第8話 あの人のこと
赤坂凛。日本のミュージシャン。二〇一〇年九月十七日に、ユーチューブにて楽曲「悪」を投稿し、活動を開始。以降さまざまなヒット曲を発表するも、二〇一五年八月一日に自身のツイッターで引退を発表。活動開始日の九月十七日に引退ライブを行った。代表作に、「FloWAR」「アイボリーアイロニー」「狂」など。
これが、赤坂凛について、ウィキペディアの冒頭にある記述だ。活動期間はわずか五年。その短すぎる音楽活動を通して発表された楽曲は百五十曲にのぼり、アルバムは十枚ちょうど。その数字のあまりの美しさも、赤坂凛の“伝説”のひとつである。もともと決めていたのかと思うほど、綺麗なタイミングでの引退だった。
謎が多いことも“伝説”との異名の由来だ。年齢も顔も、性別すらも公表はされず、テレビやラジオへの出演もない。ネットの特定班と呼ばれる人々も、赤坂凛については大した情報を掘り出すことができなかった。発表された曲は次々と一千万再生以上を記録していったのにもかかわらず、ネット以外の世界では赤坂凛は存在しないかのようだった。誰もあの人の話はせず、好きな歌手としてあの人の名を挙げることは、まるでタブーのように避けられた。ハリーポッターを初めて読んだとき、ヴォルデモート卿を赤坂凛みたいだと思ったのを覚えている。
私が見に行ったのは、引退ライブだった。いや、そもそもそれが、赤坂凛の唯一のライブだったのだ。小学生の頃からずっと好きだったあの人の引退を告げるツイートに、中学三年の夏、私は硬直した。頭の中が真っ白になるとはこういうことかと、一周どころか二、三周回って冷静になっていた。硬直が解けた後は、簡潔に引退だけを知らせる百四十文字に満たない文章を、何度も読み返しアプリを閉じてはまた開いた。
同時に告知されたライブは活動開始日の九月十七日。東京公演の一回のみ。チケットは完全抽選制で、会場は小さなライブハウスだった。
なぜ当選したのかはわからない。当選の知らせが来た時にも、私の頭はホワイトアウトした。
そうして受験勉強の真っただ中、両親の反対を押し切って、私は一夜、東京へ飛び出したのだった。
そこまで話し終わる頃には、瀬名ちゃんは酒の缶のすべてを空にしていた。そのくせ全く酔いは見せずに、無邪気に輝く瞳で言う。
「それで音楽始めたんだよね。じゃあライブ外れてたら、私たち出会えてなかったんだ」
「確かに……。ていうか、どうして当たったのかいまだに不思議だよね」
「運命じゃない? それこそ」
「運命って、そんなの」
否定しかけて、私は思いとどまった。運命やら神やら、そういう目には見えないものを信じてはいないけれど、こればかりは不思議すぎるのだ。「ライブハウスでライブをしてみたかった」という理由で選ばれた、定員五百人程度の小さな会場。批判は相次いだが、それさえも伝説的なあの人の生き様がいいように美化して、引退ライブは幻と言われた。何分の一かもぱっとわからないほどの確率に、なぜ私が選ばれたのか。神の御手、なんて言葉がふと浮かぶ。
「瀬名ちゃんは、運命って信じる?」
なんとなく、そんな問いが口をついて出る。瀬名ちゃんは少し目を見開き、私を見つめた。
「信じないよ」
珍しく、と言うと失礼だが、瀬名ちゃんは静かに、真面目な声で答えた。一瞬気圧されるほどだった。「そっか」と小さく答えるだけにとどめる。そんな私に瀬名ちゃんはもたれかかり、表情を和らげた。
「信じてそう?」
「うん……。いや、信じてそうっていうか、さっきから運命運命って、何回も言ってるから」
「あぁそうだっけ。まぁ、信じてはないけど、あったらいいなとは思うよね」
「そうなの?」
「違う?」
違うかな、と私は答える。私の成功も失敗も、初めから神に決められているのだとしたら、私の存在意義はどこにあるというのだろう。失敗を神のせいにして、自分を守ろうとしたところで、そこから何が生まれるというのだろう。運命などというものに縋りたくはなかった。私以外の何者にも、私の人生は動かせない。私の生きる百年弱には、神にだって手出しはさせない。
運命なんてくそくらえ。
赤坂凛も、そう歌っていた。
「ま、人の考えは人それぞれだよね」
瀬名ちゃんが笑う。そうだね、と私も微笑み返す。
「じゃ、そろそろ帰ろうかなあ」
「わかった。……え、もう一時前だ」
「嘘。やばい、仕事行かなきゃ」
「えぇ、今から?」
「いや待って、今日何曜日?」
「水曜日だけど」
「……よかった。今日オフだ」
突然に慌てだした瀬名ちゃんは、スマホを見て曜日を伝えた途端に、おじぎ草のようにへなへなと座り込んだ。そんな瀬名ちゃんを、私は眉をひそめて見つめる。
「一体何の仕事してるの?」
「え? なんか、居酒屋みたいな」
「……ふうん」
「まぁいいや、おやすみ」
瀬名ちゃんはごまかすように肩をすくめ、持ち込んだアルミ缶を綺麗に抱えて扉の向こうに消えていった。部屋の中に残った他人の気配が、再び孤独を匿っている。
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