第68話 一つの真実

「山葵菜の稲荷寿司といえば、紅玉こうぎょく様の代名詞の一つだったんですよ」


 凱嵐がいらんが去った後、くりやの中で皆で鹿肉の角煮を食べていると伴代ばんだいがそんな話をし始めた。


「それまで稲荷寿司といえば、中には白胡麻と酢飯を詰めるだけだったんですけどね。紅玉様が病がちな秋霖しゅうりん様のために栄養価の高い料理をお考えになって。そのうちの一つがこの稲荷寿司だったわけです」

 突然伴代ばんだいの口から飛び出した秋霖しゅうりんの名前に紫乃は咽せそうになった。


「…………っ秋霖様って、先代皇帝の子で皇太子だったというお方か?」

「左様です。食の細い秋霖しゅうりん様を心配して、先代皇帝陛下は紅玉様に特別な食事を運ぶようお命じになったのですよ。紅玉様は初め、随分と苦労していましたけど、時が経つにつれて秋霖様がかなりお食事を召し上がるようになったと喜んでいましてね。

 それがまぁ、あのような結果を生むとは思いもよらなかったわけなのですが」


 伴代は寂しそうな悔しそうな表情を滲ませながら力任せに箸で角煮を切った。

 今なら聞けるかもしれない、と紫乃は思う。

 母がこの天栄宮てんえいきゅうを追われ、屹然きつぜんの山中で暮らすようになった理由。

 紫乃に、「高貴な人に見つからないようにしなさい」と言った理由。

 それらをごく自然に、伴代の口から聞けるかもしれないと思うと、心臓がいつもより早く鼓動する。


「…………何があったんだ?」

「紅玉様は…………秋霖様を毒殺しようとした罪で投獄、処刑され、帰らぬ人となったのです」


 伴代の言葉の意味を理解するのに、紫乃はかなりの時間を要した。

 動きが止まり、掴んでいた湯呑みが指の間からすり抜ける。茶が畳を濡らしていることにも気が付かないまま、紫乃は目を見開いて思考を彼方に飛ばしていた。


(毒殺? 投獄? 処刑……?)


 あまりにも衝撃的な母に関する話に、紫乃はどう反応すれば良いのかがわからない。


「姐さん?」


 不審に思った伴代に話しかけられて紫乃は顔を上げるが、何を言えばいいのかと迷った。


「あ…………御料理番頭ともあろう人物が、毒を盛るなんて考えられなくて」

「それは勿論、ここにいる厨の連中皆がそう思ってますよ。なあ」


 伴代が皆に語りかけると、その場の全員が首を縦に振る。そして伴代は上体をかがめながらぐっと紫乃に近づくと、歯の隙間から囁くような声を出す。


「天栄宮は恐ろしい場所です。今代皇帝になってからはだいぶ変わりましたが、それでもまだ、心なき輩は大勢いる。特に上級役職についている者は、いつ謂れなき罪で捕縛されてもおかしく無いのです」

「…………」


「ま。俺たちは、あの方が料理に毒を盛る真似だけは絶対にしないと信じています。理由もないですしね。さあ、辛気臭い話はお終いにしましょう、せっかくの飯が不味くなる」


 伴代は空気を変えようと膝をぱしんと打ち鳴らすと、角煮を豪快に頬張った。

 紫乃は畳に染み込む茶をじっと見つめながら、思考に耽る。


(母は……処刑などされていない)


 なぜならば母は、紫乃と共に屹然の山中にずっと住んでいたからだ。

 絶対に処刑などされていない。ならば誰かが母である紅玉を逃したと言うことになる。

 誰が? 

