【漫画1巻9月17日発売】蔑まれた令嬢は、第二の人生で憧れの錬金術師の道を選ぶ ~夢を叶えた見習い錬金術師の第一歩~【Web版】
あろえ
第一章
第1話:婚約者の浮気現場
昼休みを知らせる鐘が鳴り響く頃、冒険者ギルドに勤める子爵家の私――ミーア・ホープリルの元に一人の男性がやってきた。
「今夜は大事な話がある。ミーアの指のサイズを教えてくれ」
私の婚約者で、錬金術師のジール・ボイトス伯爵令息だ。
そんな人が結婚指輪をほのめかすような発言をすれば、春が訪れるように職場が明るくなる。
冒険者ギルドはお祝いムードに包まれ、仕事仲間たちが「おめでとう」「よかったね」と、笑顔で温かい声をかけてくれた。
本当は愛のない政略結婚だけど、みんなに祝ってもらえるのは、素直に嬉しい。退職するのが名残惜しいと思うほど、居心地のいい職場だったから。
すでに三年間勤めた冒険者ギルドには辞表を提出して、明日、寿退社することが決まっている。あとは流れに身を任せ、新婚生活が始まる……はずだった。
その日の夜、婚約者の浮気現場を目撃するまでは。
綺麗な星空が広がる夜になると、冒険者ギルドの倉庫で変な音が漏れ出ていることに気づく。
不審に思って、暗い倉庫の中を確認すると、男女が濃厚なキスを交わすシルエットが映し出された。
こんな場所で愛し合わないでよ……と思っているのも束の間、キスを終えた二人の顔が離れる。
月明りに照らし出されたその人物を見て、血の気がサーッと引いた。
密会していたのは、婚約者のジール様だったのだ。
結婚まで残り僅かな時間しかないのに、婚約者の浮気現場を目の当たりすることになるとは、誰が予想できるだろうか。少なくとも、昼間に仲間たちから祝福された私は、考えてもいなかった。
今まで愛の欠片もない冷たい態度に耐え抜き、感情を押し殺して尽くしてきたというのに、なぜこんなことを……。
周囲に円満アピールをするため、必死に作り笑いを浮かべてきた私が馬鹿みたいだ。
「カタリナ」
それも、浮気相手が私の可愛がっていた後輩、カタリナ・メディック男爵令嬢なのだから笑えない。
職場に馴染めない彼女を気遣い、同僚や取引先にもフォローして、面倒を見てきたつもりだった。冒険者ギルドを退職すると決まった時も、甘えん坊な彼女のことが気がかりで、仕事仲間に頭を下げてお願いまでした。
それなのに、どうしてこんなことができるんだろうか。今となっては、利用されていただけなのかな、と疑ってしまう。
居たたまれない気持ちになり、声をかけずにその場を後にしようとすると、不意に近くの物に手が当たって、ガランガランッと物音を鳴らしてしまう。
当然、そんな大きな音を出せば、密会している二人にバレるわけであって――。
「ミーア……」
「ミーア先輩……」
呼吸ができなくなるほど気まずい雰囲気になり、自分で表情がうまくコントロールできない。心の底から嫌悪感が湧き上がり、私は自然と二人に軽蔑の眼差しを向けていた。
しかし、密会していた二人は違う。悪びれる様子もなく、呑気にクスクスと笑っている。
「あーあ、バレちゃった」
「だから、今日は時間がないと言っただろ。ミーアに結婚指輪を渡す日で、夜はレストランで食事をする、とな」
「でも~、昼休みだけでは満足できないって言ったのは、ジール様ですよ。結婚指輪も既製品で済ませたって言ってたじゃないですかー」
カタリナの腰に手を回して抱き寄せるジール様を見る限り、目の前の光景がすべてを物語っている。
婚約者の私にまったく興味がなく、何の価値も感じていない。可愛げのあるカタリナの方が好みだったんだろう。
「まあいい、誤解を解けばいいだけの話だ」
「……誤解?」
「ああ。ミーアは浮気だと思っているだろうが、現実は違う。これはただの遊びだ」
は? という言葉すら声に出てこない。どう見てもコソコソ隠れて密会していたのは、一目瞭然だった。
「そうですよ~、先輩♪ 私たちは体を求め合うだけの関係ですから、気にしないでください。よくあることじゃないですか~」
「当然だな。健全な貴族なら、夜遊びの相手が二・三人はいるものだ」
「でも~、ジール様は一途じゃないですか~。だってぇ、私だけしか見てないですもんねー。それも、ずーっと前から」
「あまり大きな声で言うな。真面目すぎるミーアのために、今まで隠してきてやったんだぞ。せっかくの俺の気遣いが無駄になるだろ」
隠してきてやった? 私への気遣い? この人はいったい何を言っているんだろう。言い訳するのかと思いきや、完全に開き直るなんて。
貴族の婚約は政治的な意味合いが大きい契約だと、ジール様は理解していないのかな。
どうにも彼が本気で言っているような気がして、私は呆れることしかできない。
「信じられませんね……」
「残念ながら、貴族に愛のある結婚なんて必要ないんだ」
婚約者との時間を切り捨て、私の後輩と遊び惚けていた彼に、貴族の結婚を語る資格はない。
両家の間に深い溝を作ったジール様が事の重大さを理解していないのは、滑稽としか言いようがなかった。
「夜遊び程度で騒ぐなんて、馬鹿らしいことだぞ。いい加減に機嫌を治せ」
ようやくカタリナの腰から手を離したジール様は、ゆっくりとこっちに近づいてくる。
どや顔でポケットから取り出したものを見て、私はため息しか出てこなかった。
「ミーアのために用意したんだ。俺からの
このタイミングで結婚指輪を渡してくるなんて、正気? 馬鹿にしていると言われた方がまだ納得できる。
十歳の頃から八年も婚約しておいて、初めてのプレゼントが結婚指輪というのも、意味がわからない。今まで誕生日に花の一つも贈らないで……いや、もう考えるのはやめよう。
こんな人と付き合う必要はないんだから。
「結婚指輪は受け取れません。私たちには不要なものです」
「は? 何を言ってるんだ?
