第10話 元カノ
【天十郎と呼ぶ声がした】
その声に振り返ると、親しげに天十郎を見ている女が立っている。蒲がとたんに不愉快そうな顔をした。夏梅は展示している絵画に気を取られている。
少しの間があり、天十郎は我に返ったように「あっ」と小さく声をあげ、夏梅を離した。
両足とも宙に浮いていた夏梅は片方を離され、片足だけ地に着いた。片腕を高く上げた状態で、夏梅の胸のふくらみが強調された。自分の胸を見て、斜めのまま「やだー、放せ!」蒲に飛び掛かり、力ずくで腕を下におろさせようと、もがき始めた。
「こいつは誰だ」僕が蒲に聞くと「元カノ」と答えた。天十郎は黙っている。
その声に夏梅は動きを止め、蒲を見てキョトンとしていたが、蒲が斜めの夏梅を引き連れて、女の前に進み「お!美来、久しぶりだな」低い声で言った。
蒲の声のトーンから、夏梅が事態に気が付いたようだが、対応に迷っている。
元カノの美来が、まるで汚い物でもみるように夏梅を見た。
確かに、夏梅はひどい恰好をしている。斜めの夏梅は、天十郎の大きなセーターが、ひざ下まで垂れ下がり、巻きスカートをほとんど隠し小さな顔と手足が、ひょこっと出ている。
「あら、どこかで見たことのあるセーターだわね」
美来は親しげにその不格好な夏梅に向かってマウンティングを始めた。
「あたしが買ってあげたものかしら?」
美来が爽やかに笑った。そして、ダメ押しするように手を出した。その手は、握手のつもりか?脈絡が判らない。蒲と天十郎と夏梅は、彫刻のように固まっているが、背後には男達の渦がある。
「蒲、カフェか階段の休憩スペースに移動しろ、後ろから迫っているぞ」僕の声に蒲が我に返った。
「奇遇だな、こんなところで会うなんて」蒲が繕った。
天十郎はあいかわず一言も発しないし、サングラスをしているので表情が読めない。
蒲が挙動不審者のように、きょときょと見渡して「あちらに」と休憩スペースを指さした。美来は出した手を引っ込めて「ああ」というと、天十郎の腕をとった。
天十郎は蒲と夏梅の方をみて無言のまま、腕をほどこうとしたが、きつい視線でそれを制止した美来は、天十郎を挟んで夏梅に話しかけた。
「天十郎って甘えん坊でアルバイトもしないでしょ。生活費から衣装代も私がだしてあげていたの」
「は?衣装って自前なの?」夏梅が驚いたように美来に聞いた。
「カッ」蒲は小さく夏梅を叱咤した。夏梅はふてくされた。
美来は構わず、色々と話し始めた。
斜めで片足しか地に着いていない夏梅は「ええ、そう」と聞くふりをしている。どちらかと言うと、天十郎の元カノよりも、蒲の腕を下に降ろさせることに、気を取られている。
天十郎は何度か夏梅の方に近寄り、夏梅の腕をとろうと手を伸ばしていたが、そのたびに美来に腕を小さく引っ張られていた。
まあ、夏梅というより蒲の傍に行きたかったようだ。
僕は笑った。この漫画みたいな状況がおかしかった。こんな事が現実に起こるのか…。「面白い」僕の言葉に、蒲が僕を見て不愉快そうな顔をした。
【休憩スペースに到着すると】
「ちょっとトイレ」と夏梅は逃げた。
辿り着くまで、どれだけ天十郎が、自分を愛して頼っていたか語り続けた美来だ。大きな美術館は休憩スペースが遠い…。散々、美来の話を聞かされた夏梅の動きは素早かった。
「そうだね」蒲が、夏梅の腕を離さないまま、一緒にトイレに向かった。その後を追うように「私も」と、美来が夏梅の後を追いかけた。夏梅は、トイレに入ると見せかけて、美来と入れ替わるようにすぐに出て来た。
トイレ出口で待っていた天十郎と蒲は、出て来た夏梅を捕まえるとコソコソと話し始めた。
「だから嫌だって言っているでしょ」夏梅が強硬に拒否している。
「なんで?」蒲が食い下がる
「トラブルが嫌いだからよ、決まっているでしょ」
「どうして?」天十郎はしつこく迫っている。
「この間、話をしていた慰謝料と嘘の噂!仕事のために、別れた元カノじゃないの?」
「そうそう、よく覚えていたな」天十郎は夏梅の頭をなでた。夏梅はその手を払いのけると
「独占欲の塊クソ女がやらかし事なんて丸見えよ。『私~、あの人にどれだけ、みつがされたか、わからない。欲しいものは何でもあげたけど、私が嫌気を起こして捨てたのよ。でも~。あの人は私を必要としていて、私たちの絆は強いのよ~今でも私の所有物よ。気軽に触らないで~』って事でしょ」
腰をくねくねさせて、ねちねち言葉で話した。僕は夏梅のくねくね、ねちねち演技に笑った。夏梅は聖女じゃないから、汚い言葉も平気で使うが、よっぽど嫌みたいだ。
なぜ?
