誰もいないのだ
四葉みつ
誰もいないのだ
魔王が住んでいる、と言ったのは誰が最初だったのか。
いびつな枝振りの枯れた木々をかき分け、地を這う
二百年前から建っていたと言う者もいれば、昨日まではなかったと言う者もいるという。月明かりに照らされた木の陰が創り出したまやかしであり、実際そこには城など姿形もないと言う者もいたという。
しかしそれを確認できる者は誰もいない。
「ああ、また失敗した……」
そのあるのかないのか分からない、あやふやとした宮殿の中で男はひとりごちた。
血のように赤い瞳に、肩まで伸びたばさばさの黒い髪。その髪の間から水牛のような角が両側にはえている。人の歳にすれば十五歳、いや二十歳前後といったところだろうか。古めかしいが質のいい深紅のマントを羽織るその姿は、まさに魔王の風格を漂わせていた。
そんな彼は、いささか広すぎる舞踏場の真ん中にぽつんと置かれた小さな机の前で、とびきりに長いため息をつく。
机の上には怪しげな色をした液体がいくつも並べられ、そのうちのいくつかの瓶は火にかけられて白い気体を吐き出している。
「じじいの残した本によれば、この薬に月夜で清めた赤砂と二つ向こうの山にある綿毛草を煎じて混ぜるべしって書いてあんのに」
書かれたとおりに混ぜた結果、瓶からもくもくと上がった濃い煙が床を這うように広がり、あっという間に宮殿を包んだ。おそらく外から見れば今この建物は完全に消えている。城などまやかしだと言う者がもし出てくるのならば、原因はだいたいこれであろう。
机の上に置かれた分厚い本の五百二十三ページ目、上半分に書かれた調合の結果は失敗であった。ちなみに本のページ数はゆうに二千を超えており、同じような厚さの本がまだ何冊も存在する。これは十八巻目。そのすべてがある薬の作り方だった。
素材を集める必要もあるので調合出来るのは一日に一ページが関の山で、中には二日以上かかるものもある。
つまり彼は、この本を最初のページから毎日試し続けていた。十七巻と五百二十三ページ、つまり百年ちかくも毎日実験とため息を繰り返している。
彼は目の前の本の該当箇所に『建物が消えやがったぞクソジジイ』と実験結果を書き足した。
「いや、待て。この調合は三十年くらい前にやったような気もする。いや、あのときは綿毛草じゃなくて種だったか。細かすぎてもう覚えてねえな」
落胆しながら彼は椅子に深く座ると、背もたれに寄りかかって天を仰いだ。
目を閉じると大昔の
この広い舞踏場では着飾った大人たちが毎晩
たくさんの美味しいご馳走と、きらきらとした魔法と、ほんの少しのいたずらと、部下の間抜けな失敗に笑って過ごして平和な世の中だった。
そして、自分を残して誰もいなくなった。
勇者が魔王を滅ぼした?
いや違う、人間も魔族も等しく滅ぼされたのだ。
ある日突然、世界が暴走した。地上のあらゆる知的生命体たちは海に飲まれ、強風に巻き上げられ、あるいは地面の割れ目に吸い込まれていった。難を逃れた魔族たちも少しずつ灰になって消えていった。
じじいも例外ではなかった。
お前に魔法をかけたから大丈夫だの、世界を救う勇者になれだのと好き放題に言って、この沢山の本を託して灰になって飛ばされていった。
あっけない最後を思い出しては夜ごと淋しさに打ちひしがれていたのは、いつが最後だっただろうか。感情が少しも動かなくなったら、見た目の成長もすっかり止まってしまった。
「……仕方ねえな。じじいとの約束だからな」
魔王の血をひく彼はゆるりと立ち上がると、目の前の本を閉じた。
今日の実験は終わり。続きはまた明日。
ただ一人残された宮殿の中で、彼は怪しげな薬を作り続ける。人を、魔族を等しく蘇らせる、賢者の石のような禁断の薬を。輪廻の
そのときはまた笑って過ごせるのだろうか。
などと思いながら足を踏み出そうとして、彼は小さく舌打ちをした。
「チッ、床が見えなくなってんぞクソジジイ!」
赤い絨毯は目の前から消え、地面の土が透けて見えている。机の上の怪しげな小瓶からはまだ白い煙が出続けている。
寝室に戻れるのはしばらく後になりそうだ。
その宮殿に確かに魔王は住んでいた。実験に失敗して今はちょっと姿が見えないだけ。
しかしそれを確認できる者は誰もいない。
誰もいないのだ 四葉みつ @mitsu_32
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