第4話 独裁者の後宮

 イワンはグリム宮殿の地下深くにある住居スペースに下りた。暗殺者の狙撃や核攻撃にそなえた安住の場所だ。そうした場所を宮殿や自宅以外にいくつか所有しており、そこに入ることができるメンバーも場所によって変えていた。入室可能な誰かの動向に不審な点があれば、その人物が入れない住居に移動する。場所とメンバーを変えることで、身の安全を確保するようにしていた。


 グリム宮殿の住居に入ることができるのは、愛人のソフィアと家政婦、それから諜報機関で10年ほど一緒に働き、義兄になったユーリイだけだった。彼は電子機器の操作、射撃、格闘など誰よりも優れていた。ただ口下手で愛想も悪くスパイには向かなかったが、大フチン帝国が西部同盟に屈して分解した後、その一部をフチン共和国として復興させるために裏の仕事に携わった。そのおかげでイワン大統領が生まれたともいえた。なんだかんだと、彼とは30年近い付き合いになる。


「お帰りなさい」


 イワンを迎えたのは、彼の娘と似たような年頃のソフィアだった。


 彼女を抱いて頰にキスをする。柔らかな身体に甘い香り……。それはいつもの通りだったが、普段と違って顔に笑みがない。


「どうかしたのか?」


 不審に思って尋ねると、「あの人が来ているの」と、彼女は不快げに言った。


「そうか。急用なのだろう。ゆるしてやってくれ」


 彼女の頰にキスをして客間に足を運んだ。


 ユーリイは後ろ手にして壁に飾った絵を見ていた。ゴッホが描いたという向日葵だが、真筆かどうかは定かでない。


「こんなところまで来るとは何事かな?」


 背中に声をかけた。振り向いた彼の顔はいつも以上に感情がなかった。50歳になろうというのに、皴やシミも肌のたるみもない。それでその顔が、美術館に並ぶ古代ギリシャの神像のような作りものかもしれないと思うことがあった。


「ここでは仕事の話はしたくないのだが……」


「すまないな、イワン。どうしても確認しておきたいことがあったものだから」


 彼は顔に似合わないソフトな声で話すと、自らソファーに掛けた。イワンはその正面に座った。


「確認したいこととは、何だね?」


 カップボードから敵国の最高級バーボンとグラスを取り、なみなみと注いで出してやった。


「ふむ……。ミールのことだ」


 ユーリイがグラスを取り、濃密な琥珀こはく色を疑うように見つめる。彼が知りたいことはおおよそ見当がついた。が、自分から答えるつもりはなかった。


「ミールがどうかしたのかい?」


 ユーリイが眼を細め、バーボンをめてから口を開いた。


「どうしてミールにミサイルを落とした?」


「私がミールにミサイルを落としただって? 冗談は止めてくれ」


「冗談ならどんなに良かったか……。商店街がめちゃくちゃになったらしい。死者も出ている。初日のことだ」


「だとしたら誤爆だろう」


「俺を舐めるな。あの巡航ミサイルは、センチ単位は無理でも、メートル単位の精度で目標をとらえるはず。それが目標の10キロも外れるはずがないだろう」


「舐めてなどいるものか。お前は私以上に多くを知っている。しかし、よく考えても見ろ。目標データの入力ミスという可能性もある。機械の性能がどんなに良くとも、ヒューマンエラーによる誤爆は一定程度、発生するものだ。世界に完璧はない」


「入力ミスしたミサイルがミールに落ちたというのは、偶然にしてもできすぎではないか? ミールは俺の故郷、それはエリスを妻に持つイワンにとっても同じはずだ」


 ユーリイは、いつになく感情的になっていた。


「だからだ。私の故郷はここ、フチンだ。故郷はひとつで十分」


 イワンは、自分の意見を押し付けてくる妻の顔を思い出した。


「どういうことだ? 彼女と何かあったのか?」


「ユーリイ、お前には関係のないことだ」


「俺は、イワンとエリスのことが心配なのだ。話してくれ。できることなら、俺が問題を解決しよう」


 確かにユーリイならエリスの気持ちを変えることができるかもしれない。……イワンは考えたが口にはしなかった。


「……その必要はない。たまには私にだまされてみろ」


「しかし……」


「エリスは気の強い女だ。昔はそこが良かったのだが……」


「ギリシャ神話なら不和と争いの神だからな。ユウケイは他国に蹂躙じゅうりんされ続けてきた国だ。何が何でも強くなって欲しいという父親の願いが、彼女をそうさせたのだろう」


