第25話 ホテル

 ホテルは車で5分ほどの所にあるドレスコードの厳しいホテルだった。ロビーを歩くのはスーツ姿の男性とフォーマルな服装の女性ばかりで、パーカーやジーンズ、スニーカーのようなカジュアルな服装の人物は皆無だった。


 ドアボーイは、服装をチェックすることで貧困層の侵入をチェックしているのだろう。軍服姿のアテナも入ることを許された。職業軍人なら軍服姿でロビーを横切るのに何のためらいもないのだろうが、本来、仲買人の妻のアテナは肩身の狭い思いをした。魚屋と一緒にするな、と言ったイワンの歪んだ顔を思い出した。


 アテナの部屋は10階の廊下の突き当りにある部屋だった。ドアの前に空港からリムジンに同乗した秘密警察官がスーツ姿で立っていた。彼はアテナの顔を見るとドアをノックした。中から顔を見せたのは、やはりリムジンに同乗していた女性の秘密警察官だった。


「入ってください」


 ヨシフが促す。アテナは言われた通り、室内に入った。豪華なツインルームだった。


「彼女がアテナさんの世話をする秘密警察の……」


 ヨシフは名前を失念したようだった。秘密警察官の顔に目をやった。


「アリシアです」


 彼女はヨシフに向かって名乗った。


「アテナです。よろしく」


 アテナは握手を求めた。アリシアが眼を瞬かせ、おずおずと手を握った。とても暖かな手だった。


「夕食の予約をしています。荷物とコートを置いて行きましょう」


 そう言うヨシフはコートを持ったままだった。


 4人はエレベーターで最上階のフランス料理店に上がった。時刻は午後5時を少し過ぎたばかりで、レストランは空いていた。ちらほらいる客は、食事をするためではなく商談をするためにいるようだ。


 席に着くとヨシフがメニューを確認してイタリアの赤ワインを注文した。ボーイが下がったあと、「料理はコースにしました。アレルギーなどは?」とアテナに訊いた。


 アレルギーなど経験したことも検査をしたこともないので、大丈夫だと応じる。それよりも、フランス料理のコースなど食べたことがないので、マナーを知らないことの方が気になった。


 食事中、話をするのはヨシフばかりだった。アテナに学歴や趣味などを尋ねてくる。戦争や亡くなった家族に関する話は一切なかった。アテナは質問にだけに短く応じた。極力、ハイとイイエで答えた。秘密警察の2人は静かに食事を口に運ぶだけで、ほとんど口を利かなかった。


 テーブルに並ぶ料理もワインも一流のものばかりだった。しかし、エアルポリスで飢えに苦しむ市民の顔が頭にちらついて、アテナはそれらを味わうことができなかった。


 食事を終えるとヨシフは帰った。アテナとアリシアは10階の部屋に戻り、男性の秘密警察官は廊下に残った。


「部屋の中でも監視されるのね?」


 アテナは率直に訊いた。


「私たちの国の間には、様々な問題がありますから」


 ドアの鍵をかけながら、アリシアが如才なく応じた。


「テレビを視ても?」


 フチン共和国内で戦争がどんなふうに報じられているのか知りたかった。


「どうぞ」


 彼女がソファーのテーブルからリモコンを取ってくれた。アテナは電源を入れてチャンネルを回した。チャンネル数はユウケイより多かった。ドラマや映画、スポーツを専門に流すテレビ局が多かった。


 ニュースの専門チャンネルを選んだ。『今年は春の訪れが早いでしょう』そんなアナウンサーの声がする。天気の後は交通事故のニュースがあり、それからスポーツニュースに替わった。国内の試合の数々の結果が報じられた後、ライス民主共和国の策謀でフチン共和国が様々な世界大会から排除されていると報じた。


『愛国者よ。集結せよ!』


 突然、スピーカーから大きな声がした。〝平和維持軍支援全国集会〟のCMだった。トロイアスタジアムで開かれるそれには、人気のロックバンドやポップシンガーの演奏があり、空軍のアクロバット飛行も披露されるという。チケットは売り切れているが、スタジアムの外の広場でも大統領の演説や音楽を聴くことができるとアナウンサーが告げた。


