風邪と豆腐(全12話)
1.不思議な看板
ここは華のお江戸、上野の広小路。
第八代将軍 徳川吉宗の治世となり、一年ほど経った頃のお話。
ガヤガヤと賑わう広小路。そこを練り歩く目立つ存在がいる。その存在は武家の姉妹のようだ。小柄で体型がよく似ている。
こちらも騒ぎに負けないように、キャッキャっと騒がしくはしゃぐ、その姿は武家の子女にはそぐわない。
そんな風に人の多い広小路を夢中になって冷やかして回るのだが、よくよく見ていると不思議な事に、なぜが人とぶつからない。
これほど賑わった通りなら肩がぶつかってもおかしくないものなのだが。
彼女らには、珍しい見世物小屋も京の都から取り寄せられた小間物も興味が無いようだ。
華のお江戸の賑わいよりも花より団子を地で行くかの如く、食べ物屋しか目に映らないとでも言うようにあっちこっちの食い物屋だけを巡っている。
ここ、上野の広小路は江戸で随一の繁華街である。
現代にも残る松坂屋もここにある。
そう。今に至るまで繁栄は続く。そんな場所。
この道は徳川幕府の将軍が徳川家の菩提寺である寛永寺に詣でるための御成道なのである。
そんな道が賑わぬはずもなく、道の両側には店が連なり、火除け地として広げられたその道は広小路と呼ばれるのだった。
だが火除け地という性質上、地面に固定される建物は建てられず、仮設の店ばかり。
そこでは、露天で寿司や天ぷらが売られていたり、化粧品や鏡、櫛などの小物が売られていたり。
変わり種で言えば、象やラクダと言った動物の見世物小屋もあれば、はたまた怪しいカッパのミイラを展示しているという見せ物屋まである。
他にも休憩所を兼ねた茶屋まで揃うと、寛永寺の参拝者だけでなく、遊び場として近隣からも人が集まり、更なる発展を遂げていた。
今、彼女らの前を横切った男は大きな唐辛子のハリボテを肩に担いでいる。
一体、何をしたいのか良くわからないが、堂々と肩で風を切って歩いている。
そんな気になる男が横切ったのにもかかわらず、彼女らは気にしていないようだ。
「あれ〜? ひまりおばちゃん、このお店の看板見て!」
「おばちゃんはやめなさい! まだ眉も落としてないし、
このくだり、すでに何度か行なっている。
武家の姉妹に見えたが、実のところ、叔母と姪という関係らしい。
言葉だけ聞くと辛辣な事を言っているのだが、そういう部分に踏み込んでもお互い許し合える関係のようだ。
この二人、興味を持つと、このようにしてあれやこれやと言い合い、江戸の散策を楽しんでいるのだ。
まだ江戸に出てきて一年も経っていない。見るもの全て目新しく楽しいのは仕方ない事だろう。
「あれ? このご飯屋さん、うぐいす屋で書いてあるけど、上のところ変じゃない?」
「んー? どれどれ」
看板にはうぐいす屋という名前の上に、 代目と書かれている。
確かに看板としては成立していないだろう。
「確かに変ね。普通なら三代目とか数字が入るわよね。なんで空白なんでしょう」
「これから入れるのかなぁ」
「それにしては看板の汚れと合わないんじゃないかしら」
看板は真新しいとは言えず、見たところ一年は風雨に晒されているようだ。
空白を埋めなければならない時期は、もうとっくに過ぎている。
「江戸だとこんな風にするのかな」
「そういう訳じゃ無さそうだけど……考えてみてもわからないわね。時間も無くなっちゃうし、進みましょう」
「はぁーい」
※ ※ ※
ふつふつと鍋が煮えている。
鍋に張られた淡い出汁からは上品な香りが立ち上る。
日付が変わるほどの深夜になると既に周辺の店の灯は落とされ、この料亭の板場に仄かな灯が点いているのみ。
「へっくしょい! だぁー、ちくしょうめ」
そろそろ初夏に差し掛かる頃だというのに、料理人の男は、盛大にくしゃみをしながら、料理の試作に勤しむ。
既に何度も試作と試食を繰り返し満足できる料理を作り続けている。
「風邪なんてひいてる場合じゃねえってのに。また具合が悪くなってきやがった。親方に認めてもらうには、早くこの料理を仕上げねぇとならねえのに自分の弱さに呆れるぜ」
ぶつくさ文句を言いながらも、アクを掬う手を止めない。
「いい加減、親父さんに認めてもらって、お嬢さんと結婚してえもんだぜ。なんで俺には豆腐料理だけうまくいかねぇんだ……」
今日すでに何度目かの作業。試作をしては味見をし、また作ってはの繰り返し。
一通りの作業を終えたのか、アクを掬う手を止め、出汁を一掬い、小皿に盛る。
味見をするが、首を傾げ、納得してない表情。
「さて、味はこのくらいでいいはずなんだが……」
料理人は、鍋にそっと豆腐を入れると、細かくすりおろした大根をふんわりと乗せる。
仕上げに柚子の皮を薄く削いだものを散らし完成させた。
料理人は緊張の面持ちで小鍋を盆に乗せると、板場から奥の廊下へと向かうため、小上りで下駄を脱ぎ、突き当りの階段の脇から漏れる明かりを僅かな手掛かりにして、廊下をソロソロと進む。
そこは、この料理屋の店主である親方の私室である。
「親方、出来やした。淡雪豆腐です」
「おう、待ってたぜ」
差し出された豆腐の小鍋を見た親方は、仕上げの柚子皮や盛り付けに満足した様子でレンゲに手を伸ばす。
淡雪となった大根と豆腐を一掬い。白い大根が淡い出汁を吸って、ほんのり色付く。
まだ熱さを感じそうな豆腐をふー、ふー、と息を吹きかけ、そのまま口へ。
目を瞑り、豆腐を口の中で転がしながら、鼻から息を吸う。
味の一片も逃さぬように。
バシン!
親方は目をクワっと開くと手に持ったレンゲを盆に叩きつける。
「なんだこれは!銀次、お前味見したのか?」
「いや、したにはしたんですが、豆腐を食うと、どうにも味がよく分からなくて」
「そんな了見で料理人を名乗っていいと思ってんのか! いいか! 豆腐料理ってのはな、どれもこれも繊細な味の上に成り立ってんだよ! 素材にこだわって手間暇かけて、それで成り立たせるんだ! 何度も言ってんだろう!」
「はい。それはもう」
「じゃあ何だ、これは。大根のえぐみが出てるし、出汁も火にかけすぎだ。風味が飛んじまってる」
「すんません」
「銀次よう、俺の娘と結婚して店を持ちたいんだろ? だったらシャンとしろ。うちの看板料理の淡雪豆腐が作れねえと暖簾分けしてやらんぞ」
「でも豆腐料理だけなんです! 豆腐料理になると風邪引いちまうようで……」
「そんな馬鹿な話があるかぁ! 寝惚けたこと吐かすくらいなら、さっさと寝ちまいやがれ」
「……はい。おやすみなさい」
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