9.尾行
「ふふふ、人の役に立ってお金を稼ぐとは、なんとも心地良いものですね! モモ」
「わう!」
先日の紛失していた油を見つけた一件で、報奨金として椿屋から小遣いをもらった日向は、労働の対価を得た事に喜びを感じていた。
かつて紀州にいた頃は、叔母である日葵と一緒に山に潜り、薬草や花売り用の花を摘んだり、時折、得意の印地打ちで鹿を獲ったりもしていた。
その売上は家計の足しになる。
もちろん、それらは団子代にもなっていたのだが。
話は戻るが、彼女は労働という経験は有るものの、それは他者のためではなかった。
言うなれば、家が貧しいがために稼がねばならなかったというだけに過ぎない。
今までの彼女には、武家の子女としての矜持はあるが、さほど強いものではない。
それは、生まれた環境が、武士は武士らしくあるべきという矜持を持ち続ける事を困難にさせるほど、貧窮していたからだ。
必然、武士は武士らしくあるべきという、この時代の価値観は薄れていった。
生きるためには、外聞を気にする余裕はなかったのだ。
そうなると生来の性格が強く出る。
興味のある事に飛びつく、猫のような気ままな性格だ。
それが今回の油探しの一件で心境に変化が起きたようだ。
単に対価を得るためではなく、正当な評価と感謝を得る事。
それは若い日向にとって人生観を揺さぶる大きな出来事だった。
「さてさて、二つ目の油樽を探しに来ますか! また見つけてきたら五兵衛さん喜んでくれるかな!」
「わう!」
そう言う日向の背には、やけに頑丈そうな竹の背負子。
今回は重たい油桶を一人で運ぶつもりらしい。
モモは日向が楽しそうな様子を受けて、嬉しそうだ。
「では、しゅっぱーつ!」
葉月の太陽は、夏の主役はまだ譲らぬとばかりに存在を主張している。
少女と黒い柴犬は、照りつける太陽よりも元気に勇んで歩き出していった。
「今日は前に見つけた場所から渦巻き状に探索していきますよ!」
「わん!」
モモの黒い毛皮は太陽の熱を溜め込む。
毛皮のない人間でさえ汗かく気温を物ともせず、日向の指示に従い健気に探索を続ける。
ピッと、立てた尻尾を先導する旗のようにフリフリ振りながら進む。
可愛い丸いお尻も同様にフリフリと。
一刻余り神田の街の東側を中心に探索を続けた日向とモモ。
鍛えられたくノ一といえども、この炎天下では汗がとめどなく流れ、ほつれ毛が頬に張りついていた。
モモも息も切れ切れ、出発時にはピンと立っていた尻尾も力無く垂れ下がってしまっている。
しかし日向もモモも瞳の輝きを失っていない。
そろそろ神田柳原の古着市場が見えてこようかという辺りまで来ると垂れ下がったモモの尻尾に力が宿る。
トテトテとした歩みは、チャッチャッチャと次第に軽快になり、軽い駆け足となる。
後ろを歩く日向も歩みを速めた。
「わん! わん!」
まもなく、モモは目的の場所を見つけ出した様子でお座りをして、高らかに吠え上げる。
まるで自分の仕事を誇るかのように。
そこは柳原土手という古着の屋台が連なる河原と街境の間にある空き地だった。
空き地には廃棄された屋台の残骸が積み上げられていた。
日向が手前の朽ちた板を除けると、周囲の残骸とは明らかに違う新しい木で作られた桶が出てきた。
桶には丸に椿の焼き印が入っている。
探していた椿屋の油桶である。
「お手柄です! モモ。暑い中、よく探し出しましたね!」
「わうー」
頭をわしゃわしゃとされながら探索の功労者を讃える日向。
モモは褒められたことを喜んでか尻尾をブンブンと振るう。
「じゃあ、この後は私の出番です! 準備しますから、ちょっと待っててくださいね!」
椿屋の油を見つけたは良いが、大変なのはここから。
廃材の中から五貫(18.5kg)もある桶を引き上げ、持ってきた背負子に載せなければならない。
いくらなんでも、地面に置いたままでは、重くなった背負子は背負えない。
けれども、ここには木材の山がある。
日向は木材を見繕い、膝の高さになるまで井桁に組むと、その上に背負子を載せて「良し!」と仕上がりに満足のようだ。
もしかしたら気合を入れたのかもしれない。
袖を捲り上げ、油桶に両手を掛けると、一気に引き上げ、一歩一歩着実に運び、少し高い位置にある背負子に載せたのだった。
そして尻をつけるように低くしゃがみ込み背負子に腕を通すと、前に片手を着きながら、すくりと立ち上がる。
目指すは椿屋。
小さな身体に似合わぬ大きくて重い荷物。
その足取りは、危なげないものだった。
「あの小娘が我らの油を奪っていったのか。背負子を用意している所を見るに、一つ目もあの小娘で間違いない! 早速報告に行きたいのところだけれど……尾行して目的を調べなきゃならないんだったな」
隠された油桶は見張られていた。
見張っていたのは廃寺で、熊髭の男に罵られていた若い侍である。
彼は罵倒されたことに反発して、前回盗まれた油桶の一番近くの隠し場所の見張りを買って出ていたのである。
そして、張り込みをしている所に、まんまと日向が現れたと言う訳だ。
歴とした勤番侍である彼に尾行の経験などあるわけもないのだが、日向は重たい油桶を背負っているので、歩みの速度は速くない。
モモは時折、日向の顔を見上げながら、心配そうに隣に寄り添って歩いていた。
そうなれば経験の無い若い侍でも、後をつけるのは難しくない。
それに背中に大きな荷物を背負っている事で、背後を振り返ることもなかったのも幸いした。
鼻の効くモモでさえ、見ず知らずの人間であったし、長い探索の後でもあったので、気がつく事はなかったようだ。
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