 ――愛国者よ。集結せよ!――


 ニュースの途中、何度も繰り返された。それが、イワンが楽しみだと話したイベントのようだった。


「戦争だというのに、まるでお祭りですね」


 アテナが嫌味を口にすると、アリシアが首を振った。


「戦争ではなく、軍事行動です」


「あれが戦争でないっていうの? 千を超えるミサイルが、ユウケイの方々の街を破壊しているのよ」


 アリシアは困惑の表情をつくり、アテナの耳元でささやいた。「ここでの会話は、全て記録されています」と。


「戦争の話をしてはいけないの?」


「内容や程度によります。場合によっては罪に問われます。この国の法律に従って」


「プライベートな会話でも?」


 尋ねると、アリシアがうなずく。


「プライベートとパブリックに区別はありません。裏表のない社会。それがフチン共和国です」


 彼女の説明は夢物語……。とてもアテナが納得できるものではなかった。


「アリシア、あなたはフチン軍が侵攻してユウケイ国民を殺していることを知っているの?」


 尋ねたのと同時に、テレビから平和維持軍が派遣されるに至った経緯を説明する解説員の声がした。アテナがそれに意識を向けたからか、アリシアは沈黙した。


『……大統領選挙を控えたドミトリーが、低い支持率を上げるためにユウケイ民主国内のフチン人をテロリストに仕立て上げて攻撃したのですよ。だからフチン人は軍団を結成し独立を叫んだ。フチン人が攻勢に出れば出るほど、ドミトリー大統領はユウケイ正規軍を増派した。フチン人有志が、正規軍に敵うはずがない。そんなフチン人を守るべく、イワン大統領は平和維持軍を派遣したのです……』


 解説員は続けた。


『……ところが、フチン共和国を敵視するライス民主共和国と西部同盟諸国がドミトリーに肩入れし、大量の新型兵器を送り込んだ。それで今、平和維持軍は若干苦戦しているようです』


 アリシアがテレビに眼を向けながら答えた。


「これが事実です。平和維持活動、フチン軍がしているのはそれだけです」


 テレビは避難民の様子を映した。エアルポリスからフチン共和国内に脱出した市民だと紹介されている。彼らは行列を作り、フチン軍から食料の支給を受けている。


『彼らはナチス的なユウケイ軍の攻撃から逃れるために、フチン軍に助けを求めてきたのです』アナウンサーがそう語った。


「こんなこと、嘘っぱちよ!」


 思わずアテナはユウケイ語で叫んだ。自分の目でエアルポリスの窮状を見たのはほんの数日前のことだ。彼らのだれも、フチン軍に助けを求めていなかった。彼らは、フチン軍の手によって命の危機に瀕しているのだ。


 アリシアが首をかしげている。


「アリシア、あなたはこんなニュースを信じているの?」


「彼らがフチンにやってきたのは事実です。フェイクではない」


「街を脱出できる人道回廊はみな、フチン軍に封鎖されているの。それを開けてもらうために、私はイワン大統領に会いに来たのよ」


「あなたは目的を達した。満足でしょう。シャワーを使ってはどうですか? 少し臭います」


 指摘され、自分の腕の匂いを嗅いでみる。嗅覚が鈍っているのか、鼻が慣れてしまっているのか、不快な臭いを感じることはなかった。とはいえ、少しへこんだ。


「ひと月近く地下壕で過ごしていたから、満足に身体を洗うこともできなかったのよ」


 正直に話すと、はじめてアリシアの顔に同情の色が浮かんだ。100の言葉より体臭のほうが説得力を持っていたようだ。


 アテナはカバンを取って、バスルームに入った。


 頭の天辺からつま先まで、時間をかけて念入りに洗う。そうしているうちにアリシアの言葉を少しだけ呑みこめた。自分が見たエアルポリス市民はがんとしてフチン共和国への投降を拒んでいたが、それ以前、積極的であれ消極的であれ、フチン共和国へ脱出した市民もいたということだ。それは民族的共感による場合もあっただろうし、自分や家族の健康や生命を第一に考えて投降を選択したのかもしれない。今、自分がフチン共和国にいるのだって似たような理由だ。


 ニュース映像は、避難民の音声がないので彼らの意志はわからない。が、彼らがフチン共和国に移動して食料を受け取った、という事実は曲げようのない真実だった。逆に考えれば、ユウケイ民主国内で身をひそめながら、フチン共和国へシンパシーを感じている国民がいる可能性もあるということだ。


 バスルームを出るとアリシアと目が合った。


「あなたが言いたいこともわかったわ。人それぞれ事情があるのよね。フチンに脱出した市民にも、フチン国民にも」


 彼女は、「ありがとう」と応じた。それから、明日は大変な一日になるだろう、と同情的な声音で言った。


「大変なこと?」


 尋ねると彼女は、〝平和維持軍支援全国集会〟にアテナも参加することになると話した。


「私が?」


「私たちがスタジアムまで送り届けることになっています」


「何のために?」


「そこまでは聞いていません。ひどいことにならないといいのだけれど……」


 彼女の顔を暗い影が覆った。その様子は、アテナが同情を覚えるほどだった。


「大丈夫よ、何とかなるわ。それより、どう。臭くない?」


 アテナは彼女に髪を近づけて臭いをかがせた。


「ええ、大丈夫よ。とても良い香りになったわ」


 アリシアが薄く微笑んだ。

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