第10話:お父様に報告を

 その日の夜。仕事が終わって帰宅した後、婚約破棄の書類を作成していると、珍しくお父様から呼び出された。


 私が浮気された話は広がっているため、耳に入ってしまったのだろう。事情があったとはいえ、相談もしないで婚約破棄を決意したのは、さすがにマズかったかもしれない。


 勇気を振り絞って書斎を訪ねると、そこには腕を組んで険しい表情を浮かべるお父様の姿があった。


 昔は王国の副騎士団長として活躍し、子爵家であることを誇りに思うお父様は、貴族の名誉を重んじる傾向にある。


 現役時代は鬼神と呼ばれ、現在は騎士の育成に関与する鬼軍曹と呼ばれているので、怖い印象しか持っていなかった。


「座れ」


 口数が少なく、用件しか言わないところが、また一段と怖い。私が避けていることもあり、今は年に一度会話する程度の関係だった。


「失礼します」


 よって、私はよそよそしい。家族に接しているとは思えないほど、礼儀正しく振る舞っている。


 もちろん、昔からぎこちない関係だったわけではない。子供の頃は両親と兄が周りにいて、もっと明るい家庭だった。


 でも、母が病気で亡くなり、兄が騎士団に入隊して寮生活になると……、自然と心の距離が開いていった。


 最後に話したのはいつ頃だろうか、と思いながら優雅な一礼をした私が、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。そして、机の上に置かれているものを見て、驚愕した。


 なんと、婚約破棄に関する書類が並べられているのだ。


 それも、すでにボイトス家の署名済みのものを、である。


「説明しろ」


 冷や汗が止まらない。ここに婚約破棄の書類があるということは、ジール様がお父様に手渡したことを意味する。


 まさか浮気した側のジール様から、婚約破棄の書類を叩きつけられるなんて。ただでさえ、お父様には言い出しにくかったのに……うぐぐっ。これはどうすべきだろうか。


 針でブスブスと刺されているような気持ちになった私は、仕方なく素直に状況を説明することにした。


「二日前、冒険者ギルドの倉庫で、ジール様が他の女性と愛し合っている場面に出くわしてしまいまして……」

「それで婚約破棄に至ったというわけか」

「悪びれる様子もなかったため、つい婚約破棄を申し出てしまいました」


 絶対に雷が落ちる……! と思った私は、目をギュッとつむって身構える。


「わかった」


 しかし、拍子抜けするくらいにはアッサリと受け入れられてしまう。目をパチパチとさせて様子をうかがうが、お父様は相変わらず腕を組んだままだった。


 なんだろうか、この空気は。思っていた感じと違う。婚約破棄なんてみっともない真似を、お父様が許すはずないのに。


 もしかしたら、これが嵐の前の静けさというやつかもしれない。無言で書類を読み込むお父様は、人から鬼へと変わる準備をしているのだろう。


 手に終えない存在に変わる前に、先制の謝罪攻撃で怒りを沈めるべきだ。


 椅子から立ち上がった私は、深々と頭を下げる。


「ホープリル家の名を傷つけてしまい、申し訳ありませんでした」

「ん? お前がどう傷をつけたんだ?」


 へっ? と間抜け面で顔をあげてしまうほど、私は今日二度目の肩透かしを食らった。


「あの、その、婚約者に浮気されて良からぬ噂が流れることで、子爵家の印象が悪くなります……よね?」

「聞き方を変えよう。お前が傷をつけたのか? 子爵家の名誉を傷つけるような行為をしたのか?」

「……いいえ」

「そうだ。我がホープリル家の名誉は傷つけられたのであって、お前は傷をつけていない。謝る必要はないんだ。むしろ、婚約を決めた俺が謝らなければならないだろう。本当にすまないことをした」


