、金魚鉢を窓際の定位置に置いてため息をついた。膝を曲げて、優雅に泳ぐ金魚に目の高さを合わせる。

「そろそろ返事してやれよ」

 僕の非難がましい目に気付いたかのように、金魚は背を向け、水草で体を隠した。



 彼女が理科室へやってくるようになったのは、一ヶ月ほど前だ。

 放課後、人が来ない校舎の片隅で、彼女は誰かに告白したらしい。そしてこっぴどく振られ、たまたま駆け込んだのがこの理科室だった。

 わんわんと泣きながら金魚鉢に向けて愚痴り続けた彼女は、何故か翌日もやってきた。その翌日も。気付けば毎日、彼女は金魚鉢に向かい合っていた。


 僕一人しかいなかった科学部の活動は、彼女の愚痴で埋め尽くされていた。元から金魚やフナやザリガニたちの世話をするくらいしか仕事はなかったけれど。

 毎日不躾に入ってきては、金魚鉢に話しかけて、気が晴れると立ち去っていく。たまに僕と言葉を交わすこともあるけれど、同じクラスだというのに名前も覚えていないようだった。


 彼女が金魚に告白するようになったのは、一週間前だ。もう一週間も、僕はその茶番に付き合わされていた。

 理科室のカーテンを閉めて電気を消す。しんと静まりかえった部屋に、ごぽごぽとエアポンプの音だけが鳴る。

「また明日」

 そう金魚鉢に声をかける。赤いひれが、手を振るかのように閃いた。



――――――――――



 そろそろ彼女が来る時間だな、と思うと同時に、扉が勢いよく開いた。

「……あれ」

 定位置へずかずかと歩いて行った彼女は、怪訝そうに辺りを見回す。

「金魚鉢は?」


「報われないって分かってるのに、どうして何度も告白するの?」

 僕はそう尋ねた。彼女はぎゅっと眉を寄せる。

「金魚鉢は?」

「何故?」

「どこ」

 僕は机の下から金魚鉢を取り出す。その中でいつも通り揺らめく金魚の尾びれに、彼女はぱっと顔を明るくした。


「それで、どうして?」

 金魚がゆったりと泳ぎながら、僕を見上げた気がした。

「別に、好きなのに理由なんてないでしょ」


 あまり本心のようには思えなかった。

「そうなのかな」

「愚痴を聞いてくれたのは、この子だったもの」

 それに、と彼女は頬を緩ませる。

「こうして告白していれば、いつか、恋が実るかも知れないでしょ」


 永遠に来ることがない「いつか」。その日が永遠に来ないからこそ、彼女はいつまでも恋い焦がれていられる。

 報われないと知っているから、彼女は今幸せなのだろう。ガラスの水槽の中を泳ぐ金魚は、彼女に無関心だから。この恋が終わることはないから。


 ああ、その気持ちは分かるな。

 僕の名前も覚えていない彼女の、恋に焦がれる綺麗な顔をじっと見つめる。彼女が恋愛の愚痴を吐いていた時、僕も同じ部屋にいたというのに、彼女は金魚を選んだ。


 彼女はうっとりと潤んだ目を金魚鉢に近づけて愛を囁いた。

「あなたのことが好きなんです」


「相手が、自分に無関心だから好きだとは、惨めだと思わないのかね」

 金魚は尾びれを打ち振ってそう言った。淡水魚らしい冷淡な口ぶりだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

淡水魚と恋 倉田日高(管原徒) @kachi_kudahara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