11.仁斎の診断

 その騒ぎから三日後。包丁が戻ったかどうかと、卒業試験の結果を聞きに上野うぐいす屋に行く日向たち。


 きっと喜びに満ち溢れた笑顔で迎えてくれるのだろうと浮かれた気分で、上野屋に訪れてみたのだが、そうはいかなかった。

 接客に出てきたお多恵の顔は以前より沈んでいる気がするのだ。


「もしかして薬が効かなかった?」

「いくらか良くなったと言っていました。でも試作した豆腐の味を見ると、やはり鼻詰まりと頭痛が出るって。結局、親方も味に満足しなくて、今まで通りです」


「そんな……薮田の爺様の薬で間違いないわ。あれだけ本草学に通じた人を知らないし、薮田家は代々医学に精通しているの。何より当代の薮田 定八様だって足元にも及ばないって言ってるし」

「じゃあ、どうにもならないんですかね……」


 挨拶して以降、黙っていた日向は、ふと思いついたように疑問を呈した。


「もし……もし、風邪じゃなかったら薬が効かなくても仕方ないと思いませんか?」


「日向、それはどういう事?」

「私たちは銀次さんが風邪を引くからと聞いて、薬を用意する事にしました。ひまりちゃんは、薮田のお爺様に、鼻詰まりに聞く風邪薬を貰ったんじゃありませんか?」


「そうね。その通りだわ」

「もし風邪じゃなかったら、薬は効かなくても当然じゃないかなって思ったんです」


「風邪じゃない?」

「はい。そもそもお多恵さんも不思議がっていたように、お豆腐を食べると鼻が詰まるっていう事が大事だったんじゃないでしょうか」

「そうね。私たちは、風邪という前提が違っていたのね。……じゃあ、こうしましょう! 薮田の爺様を屋本店にご招待するってのはどう?」


「ついでに診察してもらうって事ですか? それは悪いですから、銀次に来させますよ」


 武家でもあり、薬を分けてくれた薮田仁斎やぶたじんさいに足を運ばせるわけには、と遠慮する多恵。


 しかし、日向は日葵の狙いを察したようだ。


「いえ、ご心配なく。ひまりちゃんは、恐らく自分もご相伴に預かるつもりでしょう。すみませんね〜。うちのおばさん、ちょっと図々しくて」


 図星とばかりに仰け反る日葵。

 しかし、そこは一日の長。効果的な切り返しをする。


「ぐっ! 鋭いわね。じゃあ日向はお留守番してなさい」

「ぐっ! 私には最後まで見届ける義務があるのです」


「ああ言えばこう言うわね」

「ひまりおばちゃんこそ!」


「だからおばちゃんって言うんじゃないの!」

「おばちゃんはおばちゃんでしょ!」


「ふふふ。じゃあ最後の望みをかけてお願いします。三名様、屋本店にご招待しますね」



 ※ ※ ※



 今日は珍しく三人で連れ立って歩いている。姉妹に見えるよく似た武家の子女と初老の武士。


 日頃はキャッキャと騒がしい日向・日葵コンビであるが、随分と静かだ。

 今日の内容次第で銀次とお多恵の結婚話がまとまるかどうかという状況では、緊張が勝っているようである。



「こんにちは。今日はお時間を頂いてすみません」

「こちらこそ、鶯谷までご足労をおかけしてすみませんでした」


 代表して挨拶をした日葵は、お多恵の返礼に大した事ではないと仕草で挨拶をした。

 そして連れてきた武士の男を紹介する。


「こちらは、御家人の薮田様。対応いただいたのが女将さんがお多恵さん、親方である源五郎さんにあってほしかった人が銀次さん」

「薮田と申す。今は隠居して仁斎と名乗っておる。此度は聞かぬ薬を渡してしまいすまぬ事をした」


「とんでもない!」と屋の面々は口々に否定した。


「そもそも高価なお薬をいただけるだけでも助かりやした。ご恩はあっても迷惑なんてとんでもねえこって」


 店の代表として親方が応対する。


「そう言ってもらえると幾らか心が安らぐ。それで、そちらの板前さんが銀次さんだね。お願いしておいた事は大丈夫かな?」


 今日、ここに来るにあたって、日葵は薮田の爺様に状況を説明していた。

 薬が効かなかった事、豆腐を食べると具合が悪くなる事。今度は話を端折らず、一から十まで話せる事は全て話した。


 それを聞いた薮田の爺様は、何か心あたりがあるように次のように指示をしたのだ。


 まず、当日は飯を食わず水を飲むだけにしてほしい。そして、店にあるいくつかの物を使わせてほしいと。


 それはお多恵を通じて、親方と銀次に連絡してもらい、今日を迎えた。


「はい。言われた通り、用意しやした」

「良し。では診察を始めるとしようか」


 今日ここに集まった、屋の面々だけでなく、日向たちも顔が強張っている。

 この話次第では、宙ぶらりんだった独立の許可も結婚の許可も一気に進むかもしれないからだ。そして逆に駄目だった場合、打つ手が見つからないという事態になる。


 その可能性がある事が、彼らを緊張の極地へと陥れているように思える。


 落ち着いているのは薮田の爺様だけ。

 薮田の爺様は、銀次を椅子に座らせると、自分も向かい合わせになって座る。


「今日の具合はどうだね?」

「へい。健康そのものってやつでさあ」


「それは良い。豆腐を食うと風邪を引くと言っているそうだが、すぐ治ったりしないかね?」


 その質問に銀次は目を見開く。少し驚いたようだ。


「よくお分かりになりやすね! 不思議と一刻もしねえうちに楽になりやす」


「そうか。その時、悪寒がしたり、症状がバラけたりしないのかね?」

「そういや、不思議と同じ症状しか出やせんね」


「……やはりか」

「なにかわかったのですか?!」


 それまで静かに見守っていたお多恵は、身を乗り出して質問する。


「おそらくな。日葵から聞いた時から疑わしいと思っていたのじゃがな……」

「……なんという病気なのですか?! 銀次は治るのですか?」


「……残念じゃが、これは厄介なやつでな。治ったという話は聞いたことがない」

「そんな……銀次は死んでしまうのですか?」


「えっ?!」と思わぬ話の展開にギョッとする銀次。


「いやいや、そういうものではないのじゃよ。そもそも病と言ってよいかわからん」

「どういう事でございやしょうか?」


「うむ。それには実際試してみるのが良かろう。頼んでいたものは用意できたかな?」

「へい。こちらに」


 はてさて、薮田の爺様こと、薮田仁斎が用意させたものとは。

 彼の医術の知識は、銀次を救うことができるのであろうか。

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