徒然なるままに

花摘 香

第1話 マーフィーの法則

「断じて認めない!」

 幸せとは何か。私は何年もの間、それこそ年を数えることのできないほど昔からその疑問を抱いて生きてきた。そしてそれは別段、私だけが独占していい疑問ではない。人間生きていれば、誰だって一度は考えつくものだ。陳腐な考えである。私はそんな曖昧な疑問に答えが存在するとは、一度たりとも考えはしなかった。人間は現状に満足をしない生き物だ。いつだって現状以上の幸せを追求している。故に、現在よりもほんの少し状況が改善されるのであれば、それを私は幸せと呼ぼう。そう誰に伝えるでもなく、己の魂に誓っていた。では、私は何を認めないのか。そんなのは決まりに切っている。念願叶っての片恋相手との待ち合わせ場所へと向かい始めて数分、どこからかやってきた雨雲に絶賛ホーミング射撃を食らっていることだ。私が二年、想いを馳せたその女性とのデート。これは私にとって間違いなく幸せなことだ。ならば幸せが不幸と並列することなど、誰が認めよう。どこかの誰かが、「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」なんて経験則を基にした馬鹿げた法則を立てたという。いやしかし、全く言い得て妙だ。先日、大枚をはたいて購入した私の一張羅は、すでに蜂の巣の惨劇だ。それでも私は、歩を進めなくてはいけないのだ。約束の時間まではおよそ15分、家に戻っている時間など存在しない。

 ええい見ていろ!私はこの後、世界中の誰よりも幸せになっているだろう!そして「デート前の失敗は、デートの成功率に比例する」という一文を、その馬鹿げた法則に付け足してやるのだ!

 歩く歩幅は自然と大きくなる。彼女もまた、この雨に打たれているのだろうか。だとすれば少しばかり申し訳ない。本日彼女を駅前に呼び出したのは、言うまでもなく私なのだ。私はほとんど駆け足のようなスピードで目的地を目指した。


 駅前の広場に到着した私は、辺りを見渡す。そこはそれなりの賑わいを見せていて、人の波と表現することも許可されるであろうものだから、なかなか人を探すのは骨が折れるなと考えていたが、存外すぐに見つかった。彼女は改札から少し逸れた場所にすらっと綺麗な姿勢を保ち立っていた。

「お待たせしました。申し訳ない」

「いえ、私も今さっきここに着いたところですので」

 いや全く恥ずかしい話だ。なんとも聞き馴染みのある会話であっても、あべこべでは格好がつかない。格好がつかないのは何もこれだけではない。私の一張羅は、どうやらここに来るまでに数キロ重くなったようだ。私が情けなく己の全身を見渡していると、彼女は「服を買いに行きましょう」と切り出した。こうなってしまえばもう、私が三日三晩悩みに悩んだデートプランなど意味をなさない。私たちは駅に併設されているビルの呉服屋を目指して歩き始めた。

「そう言えば、どうやらそちらは濡れていないようですが」

 私のごく自然な疑問に、彼女は少しばかり慌てた様子を見せた。

「それは、その……」

 彼女の性格は、いわゆるクールというものだ。何事にも落ち着いた面持ちで臨み、誰に対してもズバリと発言する性格は、他を寄せ付けぬ冷ややかなもの、毒舌と形容しても申し分ないだろう。しかし同時に、私の心臓を瞬く間に射止めた魅力を持ち合わせている。そんな彼女の笑った顔は愚か、焦ったところなど知り合って二年、一度たりとも見たことは無かった。だからこそ驚いた。私は彼女を驚かせるようなことを言っただろうか。思い返してもこの一文ごときで、彼女が動揺を見せる理由はわからなかった。しかし、そんな疑問に仮設を立てる前に彼女はさっさとその答えを供述した。

「今着いたところ、なんて言いましたけれど。実は、三十分ほど前にはここに到着していたのです」

「はあ、それはまた一体どうして」

「昨晩は秋でして」

 それを聞くなり、私の心臓はビルを突き破る勢いで跳ねた。こう言われて次に問うことなんて決まりに切っている。

「それでは今日は、何度目の秋なのですか」

 少し先を歩く彼女の表情はわかりやしないが、彼女の耳が赤らむのを私は見逃さなかった。

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