 自分の耳を疑った。あの頑固なお父様が、私に謝罪したのだから。


「現役で戦場に出ていた頃、ボイトス伯爵のポーションには何度も命を助けられてな、縁談の話を断れなかったんだ。不甲斐ない父を許してくれ」


 今度は目を疑った。鬼みたいな印象しかない父が、頭を下げているではないか。


 私にとっては、婚約者が浮気するくらいあり得ない光景である。


 当然、そんな光景を目の当たりにすれば、慌ててしまうのも無理はないだろう。


「いえ、あの、私は怒っておりません。このような事態に陥ったのは、婚約者の心を引き留められなかった私にも過失があると思います。本当に申し訳ありませんでした」

「過失などあるものか。ずっと見守ってきたお前の姿を見ていれば、それくらいのことはわかる」


 そう言ったお父様が引き出しから取り出した書類は、婚約証書ではなく、ホープリル家のサインが入ったの婚約破棄の申請書だった。


「お前が一度でも弱音を吐いたら、慰謝料を払って婚約破棄しようと決めていた。貴族として生きるべきか、一人の父親として生きるべきか、悩まない日はなかったよ」


 真新しい婚約破棄の書類だったら、私はお父様を疑っていたかもしれない。でも、何度も取り出したとわかるように指の跡が残っているのだから、本当のことなんだろう。


 口数の少ないお父様なりに、私のことを心配してくれていた。その事実に歯がゆい気持ちが生まれてくる。


「正直なことを申しまして、お父様を説得しなくて済んで、ホッとしています。婚約破棄の書類もあるのなら、無事に進みそうで何よりです」

「いや、改めて書類は作り直す。ボイトス伯爵令息が持ってきた書類には、慰謝料が記載されていない」


 一瞬、お父様の言った言葉の意味がわからなかった。しかし、書類を確認すると、そのままの意味だったと理解する。


 慰謝料の項目に、斜線が引かれているのだ。


 ええー……。正当な話し合いで婚約破棄したと処理するつもりなのかな。いや、ジール様はプライドが高いし、これで私を捨てたとアピールしたいのかもしれない。


 お前なんてこっちから願い下げだ、という意味だろう。だって、浮気した自分が悪いと認識していなかったから。


 そんなジール様に慰謝料を請求したら、泥沼の騒動になるのは間違いない。


 せっかくクレイン様が助けてくれた意味がなくなってしまうし、ここは目をつぶるしかないか……。


「こちらの書類で構いません。慰謝料は請求しない形にさせてください」

「何を言っているんだ。お前の経歴にも影響するんだぞ。慰謝料を請求しなければ、自分に非があったと言っているようなものだろ」


 お父様の言い分はまっとうであり、慰謝料をかけて戦うのが一般的だ。金を取るというより、どこまで名誉を守れるかが焦点になる。


 でも、今回の場合は違う。クレイン様の力添えがあり、すでに名誉は守られているのだから、無駄な争いをする必要がない。


「実は、宮廷錬金術師の助手になる話をいただきました。本日から雇っていただき、正式に契約させていただいております。なので、婚約破棄こんなことで揉めたくありません」

「宮廷錬金術師の助手……? それこそボイトス家で働いた経験があるだけだろう。いったい誰が打診したんだ?」

「オーガスタ侯爵家のクレイン様です」


 ポッカーンと大きな口を開けるお父様を見るのは、これが生まれて初めてのこと。


 私も助手の話を打診された時は、こんなに馬鹿面になっていたのかもしれない。


「どうしてそうなった? 宮廷錬金術師の最年少記録を大幅に塗り替えた天才だぞ」

「普通にしていたつもりなんですが、なぜか評価されてしまいました。すでに冒険者ギルドで騒ぎになりましたし、見習い錬金術師としても働かせてもらえることになりましたので、このまま平穏な日々を迎えたいと思っております」


 お父様の頭で理解できる範疇を越えたのか、大きなため息を吐いた後、机に顔を伏せてしまった。


 婚約破棄と比較できないほど、良いニュースである。ただ、当事者の私でもよくわかっていないのだから、お父様が混乱するのにも納得がいく。


 なぜだ。どういうことだ。考えてもさっぱりわからない。という気持ちなのは、間違いない。


 しばらく悩んだ末、お父様は息を吹き返すように座り直した。


「オーガスタ侯爵令息の意図は不明だが、何か思うところがあったんだろう。彼ほど頭脳明晰な人間は、見たことがない」

「確かにそうですね。昨日までの悪い噂を、あっという間に良い噂で上書きしてくださったので」

「そういうことであれば、慰謝料の請求はやめておこう。憎らしいが、ボイトス家とは早急に縁を切ることを優先する」

「よろしくお願いします。私ももう、ジール様と関わるつもりはありません」

「わかった。念のため、付き合いのある貴族には手紙を出しておくぞ」


 テキパキと動き始め、早速手紙を書き始めるお父様を見て、私は不思議な感情を抱いていた。


 なんか、本当の家族みたいだ。いや、本当の家族なんだけど。


「お父様、私のことが嫌いじゃなかったんですか?」

「……女の扱いが苦手なだけだ。娘とはいえ、未だに何て呼べばいいのかわからん」

「いや、そこは呼び捨てでいいかと」

「呼べるなら呼んでいるだろ。早く行け。作業の邪魔だ」


 本当に不器用な人だったんだなと、私はお父様の認識を改めることにした。

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