妄想も
「勘違いされているみたいですので、ハッキリと申し上げておきます。我がホープリル家に恥じぬよう尽くしてきただけであって、私はジール様に好意を抱いておりません。これっぽっちもです」
ボイトス伯爵家から押し付けられた雑務をこなし、ジール様の指示に嫌々従ってきた身としては、好きになる要素など一つもない。
うちの家系に悪評が立たないようにと、ずっと我慢してきただけ。これも貴族に生まれた運命だと、自分に言い聞かせて受け入れるしかなかった。
でも、それも今日で終わり。これ以上は彼の言うことに従う必要はない。
私が軽蔑の眼差しで見つめ続けている影響か、さすがにジール様の表情が曇り始める。徐々に状況を理解し始めたみたいで、苛立つように歯を食いしばっていた。
「俺との婚約を破棄するとでも言うつもりか?」
「見過ごすには大きな問題です。婚約破棄するのは、普通のことでしょう」
「馬鹿馬鹿しい! 伯爵家の俺と結婚寸前で破棄しようなんて、大問題だぞ! こっちは結婚してから抱いてやろうと妥協してやっているのに!」
「けっこうです。丁重にお断りさせていただきます」
話すだけ無駄だと思い、私はその場を飛び出した。
暴力の一つでも受けていれば、もっと楽に婚約破棄できるかもしれない。でも、一秒でも早く顔を見たくないと思ったし、逆上されて大怪我をしても困る。
当然のように追ってくる気配はないが、念のため、後ろをチラチラ確認しながら歩いていると――。
「痛ッ」
ドンッ! と大きな音が出るほどの勢いで壁に激突した。それがどうしようもなく惨めに感じて、現実が押し寄せるように悲痛な思いが溢れてくる。
情けない。どうしてこんなことになったんだろうか。
昼間のお祝いムードから一変して、階段を踏み外したように転げ落ちる自分の人生に、思わず涙がこぼれ落ちる。
私は特別可愛いわけでもないし、スタイルがいいわけでもない。でも、子爵家に恥じぬように努力を続けてきたつもりだった。
ドレスを着こなすためにダイエットや筋トレを続けたり、伯爵家の婚約者として生きるためにマナーを覚えたり、周囲の目を意識して気遣ってきたり。
それなのに、妥協されないと結婚もしてもらえないの? そんなの……あんまりだよ。
「私、そんなに魅力がないのかな……」
「そんなことないだろ。何かあったのか?」
我を失って泣いていると、突然声をかけられてハッとした。
急いでハンカチを取り出して涙をぬぐうが、もう遅い。そこには、何度も依頼を担当させていただいている、侯爵家クレイン・オーガスタ様の姿があった。
茶色い髪に深い緑色の瞳が輝き、目鼻立ちの整った男性。私よりも二つ上の二十歳にもかかわらず、最年少で宮廷錬金術師に選ばれた天才と称されている。
貴族の間では気難しい人と言われているが、そんなことはない。婚約者のジール様とは違い、錬金術のことを色々と教えてくれる優しい人で、とても人柄の良い印象だった。
「何でもありません。あの、見なかったことにしてください」
「別に構わないが……代わりに、依頼の確認をお願いできるか? 引き継ぎをしてもらったが、急にミーア嬢に確認してもらいたくなったんだ」
優しく笑うクレイン様を見れば、気遣っていただいていることくらいはすぐに察する。私が落ち着くまで付き合ってくれようとしているのだ。
そんなクレイン様の優しさが身に染みて、また涙が溢れ出てしまうのだった。
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