 ユーリイの真っ直ぐな視線に、イワンは少しだけ腹が立った。とはいえ、閣僚たちにするように彼を罵倒することは避けた。敵に回すには恐ろしい相手だ。


「……なるほど。それで今度は私が蹂躙していると言いたいのか?……ならば、間違っているぞ。彼の国に軍を入れたのはエリスの願いでもある」


 イワンが教えると彼が驚いた。その顔になぜか喜びを覚える。グラスを空け、「帰ってくれ」と告げて席を立った。


 ユーリイを送り出した後、ソフィアと食事の席に着いた。


「今日は私の手料理よ。おいしい?」


 彼女は料理の出来栄えを訊いた。トロイア地方伝統の肉料理だった。


「ああ、君の料理はとても美味しいよ」


 それはお世辞でもなんでもない。彼女は、元々エリスが雇った家政婦で、料理も洗濯も完璧だった。それが気に入って、いくつかの家を転々とする時、身の回りの世話をしてもらうようイワンが雇うことにした。エリスが反対するかと思ったが、彼女はイワンの提案を素直に受け入れた。そうしてイワンとソフィアが男女の関係になるのに長い時間は要しなかった。


「奥様の手料理より?」


 ソフィーが小首を傾げる。


 イワンは、身体の中心が熱くなるのを感じた。彼女への愛情を感じたのとは逆に、ひとつの疑惑に思い至った。……エリスは好きな男ができて、自分を遠ざけようとしているのではないか? それでソフィアをあてがってきたのかもしれない。


「エリスは家事が苦手なのだよ。それでソフィーを雇った。君は、彼女とどこで知り合ったのかな?」


 雇う前、ソフィーの経歴を秘密警察に調べさせた。彼女の実家は貧しく、大学に進学できないのでレストランで働き、そこで様々な調理を学んだ。親族に反政府主義者はおらず、諸外国の政治家や諜報機関との関係もなかった。彼女自身に問題がないのは明らかだったが、エリスとどうやって知り合ったのか、そこまでは調査されていなかった。


「あらやだ。もう忘れてしまったの。私、お嬢様の友人なのよ。それで奥様に紹介いただいたのです」


 ソフィアが小首を傾けて微笑む。


「ああ、そうだったな……」


 どっちの娘だ?……イワンは2人の娘、アナとエルサを思い浮かべた。容姿容貌はともかく、愛おしい娘たちだ。


 いやいや問題はエリスの不倫のことだ。……イワンは思い返す。自分の不倫は赦せても、妻のそれは赦せなかった。大統領としても、ひとりの男としても。


 ユーリイに調べさせ、その男を殺してしまおう。……一度はそんな風に考えたが、すぐに改めた。……彼に浮気調査のような小さな仕事はさせられない。が、身内の恥を他の誰に任せられるというのだ……。


