第24話 アテナ対イワン
「狭い檻の中をうろうろと。君は動物園のゴリラのようだな」
イワンが冷淡に言った。
室内は監視されているのだ。……気づくと、全身がカッと熱くなった。
彼はつかつかと歩みよった。眼の前で足を止めると、アテナの
「ゴリラではない。誰かに似ているな。とても美人だ。さぞ男どもにもてるだろう……」
市場で
アテナの背筋を悪寒が走る。彼の侮辱には腹が立ったが、恥ずかしさと緊張で手足はもちろん、舌も動かなかった。
「なぜ、化粧をしない? 今以上に美しくなるだろうに」
その問いに、脳が働き出す。
「戦争中だからです」
「たとえ戦争中でも、身だしなみは良くしておくものだ。それが文明人というものだよ」
相変わらず彼は、アテナの顎から手を放さなかった。アテナは耐えた。命が惜しいからではなく、フチン軍に支配され、あるいは包囲されて逃げ道のない街のユウケイ国民のために。
「イワン大統領、ユウケイ国民は、その文明を守るために戦っています」
そう言いかえすと彼は、フン、と鼻を鳴らして顎から指を引いた。
イワンはアテナの席から20メートル離れた自分の席に着くと、「さて……」と改めて口を開いた。
「ドミトリーが来た時、彼もそこに座ったのだよ」
彼は、ユウケイ国民は近くには座れないのだ、とでもいうような侮蔑的な話し方をした。
それをそのまま受け取っては、ユウケイ民主国の名誉にかかわる。それで「それは、光栄です」と、礼儀正しく応じた。その対応が彼の気に
「私は、戦う女は嫌いだ」
彼が吐き捨てるように言った。アテナは返事をせず、次の言葉を待った。
「君は私の国のヘリを撃ち落とし、私の国の兵隊を殺した」
イワンがゆっくりと、フチン語が苦手な相手に理解させるためではなく、
「大統領の軍隊は、私の両親と夫と娘を殺しました。他にもたくさんの友人や同僚も」
アテナは毅然と反論した。
「君の夫の仕事はなんだ?」
「鮮魚市場の仲買人です」
「お前が殺したのは、私が育て上げた特殊部隊員だ。彼らは神に選ばれた者たちだった。魚屋と一緒にするな!」
イワンが声を荒げた。
「それは職業差別、いえ、選民思想ではないでしょうか? 人の命に職業による差異はありません」
アテナが応じるや否や、彼がテーブルをたたいた。――バン……、大きな音が反響した。
アテナは、首をすくめた。アデリーナの言葉を思い出す。――大統領には、失礼のないようにするのですよ――
「そもそも、ユウケイの大地はフチンの一部だ」
口調が変わっていた。突き放すような低いものだった。
「……」我慢しようと思ったが、つい、口を開いた。「……それは昔のことです。私は歴史に
「重要なのは、歴史などではない。民族のあるべき姿、神学的な問題なのだよ。いま我々は、国家を昔の正しい形に戻そうとしている。偉大な大フチン帝国の版図をまとめるのだ。それが私の使命だ。それを君の誤った正義感が妨害している」
彼の言うことが、アテナには理解できなかった。そうしようとも思わない。それで彼の言う神学的問題は避けることにした。
「……私など非力です。何をしたところで、大統領がお困りになることはないと思います。市民が避難するための人道回廊の安全を保障いただけるということなのでここに来ました。お約束いただけるのですね?」
――フン……、イワンの鼻息が聞こえた気がした。
「私は言葉にしたことは守る男だよ」
彼が口角を上げている。
あなたは噓をつくことで有名です。……アテナは喉まで出かかった言葉をのみこんだ。
まるで心を読んだように彼の笑みが消え、眼を細めてアテナを
「人間について知れば知るほど、犬が好きになる」
イワンが言った。
彼は核兵器を使うかもしれない。……背筋が凍った。
「……人間がお嫌いですか?」
彼に尋ねた。
「人間には2種類ある。国家の役に立つ人間と、害になる人間だ。害になる者は排除されて当然ではないかね? 私が嫌うのはそんな人間だ」
イワンは自分を誇るように言った。
「大統領の思うようになる人間と、そうでない人間、ということでしょうか?」
言葉を口にしてから、余計なことを言ったと後悔した。
「そう言う意味なら、君は役に立つ人間だよ。明日が楽しみだ」
彼が笑ったように見えた。どういうことだろう?……考えている間にイワンは立ち上がり、入ってきたドアに向かっていた。
アテナは慌てて立った。
「人道回廊の安全、お約束ください!」
背中に声をかけると、彼が右手を軽く挙げた。了解したサインなのか、拒絶なのか、わからなかった。
ヨシフがドアを開け、イワンとひとりの秘書官がその向こうへ消えた。残ったヨシフがやって来て、「面白いものを見せてもらったよ」と微笑んだ。
「人道回廊はどうなるのでしょう? 聞き届けてもらえたのでしょうか?」
ヨシフが意味ありげに微笑んだ。
「大統領は、あなたの願いを聞き入れましたよ」
彼の答えにホッとした。
「明日、何があるのです?」
「明日は英雄の日という祝日で、前線で戦う兵士たちを鼓舞する大集会が開かれるのです。さあ、ホテルに案内しますよ」
彼が最初に入ってきたドアを開けた。そこに、出迎えた時と同じ2人の男性がいた。
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