第37話 再生の部屋

 マリアはキッチンの冷蔵庫にケーキを入れて戻ると、「驚いたでしょ」とテレビの画面に目をやる。


「もちろんよ。驚いたわ。世界が変わってしまっているんだもの。それでイワンに電話をしたの」


「私を呼び出すなんて驚いたわ。……パパはなんて?」


「世紀末だからだって」


「世紀末?」


 マリアが眼を大きく見開いた。


「詳しく聞こうとしたのだけど、明日来るから、あなたを呼んでおけ、って……。それだけなのよ」


「相変わらずね」


 彼女がクスクス笑った。


「そうよ、相変わらず……」自分の口で言って気づいた。「……イワン、変わっていない?」


「歳を取ったこと以外、変わっていないわよ。独断先行型」


「そうか、そうよね」


「でも、今回ばかりはやり過ぎたようね。収拾がつかなくなっているわ。イワン大統領の不敗神話もおしまいね」


 マリアが眉をひそめた。


「イワン、いえ、フチンが負けるというの?」


 エリスは驚かなかった。イワンが大使館の仕事を辞し、タクシー運転手をしてすごした不遇の時代を知っている。そして、どん底から復活するのがイワンというおとこだ。


「負けるかどうかはわからないけど、少なくとも、勝つことはないわね」


 マリアの表情は、平素の澄ましたものに戻っていた。その態度はとてもイワンに似ていた。


「引き分け、ということ?」


〝引き分け〟それはイワンが、外交の場で妥協させるために好んで使う言葉だった。


「それはパパに訊いてみましょう。それよりママ、休んだ方がいいわ。眼が充血してる」


「マリアのせいよ。テレビを視ろ、なんて言うから……」


「でも、視て良かったでしょ?」


「どうして? 胸が痛んで散々な一日だったわ」


「ママったら……」マリアがため息を漏らした。「……ママもフチン国民も、パパが作っていた幻想から目覚めたのよ。呪縛が解けて自由になったのよ」


「マリアったら、そんな風に考えていたの……」


「豊かな幻想の中にいたら気持ちは穏やかかもしれないけれど、それが一生続く保証はないのよ。それが今……。世界……」


 マリアは額に指を当て、「ンー」と声にしながら言葉を探す仕草をした。


「……違うわ。私たちよ。私たちフチン国民は選択を迫られているの」


「選択?」


「現実を受け入れるか否か。それと、戦争を止めるか否か、ということよ」


 休んだ方がいいといいながら、興奮気味のマリアが唇を結ぶことはなく、母娘おやこは深夜まで話し合った。そうしてそのままリビングで朝を迎えた。


 年齢を重ねるごとに目覚めが早くなった。鏡に映る顔に残る疲労も深まった。ドレッサーに映る顔を見たエリスはため息をついた。


「どうしたの、ママ。朝からため息だなんて」


 隣に立つ娘の肌はむきたてのゆで卵のように張りがあって輝いていた。


「マリアは若くていいわね」


 口にしてからユーリイの言葉を思い出した。3日前、彼は突然、訪ねてきた。その時だ。


「エリス、若さを妬んではいけない。それは誰もが持っていたものだ。そして、誰もが失うものだ……」と、彼は言った。


 そのしばらく後で、イワンの話になった。


「……イワンは老いた。問題は、それを素直に受け入れられず、死ぬまでに大フチン帝国を復興し、己の名前を歴史に刻みたいと望んでいることだ。この戦争、早めに止めなければいけないが……」


 懸念を示すユーリイにエリスは答えた。「イワンは、誰にも止められないわ。たとえ、兄さんにでも」と。


 鏡の中にマリアの笑顔があった。


「ママだって綺麗よ。大人の色気がある」


「そうかしら……」


 エリスは鏡の中の自分に眼をやった。そこには長く男性の愛から遠のいた顔がある。大人の色気があったところで、どんな意味があるだろう。


 化粧を終えると、ちょうどイワンがやって来た。いつものように親衛隊に守られ、ヨシフだけを連れている。イワンの背後に影のように立つ彼は、黒いカバンを手にして神妙な顔をしている。そんな彼に見向きもせず、マリアがとげのある口調で問いかけた。


「パパ、こんなに早くから何の用なの?」


 ついさっきまで機嫌の良かったマリアの顔が石のように強ばっていた。誰が見ても不機嫌だとわかるだろう。


「相変わらずだな」


 イワンが鼻で笑った。が、その様子はメディアを通して見られるようなふてぶてしいものではなく、娘に対する愛情が滲んでいた。


「マリア、お前は若くて美しい。気の強いところはエリス譲りかな……」目を細め、首を振った。「……私もお前ぐらいの頃に戻って人生をやり直してみたいと思うよ」


 マリアは返事をせず、彼をにらみつけた。


「そんな目で親を見るものではない。エリス、銃はどこにある?」


 彼がエリスに向いた。


「カップボードの引出しだけど、どうして?」


「これからは、肌身離さず持っておきなさい」


 自らカップボードまで歩いて拳銃を取り出すと、エリスの手のひらに載せた。マリアの冷めた視線がそれに向く。


 エリスが初めて拳銃を手にしたのは、イワンと共にライス民主共和国に住んだ時だった。当時、大フチン帝国とライス民主共和国は政治的な対立関係にあったため、イワンに護身用に持たせられた。試し打ちも何度かしたが、実際に使うことはなかった。


