第7話 隣人
ギターを置いて数時間ぶりに水を飲む。突然訪れた静寂の中で、私はノックの音に気づいた。一定の時間をおいて、繰り返し軽く硬質な音が響く。こんな時間にいったい誰が、と身を固くしたとき、声が聞こえた。
「峯石ちゃん、こんばんは」
「瀬名さん……?」
苦情かと身構えつつ扉を開くと、両手に酒を抱えた瀬名さんが立っていた。
「どうしたんですか」
「飲もうよ」
「いや、未成年です」
「大丈夫だって。せいぜい十八とかでしょ?」
「十九です。あと半年飲めません」
「半年? 誤差じゃん」
「あの……」
「あ、ごめん、とりあえず入れて?」
玄関での問答の末、瀬名さんは私の部屋に侵入した。あまりの勢いに状況を飲み込めず、私も「散らかってますけど」などと呟いてしまう。実際、床には楽譜が散乱し、もらった桜餅の残りも、外気にさらされ続けて表面が乾いていた。瀬名さんは珍しそうに部屋中を見回す。
「わぁ、やっぱり音楽やってるんだ。ギターだよね、これ。作曲もするの?」
「ちょっと!」
ギターに手を触れようとする瀬名さんに、私は思わず声を荒げた。瀬名さんはびくりと肩を震わせて小さく謝る。
「ごめん」
「あ……こちらこそすみません……」
「いや、今のは私が悪いね。勝手に部屋に上がって物色するとか泥棒みたいなことしたわ、ごめん」
瀬名さんの真剣な視線に貫かれ、私は目を瞬かせた。ここまで真っ直ぐに謝られることなどなかなかない。なんだか居心地が悪くなってしまう。私は身体ごと向きを変えて視線から逃れようとした。
「それで、どうしたんですか? 突然」
「峯石ちゃんと仲良くなりたくてさ。今日はずっとギターの音してたから、いるんだと思って。いきなりだけど来ちゃったの」
「はぁ……」
「このアパート、女性少ないでしょ? とくに私たちみたいに、若い人は。おじさんたちと飲むのも悪くないけど、やっぱり友達にはなりきれないもん」
「……まぁ、そうですよね」
話しながら、瀬名さんはアルミ缶を床に置いた。缶チューハイに発泡酒、ビールなど、コンビニ中の酒を全種類集めてきたほどの数が転がる。自分もそこに座り込むと、すぐ隣を軽く叩き、私にも座るように促す。一応家主は私なのに、立場が逆転してしまっていた。
「峯石ちゃんは、下の名前は?」
「
「青? 珍しい名前だね」
「ですね」
「けど似合うな。青ちゃんでいい?」
「はい」
「あ、私のことは瀬名って呼んでね」
「苗字でですか?」
「うん、瀬名ちゃんがいい。可愛くない?」
「わかりました」
「あとタメ口ね。堅苦しいのは嫌い」
「……わかった」
瀬名さんーーいや、瀬名ちゃんは、一人でぺらぺらと喋りまくった。私はひたすら相槌を打ったり質問に答えたりするだけ。持ち込んだ酒は次々と栓を開けられ、その度に空気の抜ける小気味よい音が空間を彩った。
誰かと夜を過ごすのは久しぶりだった。あのクリスマス以来、剣持さんには店でしか会っていない。気を遣ってくれているのか、連絡の頻度も減っていた。それを少し寂しく、物足りないと感じてしまうのは、私のわがままでたちの悪いところだ。だからなのか、突然の訪問を迷惑だと思う一方で、どこか嬉しいような、安心するような気もしていた。
「青ちゃんはさ、いつからミュージシャン目指してるの?」
「中学の三年くらいからかな。東京で見たライブに衝撃を受けて、あの人に憧れてギター始めたの」
「なんて人?」
「赤坂凛」
「あっ、知ってるかも。“伝説”でしょ?」
「よく知ってるね。有名なのは界隈でだけかと思ってた」
「ふふん、私の知識は広く浅くだからね」
「じゃあ何がどう“伝説”かは知らない?」
「……なんとなくしか知らないなぁ。先生教えて?」
瀬名ちゃんは甘え上手だ。適度な甘さと強引さで、頼み事を進んで引き受けようという気にさせられる。こういう小さなわがままを重ねて、いつか大きな頼み事も断れなくなりそうだ。
いいよ、と答えて私はあの人についてーー赤坂凛について、語った。
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