幕間2

モモの思い出 その1

 その小さな犬は腹を空かせていた。

 その子犬を認識してから、まだ何も食べていない。

 よたよたと町の雑踏を避けるように、道の端を歩いている。


 顔立ちは柴犬に見える。全身は黒い。黄粉色のマロ眉毛がなんとも愛らしい。


 しかし、体は小さく生後半年くらいのようだ。

 まだまだ母犬について歩く月齢だろう。


「おやおや。ちいさな子犬じゃないか。おっかさんはどうしたんだい?」


 たまたま通りかかった店先に、声をかけた老爺がいた。

 小さな犬は、歩みを止めるも首が持ち上がらない。

 うつむいたまま。ただ、立ち止まっただけ。


「そんな小さければ餌を探すのも苦労するだろうに。こっちへ来なさいな」


 老爺はそう言うと店の中に呼び入れる。

 小さな犬は世を諦めたように、言われるがまま中へと入っていった。



 入っていった店は老爺が商っている団子屋だった。

 老爺は既に妻を亡くしており、子もいない。

 老爺が一人で切り盛りしている店だ。


 お世辞にも客の入りが良いとも言えない少し寂れた印象を持つ。

 店主である老爺の人柄の良さで何とか持っている、そんな店だ。


 小さな犬に餌をやるため調理場を漁るが、あいにく団子くらいしかない。

 幼く、まともに食えていない子犬に団子を食わせるのは酷だろう。


 老爺も同じ考えのようで団子には目もくれず、何か食い物がないか探している。


 焼いているお団子をそっちのけで探していると、老爺は何か思いついたようだ。

「あっ、あれならどうだ」と独り言を呟き、袋状にされた風呂敷から竹皮包みの握り飯を出してきた。


 その握り飯の一つをほぐして椀に入れ、白湯をかけた。湯漬けである。

 それを子犬の前に置くのだが食べる様子はない。


「腹が減ってるんじゃないのかい?」


 どうしたもんかと、しゃがみ込みながら考える老爺。

 次第に、焼いていた団子が香ばしい匂いを上げ始める。


「こりゃいかん。お前さん、それ食って待ってなさいな」


 子犬は老爺の言うことを聞かず、湯漬けに見向きもしない。

 どちらかと言うと焼いている団子に興味があるのか、そちらに首を向けている。


 老爺は長年の経験から手さばきに淀みがない。

 奇麗に焼き目のついた団子を皿に乗せると、刷毛でを塗る。


 熱々の団子に温められたは醤油とほのかな甘い匂いを立ち昇らせ、小さな店内に香りを充満させる。


 待っていた客も、湯漬けに反応しなかった子犬も思わず鼻をヒクつかせる。

 その仕草を見て取った老爺は自分の団子を褒められたようで嬉しそうだ。


「なんだい。お前さんも、このみたらしの良さがわかるのかい」


 老爺は客に団子を届けると、子犬にやった湯漬けの椀を拾い上げる。

 土間に湯を捨て、残った飯にみたらしをかけてやる。


 するとどうだろうか。黒い柴の子犬は持ち上がらなかった首がしっかりと上がり、その椀を凝視する。

 ことっと土間に椀が置かれると顔を突っ込むとガツガツと食い始めた。


「うまいか? まったく変な犬じゃて」


 腹を空かせているだろうに、食べ物の選り好みをするだけでなく、みたらし餡を喜ぶとは珍妙だろう。


 しかし、小さな子犬が飯を食う姿は、なんとも言えない愛嬌がある。


「長屋じゃ飼えんが、ここで良いなら好きなだけ居ればええ」


 老爺も子犬にようで、一時の恩情というつもりはなくなったようだ。


 黒い柴の子犬は、老爺の言葉を聞いていないのか反応もせず、椀に顔を突っ込んでいた。



 ※ ※ ※



 黒い柴の子犬が老爺の団子屋の同居人となって半年ほど。

 季節は冬真っ盛りである。


「うぅ~、寒い寒い」


 ここは老爺の団子屋から離れた路地裏。

 近所に住む大工の孫が結婚するとのことでお呼ばれしたのだったが、ついつい酒を過ごしてしまったようだ。


 まもなく町木戸が閉まる時刻に近い。

 如月でも夜の寒さは身に染み入る。


 薄っぺらい袷に寒さを防ぐ力はない。

 寒さは老爺の体を侵食する。


 それは確実に老爺の身体を蝕む。

 着実に、着実に。



 ※ ※ ※



 老爺の団子屋に客が来なくなって久しい。

 ある日を境に老爺が現れなくなり、営業しない団子屋は、周囲から存在が忘れ去られていった。


 老爺から、梅と名付けられた黒い柴犬は待っていた。

 飯と住まいを与えてくれた飼い主の老爺を。


 次第に瘦せ衰えていく。

 飯が食えるようになり、いくらか成犬に近づいてきた身体は、前のように小さくなっていった。


 幾日経ったのだろうか。

 梅は、よろよろと立ち上がると店から出て行った。


 水路の石階段を下り、船着き場に降りるとゆっくりと、ゆっくりと水を飲む。

 ひとしきり飲み終えると店に戻らず道を歩いてゆく。


 どこを目指すというのだろうか。


 翌日。歩いている。道の匂いを嗅ぎながら。

 翌々日。まだ歩く。止まったのは水を飲むためと、残飯を漁っていた時だけ。

 幾数日。歩き続ける。団子屋を中心に行ったり来たり何度も何度も。


 いい加減、近隣の者たちも異様な状況に気が付き始める。


「やだねえ、団子屋の爺様のところのお犬様だろ? ありゃあ爺様を探してるんだろうね」

「可哀そうで見てられないよ。この間、爺様のことを教えてやったんだけどね。わかったんだか、わかってないんだか」


 瘦せ衰えた梅を見かけたご婦人方は、井戸端会議のネタを梅に切り替えた。


「私だって見てられないさ。いつまでも爺様を探してるんだ。もう諦めりゃあ良いのにさ」

「忠犬ってやつかね? あまりにも可哀そうだから、余り物の飯をくれてやってるんだよ」


「あんたもかい? 私もだよ」

「誰か新しい飼い主が見つからないもんかねぇ」

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