 帰国してからは、祖国の治安の悪さに驚いたイワンが、やはり銃を用意した。フチン製の物だ。結局、それも引出しの中に放り込んだままで、試し撃ちさえしたことがない。時折取り出して磨き上げ、それを使うことのない幸せを思ったものだ。最近はその存在さえ忘れ、手入れも怠っていた。


 ところが、今はどうだ。……エリスは手のひらに載せられた冷たい金属の固まりに、ニュース映像同様の、イワンの政治体制の危機を重く感じていた。


「下で話そう」


 ひとこと発すると、イワンが背中を向けた。下というのは書斎のある地下フロアのことだ。そこの全域が核戦争を想定したシェルターになっている。エリスはポシェットに拳銃を入れて彼の後に従った。


 イワンを先頭にエレベーターに乗り込む。最後にヨシフが乗ってパネルを操作した。普段は表示されない地下の階数が表示され、彼がそれを押した。


 ――グォン――


 エレベーターがうなる。普段と異なる音に聞こえた。


「イワン、地下を使う事態になるということ?」


 エリスは、身が引き締まるのを感じた。


「可能性は常にある。大衆はそれから目をそらしているだけなのだ」


 イワンが応じた。それからはエレベーターが停まるまで誰も口を利かなかった。


 4人は3分ほどで地下フロアに立った。ヨシフは設備を点検してくると告げて機械室に向かい、エリスたちは窓のないリビングに入った。


「ここに来るのは3年ぶりだわ」


 窓の代わりにドアの多い部屋だった。寝室やキッチンに続くドアは開けたことがあるが、他のドアは開けたことがなかった。その先に何があるのかも知らない。


 リビングには革製のソファー、芸術作品のようなシャンデリア、巨大な液晶テレビ、ウイスキーやブランデーの並んだカップボード、靴が埋もれてしまいそうなふかふかのカーペット……、必要以上のものがそろっていたが、生活感がなく落ち着かなかった。


「今日からこのフロアに住みなさい。リビングにもキッチンにも、必要な物はすべてそろっている。があっても、食料も電力も1年以上もつだろう」


 イワンが言った。


 が核戦争だということは推測に難くない。


 彼が奥まったドアに向かう。見た目は他のドアと同じ木製だったが、鍵がかかっていた。おまけにそれが開くときのきしむ音は、そのドアが金属製だと証明していた。開いた隙間からひんやりした空気が流れ込んでくる。奥にあるのは真っ暗な空間だった。


「ここは〝再生の部屋〟だ……」


 再生の部屋?……エリスは古代のピラミッドを連想した。ならばそこにあるのは、ミイラなのか……。


「……1年後、地上に出る時に必要な物が揃えてある。覚えておきなさい」


 イワンが明かりをつけた。コンクリートの壁に囲まれた巨大な倉庫のような空間だった。中央にあるのはミイラの入ったひつぎではなく、鋼鉄製の装甲車だった。それが巨大な鋼鉄製のシャッターに向いている。


「シャッターの先に、地上に出るトンネルがある……」


 イワンが再生の部屋に足を踏み入れた。マリアはそれに続いたが、エリスはドアのところで2人を見守った。


「……外に出る際は、これらの武器を積んでいく」


 彼の声が反響する。


 2人が壁際に並んだ兵器の数々を見ていた。拳銃もあれば、ミサイルランチャーもある。


「マリアもこれを持っていなさい」


 イワンが棚から拳銃を取って彼女に手渡した。


「こんな物、使い方もわからないわ」


 反発するマリアの声がコンクリートの壁に跳ね返る。


「銃は安全装置を外して引き金を引くだけだ。難しいものではない。装甲車もミサイルもマニュアルをみればいい。家電やスマホと同じだ。動画サイトを探せば使い方を説明しているものも視られる」


「パパはスマホを使えないじゃない」


 彼女が皮肉を言った。


「使えないのではない。必要がないから持たないだけだ」


 イワンは相変わらず自信満々の口調で応じると、リビングに向きを変えた。


「……1日は時間がある。それまでは大切な物を運び込むのもいい。しかし、金銀、宝石の類は無意味だ。ましてや絵画や彫刻などといった芸術作品も……。明日には世界が変わるだろう。新しい世界で大切な物は、実利的なものだ。たとえば食料や水、そして武器だ。乗り物に燃料といったものも必要だ。まあ、そうした物は、ここには十分備わっている。安心しなさい。上に行く際は、銃を忘れるなよ」


「暴動でも起きているの?」


「トロイアの治安はいい。この家も親衛隊が守っているから安全だ。だが世の中は、何が起こるか誰にもわからない」


 親衛隊さえ信用していないようなイワンの口ぶりだった。エリスは、ニュースで視た暴動の映像を思い出した。


「核戦争が始まるの?」


 マリアが嚙みつくように尋ねた。


「ふむ……。その角度が高い。だから私たちはここにいる。今は、そうとしか言えないな」


 イワンがソファーに腰を下ろす。エリスはその正面に掛けた。


「突然、どうしてそんなことになってしまうの?……国営放送は昨日から、それまでと違ったことを言い出すし、イワンまで……。どういうことなのか、順を追って説明してください」


 エリスが問いただすと、イワンは迷惑そうな顔をした。


 普段のエリスなら、それで矛先を収めるところだが、今はできなかった。問題は核戦争なのだ。部屋の模様替えや旅行先を相談するのとはわけが違う。


「馬鹿な私にもわかるように、説明してください。イワン」

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