不動の荷車(全14話)
1.暗部
江戸城の人気の少ない奥まった一部屋。
江戸城で働く役人は、役務に追われ忙しい日々を過ごす。
そんな中で割り振られた仕事もなく、時間の使い道に困った二人がいる。
この二人は、先代将軍の徳川家継の側近として権勢を振るっていたのだが、代替わりして吉宗の時代になった事で冷遇されていた。
元々、将軍の権威を笠に着て、やりたい放題したのもあり、誰も擁護してくれる者はいない。
その結果、窓際に追いやられ、仕事も与えられず飼い殺しとなっている。
人間というものは暇を持て余すと碌な事を考えない。
今回も、まさにその典型的な人間が一人いた。
手持ちの扇子をパチン、パチンとひっきりなしに開け閉めしている男と達観したように座る初老の男。
イライラとした様子を隠さない男とは対照的にもう一人は落ち着き払っていて、このような場所に呼ばれたことが迷惑そうだ。
「白石翁、貴殿は今の状況をどう思われるか?」
「面白い状況ではないが、実証実験は済んだしの。そのうち、こちらから辞めてやるわい」
奥まった場所にある、その部屋は陽の光が差し込まず、蝋燭の灯りのみ。
燃える蝋燭は、薄暗い部屋の淀んだ空気を、さらに息苦しくする。
「そんな! 分家の吉宗に追いやられてもよろしいのですか!」
「儂はそもそも学者であるからな。自説の検証は家継様の御世で十分できた。さほど今の席に興味はないわ」
この二人、立場は似ているが、生い立ちに違いがある。
その見識の高さは有名であり、彼を招こうと考える藩は多く、引く手数多であった。
そのうち当時、甲府藩主だった六代将軍の家宣が噂を聞きつけ、新井を甲府藩へと招いたのだった。
彼は、自立した著名な朱子学者であった。
つまり数多ある勧誘先の一つが徳川家だったというだけに過ぎない。
対して
彼は、猿楽師という異色の経歴ながらも才覚を見込まれ出世、家宣の子である七代将軍の家継の将来を託された秘蔵っ子である。
二人の生い立ちの違いから、先の将軍家継への忠誠心の差となり、分家筋から将軍職を継いだ徳川吉宗への嫌悪感の差にもなっていた。
「……お辞めになってどうされるのです?」
「儂は執筆活動でもするかな。家継様の御世で儂の学説を実験できたしの。あとは、その経験をまとめて大作を書いてやる。直に世間をあっと言わせてやるわ」
「そのような事……いつでも! いつでもできるではありませんか!」
「いずれ書き上げる政治書が世に広まれば、吉宗の鼻も明かせるだろうて。さすれば、儂の名も上がるし一石二鳥だわい」
自分の言葉に感化されたのか激高し手にしていた扇子を畳に叩きつけた。
ベキっと嫌な音がする。扇子の先が折れてしまっている。
しかし、新井も間部はそれを気にする様子もなく、言葉を続ける。
二人の態度からすると日頃から間部にはそう言う癖があるのかもしれない。
「悠長な! まだ将軍就任から間もない今が好機なのですぞ!」
「好機とな? 一体何を企んでおるのか」
暖簾に腕押し。間部の檄を新井は受け流してしまう。
「今こそ吉宗を引きずり下ろすのです!」
「そのような事をせずとも、失政があれば勝手に引きずり落されるのが政治の世界よ」
もう話は終わりだとばかりに席を立ち部屋から出て行った新井白石。
部屋には
取り残された彼は折れて手元に残った扇子を畳へ投げつける。
それでも気が治らぬのか、新井白石が座していた場所に向かって恨み言を続ける。
「白石翁はそれでよいかもしれんが、このままでは引き下がるものか。巷には月光院様との不義などどいう根も葉もない噂を流されている。先の将軍で大恩ある家宣様の御子である家継様が私の子だと?!」
「噂をする方もする方だが、そのような噂を流すなど恥知らずにも程がある。私を貶めるだけならまだしも、家継様や家宣様を貶めるとは」
「このまま引き下がるものか。吉宗、許すまじ。お前が手段を問わぬというのなら、私も手段を問わぬ。せいぜい己の迂闊さを嘆くがいい」
※
「あの塗りつぶした一行。気になるぜ」
「どうしたんですかい? 旦那」
そろそろ中秋の名月を意識しだす文月の終わり。
まだまだ暑い江戸の街をスタスタと速足で歩く二人組。
年嵩の男の方は片手を顎に当てながら、顔を顰めて歩いている。
「人身売買の件さ。番頭の手控帳に塗りつぶした一行があっただろ? わざわざ塗りつぶしたって事は隠したい事だってのはわかるが、何故あの行だけ隠さなきゃなんねえのかってこった」
「隠したい事……ですか」
もう一人の若い方の男は半歩後ろを歩き、旦那と呼んだ男の相手をする。
かなりの速足で歩いているというのに言葉がブレる事もない。
その二人が歩けば、すれ違う町民が会釈をしていく。
端的に話す若い男は、通りがかる町民からの挨拶に手を挙げて答える。
「ああ、それが分からなきゃ、真相に辿り着けねぇ」
「そうですね」
「番頭を捕まえたのは、世直しのためか、何か目的があったからか」
「でも旦那は、何か目的があったと睨んでらっしゃるのでしょう?」
若い男は表情を変えず、推測を口にする。
ついに聞き役の立場を辞め、自分の疑問を呈した。
そうしたかったからではなく、年嵩の男の思考をサポートする目的だったようだ。
現に再び言葉少なに答えるようになった。
「ああ、世直しなら気にする事はねぇ。だがなぁ、何か目的があってあいつらを告発したってぇのなら、あの塗りつぶした一行が意味を持ってくる」
「ええ」
「何か匂うな。……だがわからん」
「旦那にわからない事は私にもわかりませんね」
あくまで黒子に徹しようとする若い男。それとも本当に分かっていないだけかもしれない。
「冗談にも程があるぜ。お前さんほどの切れ者なら何か気が付いてるんじゃあねぇのかい?」
「さてさて。私は手控帳の現物を見たわけじゃありませんから」
切れ者と称された若い男。この男の言葉だけで判断するのは違ったようだ。
年嵩の男は理解しているだろうとニヤリとする。
「そうかい。まったく、考えすぎて頭から煙が上がっちまうぜ。こうなりゃ、いつものアレを食いに行くかね。そうすりゃ錆びついた
「またですかい? 旦那の団子好きには敵いませんね。では、私は町廻りの続きをしておきましょう」
そう言うと二人は別々の道を歩いていった。
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