 答えは少し考えればすぐにわかる。


(…………黒羽こくう


 先代皇帝の影衆だったと言う黒羽。紫乃たちのもとに食料を届けてくれていた、正体不明の存在。その黒羽が関わっている可能性が高い。


+++


 どうにか御膳所で夕餉ゆうげの片付けを終え、いつも通りに火の始末と戸締まりを済ませた紫乃はぐったりとしながら自室に戻っていった。

 せっかく事件を一つ解決したと言うのに気分はあまりよろしくない。

 紫乃は布団を敷くと、入浴も着替えもしないまま突っ伏した。部屋の中は真っ暗闇なままである。


「紫乃、大丈夫? 顔色悪いけど」

「花見……」


 紫乃は頭をもぞりと動かすと、部屋の出入り口にいる花見を見る。暗くとも光る花見の目玉は、心配そうに紫乃を見つめている。そのまま音もなく紫乃が寝そべっている布団まで近づいて来ると、しゃがみ込んで紫乃を見下ろした。


「どうしたんだにゃあ」

「ちょっと……母さんの話を聞いて」

「紅玉の?」

「うん」


 頷いた紫乃は、花見に伴代に聞いたことを話した。


「皇太子に毒を盛って、御膳所を追放。処刑された……らしい」

「にゃ?」


 花見はしゃがんだまま、不思議そうに首を傾けた。


「紅玉って……元気に暮らしてたよにゃ」

「うん」

「最期は病気で弱ってたけど、ワテと紫乃で看取ったよにゃ」

「そう」

「じゃ、処刑されたってのは、出鱈目じゃない?」


 花見の指摘に紫乃は頷いた。


「だからこそ、不味い」

「どういう事?」

「母さんは、毒殺の罪で処刑されたという事になっている……だけど、実際には屹然の山で生きていた。という事は」

「という事は?」

「誰かがこっそり母さんを逃したって事になる」

「誰が?」

「花見、思い出して欲しい。私たちの所には定期的に色んなものを届けてくれた黒羽という存在があった。そして黒羽は……凱嵐の話では、先代皇帝の影衆の長。つまり……」

「つまり?」

「……母さんを逃したのは、先代皇帝の可能性がある」

「…………!!」


 紫乃の言葉を聞いた花見は目をこれでもかと見開き、目線を紫乃から天井へと向けた。


「紫乃、天井に誰か隠れてる」


 まさか、という思いで布団から身を起こすと、花見と同じく天井を見つめた。明かりのない部屋の中、紫乃には何も見えないが、花見がいると言ったからには誰かがいるのだろう。