「イワン、どうしたの? 私の話はつまらない?」


「あぁ、すまない。新たな軍事作戦を思いついたのだ」


「私と一緒の時ぐらい、戦争のことは忘れてくださいね。戦争は軍人さんに任せておけばいいじゃありませんか」


 イワンは、やれやれ、と思った。彼女はまだ子供だ。自分がいろいろ教えてやらなければならない、とも。


「大統領の私が、国軍の最高指揮官なのだよ。それに戦争はしていないのだ。軍が行っているのは平和維持のための軍事作戦だ。言葉には気をつけてほしい」


「あら、戦争も軍事作戦も同じではないの? 敵の国に攻め込んでいるのですもの」


「政治の世界にとって言葉は重いものなのだよ。戦争のための侵攻は国際法で禁じられているが、軍事作戦は禁じられていない」


「世界は内実より形式を重んじるということね」


「そういうことだ。私の身近にいる者として、ソフィアも表現には気をつけてほしいものだな」


「わかりました。気をつけます」


 彼女がセクシーな唇の両端を持ち上げた。


 本当に理解しているのか?……そんな風に感じたのは一瞬だった。イワンは席を立つと彼女の背後に立ち、顎を持ち上げてキスをした。甘いワインの香りがした。


「ベッドへ行こう」


 彼女の身体は取れたてのニジマスのようにピチピチと跳ねた。


 若さは素晴らしい。……ソフィアの寝息を聞きながらそんなことを考えた。透き通るような弾力のある肌、焼き立てのスポンジケーキのような柔らかな筋肉、ほとばしる汗と滲み出す愛液……。それらの影響を受けて、自分の内部から生命エネルギーがふつふつと湧き上がるのを感じる。そして年老いた自分の命が燃え尽きることがあっても、彼女の中に自分の分身が生れるかもしれない。ならば、その命は尊い……。


「愛しているよ」


 彼女の耳元でささやいた。彼女は何の反応も示さないが、それで満足だった。


 世間では不倫や心移りを蔑むが、私には世間の尺度など当てはまらない。何故なら、私はかつて世界を恐怖で震撼させた大フチン帝国の皇帝に匹敵する大統領なのだから……。愛人など、百人でも千人でも愛してやろう。


「さすがに千人は身が持たないか……」


 苦笑した脳裏に浮かんだのはエリスの不倫疑惑だった。


「私のメンツをつぶすつもりか……」


 いら立ちが渦を巻く。


「ソフィア……」


 彼女の身体をまさぐる。自分の生を確認するように……。


「ン、ンン……」


 彼女は身体をよじり、眠ったままそれを開いてイワンの憤りを受け入れた。


 翌日、イワンは自宅に帰った。予定にない行動だ。それで間男と鉢合わせしたら面白いと考えていた。その時は、その男を去勢して妻もろとも強制収容所に放り込んでやろう……。


 いやいや、と思い直す。そんなことが国民にばれたら、度量の小さな男だと馬鹿にされるだろう。ユーリイの反発も恐ろしい。男だけを始末し、エリスだけは見て見ぬふりをすべきか……。この際、ユーリイも……。いやいや……。そんなことを考えているうちに大統領専用車は邸宅に着いた。


 実際、そこにいたのはエリスと家政婦だけだった。


「あら、イワン、どうしたの?」


 彼女は驚きを隠さなかった。


「エリスの顔を見るためにきた。まずかったかな?」


 ハグしてキスを交わす。彼女の態度から、家に不倫相手がいないことはわかった。


「どういう風の吹き回し? 私のことを心配するなんて」


「私はいつも君のことを気に掛けているさ。最近、ユーリイと会ったか?」


 リビングに足を運び、ぐるりと見回す。前に来たのは半月も前だったが、その時とインテリアや家具の配置は変わっていなかった。ソファーに腰をおろし、庭の水のないプールに眼をやった。底は見えないが、枯葉を溜めているだろう。


「兄と?……いいえ。それが何か?」


 エリスが正面に座った。


「ユーリイは軍事行動のことを気にしているようだった。エリスにも何か言ってきたのではないかと思ってね」


 短い夏にしか水を張らないプール……。欲しいと言ったのはエリスだったか、子供たちだったか、あるいは自分だったろうか?……まったく思い出せなかった。間男がいたらそこに沈めてはどうだろう。妄想する自分に呆れた。


「確かに兄なら、ユウケイへの侵攻は面白くないでしょうね」


 エリスが妖しい笑みを浮かべる。


「攻めたわけじゃない。君の望み通り、歴史を正している。すべて神の望むままだ」


「故郷ミールを愛しているとは言ったけど、人を殺してほしいと言ったつもりはないわ。自分の欲望を、私の責任にしないでほしいわね。イワン、あなた世界中からどう思われているか、知らないわけではないでしょ?」


 彼女の前ではイワンもただの男だった。とても議論では敵わない。


「全て君のためだ」


 そう言って、己を鼓舞した。


 エリスが鼻で笑う。


「そこまで言うのなら、最後までやり遂げなさいよ」


「もちろん。私が勝つか、地球が滅びるか……、楽しみにしていろ」


 そう吐き捨てて地下の書斎に入った。


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