 今の話を聞かれていたとすれば、非常にまずい。

 花見はドスのきいた低い声を発した。


「捕まえてくる」


 言うが早いが、その場でググッと体を丸めると、握り拳を頭上に振り上げた格好で跳躍した。

 バキバキバキバキッ! と凄まじい音がして、花見によって天井が破壊される。木っ端微塵になり降ってくる天井板を避けようと、紫乃は布団をかぶって部屋の隅に退避した。


「待てえええ、おらああああ!!」


 花見の物騒な声と共に、天井を疾走する足音が聞こえた。足音はどんどんと遠ざかり、そのまま使用人宿舎の外へと飛び出した。

 紫乃は布団を捨て、慌てて障子をあけて外の様子を確かめる。


「盗み聞き野郎め! とっ捕まえてぶっ殺してやるにゃああああ!!」


 四階から庭へと降り立った花見は、ものすごい叫び声を上げながらどこかへと走り去って行ってしまった。

 欄干から身を乗り出して一部始終を見ていて紫乃は、突然すぎる事態に呆然とするしかなかった。

 隣の部屋の障子が開く音がして、紫乃に声をかけてくる。寝ていたのか、その声はぼんやりとしていた。


「今、物すごい音と声がしたけど、大丈夫かい?」

「あ、はい。すみません、大丈夫です」

「そう……」


 声の主はあくびをすると、再び部屋へと引っ込んでいく。

 すると宿舎のあちらこちらで窓を開ける音と人の声がした。


「うるせえなぁ」

「今のは何だ? 泥棒か?」

「見張りでも呼ぶか?」


 大ごとになったら大変だ。紫乃は声を張り上げた。


「お騒がせしてすみません……! ちょっと荷物の整理をしていたら、転んだだけなので!」


 すると、方々から返事が返ってくる。


「こんな夜中に、荷整理なんてすんなよ」

「寝直しだぁ。ったく」

「明日も早いんだから、起こすなよ」

「すいません」


 使用人たちは文句を言いつつも障子を閉め、段々と静かになった。

 しかしそう思いきや、今度は廊下を忙しなく走る音が聞こえてきて、紫乃の部屋の戸が勢いよく開かれた。


「紫乃様っ、物凄い音がしましたが大丈夫でしょうか!?」

「その声は、大鈴だいりん?」


 未だ部屋が暗いままなので顔が見えないが、声からして大鈴であるようだ。


「はい。いかがしましたか? 泥棒でも出たのかと、焦り馳せ参じましたが……」

「あぁ、いや、大丈夫。ちょっと……荷物の整理を」 


 紫乃は先ほどと同じ言い訳を繰り返すと、ひとまずこの暗闇をなんとかしようと行灯あんどんに火をつけた。すると見えてくるのは、部屋の惨状。布団のほぼ真上の天井がぶち抜かれ、板がバラバラに散らばっている。

 明らかに荷物の整理で出来たはずがない破壊の傷跡に、部屋の入り口に立っている大鈴は困惑の表情を見せている。


「え、紫乃様、これは一体どういう状況で……!?」


 どう言い訳すればいいのだろうか、と紫乃は思った。

 何を言っても訝しまれそうだが、まさか「曲者を追おうとして花見がぶち壊した」とは口が裂けても言えない。というわけで紫乃は、こう言った。


「…………寝ていたら急に降ってきた。鼠か何かの仕業だと思う」

「はぁ……鼠……?」

「うん。鼠は花見が追いかけてる」


 それを聞いた大鈴が真剣な表情で穴の空いた天井と落ちてきた残骸を交互に見つめ、それからつぶやいた。


「……わかりました。の仕業ですね」

「うん、そうそう」

「今現在、花見様が追いかけていると」

「そうそう」


 誤魔化すために適当に相槌を打っている紫乃の手を、器用に残骸を避けながら近づいてきた大鈴ががっしと握った。


「紫乃様、お気をつけくださいませ。その鼠、厄介かもしれません」

「え? あ、そうかな。そうかもな」

「わたくしに何かお手伝いできる事はございますか? こう見えて、昔は色々とやっていましたので」


 冗談を言っているとは思えない大鈴を見て、一体何をしていたんだろうか、と紫乃は思った。しかし聞くのも恐ろしかったので、首を横に振る。


「花見がいるから、平気」

「そうですか……では、部屋の片付けをお手伝いしましょうか?」

「それは助かる」

「では、掃除道具を取って参ります」


 言うが早いが、大鈴は早速とばかりに部屋を出て行き、戻ってきた時には手に掃除道具を握りしめていた。


「さ、お掃除してしまいましょう!」


 張り切る大鈴はテキパキと動き、つられるようにして紫乃も黙々と部屋を掃き、ちりとりで細かい木屑を集めた。大きい板は手で拾い、ひとまず部屋の隅にまとめる。

 大鈴が手伝ってくれたおかげで、ものの四半刻で部屋が綺麗になった。


「明日の朝も給仕で早いのに、ありがとう」

「何の! 紫乃様も、朝の食材調達でお早いでしょう? お気になさらないでください」


 大鈴はにこりとたおやかな笑みを浮かべ、言う。


「では、わたくしは下がらせて頂きますね。おやすみなさいませ」

「おやすみ」


 紫乃が見送ると、大鈴はお辞儀を一つして去っていく。

 入れ替わるようにして、窓からひょいっと花見が入ってきた。


「駄目だ、逃げられた。……あれ、部屋綺麗になった?」

「大鈴が手伝ってくれた」

「大鈴? あぁ、あのいつもにっこりしてる給仕番かにゃあ」

「そう」


 花見は大鈴が来た事には別段興味を示さず、欄干をまたぐとどかっと腰を下ろす。


「くそっ、あの盗み聞き野郎。逃げ足が早い」

「どこに逃げていったの?」

「真っ直ぐ西に走って行った」

「西……」


 言われ紫乃は、天栄宮の地図を頭に思い浮かべる。西といえば、男子禁制の女の園、奥御殿が存在している場所だ。まさか、と考える。


「花見、逃げて行った奴に見覚えは?」

「ある」


 花見は力強く返事をし、紫乃の瞳をまっすぐに見た。


「ワテが牛鍋を食べ損ねる原因になった……都で襲撃して来た刺客と同じ奴のニオイがしたにゃあ」

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