「ここで無駄な話をしていないで、元カノを置いて、モネを見に行こうよ。蒲、何を考えているか知らないけれど、何年前かの彼氏の所有権を主張する気持ち悪い女が相手じゃリスクが大きすぎる。嫌だよ」
「ああいう、元カレの所有権を平気で主張する、独占欲の塊みたいな物体と、関わりたくないのは、わかるよ」蒲は必死に夏梅を説得し始めた。
「わかっているなら、この話はなかった事にしてよ。きっと二人には利益があるのでしょ。でも、私にはなんの得にもならない。それくらいの予測はつくわよ」
「だから、その独占欲の塊みたいな物体から守ってやるから」
「なにそれ、もともと近づかないでいれば、トラブルはないの。それに自分からトラブルに飛び込む理由が、私にはないの」
「天十郎が困るだろ?」
「はあ?天十郎が困っても、私は困らない」
「夏梅、よくわかっているな」蒲がニヤっと笑った。
「だから嫌でしょ」
「でもさ、どうしてもお前に、助けてもらいたい」
「そう、だったら条件がある。あんたたちのSEXビデオを撮らせてよ」
「なにそれ」蒲と夏梅のやりとりを黙って聞いていた天十郎が慌てた。
「私の利益になる取引をすることを条件に違反行為をしたら、そのSEXビデオをインターネット・TVなど、メディアに販売して良いという法的有効な誓約書を添えてくれたら、やってもいいわよ」
「はあ?」蒲があきれた。
「あと、それを行うにあたって、私の利益になる項目も加えて頂戴」
「利益ってなにが欲しいのだよ」
「欲しいもの?」夏梅が考え出すと蒲がそれを遮って「ないだろ」と馬鹿にしたように笑った。
「塁」
「それは、違反だ。どうせそれしか欲しいものがないくせに」
「それしかって、塁のほかに欲しいものは、家族、子供」と夏梅は口を尖らせた。
「無理なものばかりじゃないか、こいつ、やる気はないな」
「だったら、この取引はなかった事になるわね」
夏梅は満足げに嬉しそうだ。
「いいよ、お前の家族や子供を作れば応じるな」その蒲と夏梅の会話に、突然、天十郎がはいりこんだ。
「おい」蒲が慌てた。夏梅は癇に障るように目も尖らせ天十郎に向かって
「いいわよ、家族や子供を作れるなら作って見なさいよ」
「言ったな、女に二言はないな?よし、いいよ。作ってやるよ」
「それを言うなら、男に二言はないっていうのでしょ」
「どっちでもいい、誓約書をつくろう」天十郎は近くにあった美術館の開催イベントのチラシを渡し、裏に二人共書き始めた。
「おい、誓約書だからお互いに求める事と、それが出来なかった時の罰則をかいて、それぞれが署名捺印だからな?わかっているか?」
天十郎が吐き捨てるように夏梅に言った。
「天十郎、やめとけ。おい、二人共バカな話をしてないで、真剣に対応策を話そうぜ。おい、夏梅もやめろ、ろくなことにならない」
蒲が焦る中、夏梅は天十郎の勢いに負けない。
「ふん、それくらい知っているわよ。秘密保持項目も入れておきなさいよ」
「了解」
「そうだ、秘密保持もいれるなら、蒲も一緒に入れないといけないわね」
「おおそうだな、お前も書け」突然、反発していた夏梅と天十郎が結託した。このことに、蒲がさらに慌てだした。
「おい、二人共、待てよ。よく考えろ」
「蒲、嫌なの」
「だからさ」
「蒲、お前がいいだしっぺだ。今更、逃げられないぞ」
「おい」蒲は僕の方を向いて、助けを求めるような顔をした。
僕は知らん顔した。僕でもあの夏梅はとめられない。しかし、こいつら一体何をしている?そうやってバタバタしているところへ、トイレから化粧も髪も整えた美来が出て来て「お待たせ」と目をぎらつかせた。
「怖!」美来を見て僕は何とも言えず背筋が寒くなった。戦闘態勢に入っているのがわかる。
蒲もそんな美来をみて複雑な顔で、夏梅に目で早く追い返せと言っている。
【夏梅はその合図とともに】
「ふう~」ちいさく声を上げると「美来さん?」美来の手を取って握手した。
美来は、散々、天十郎の話をしたので、勝ち戦のつもりでいたのか、突然、どうどうと夏梅に強引に両手を取られて一瞬ひるんだ。
「この人を支えてくれて、ありがとうございます」
夏梅はきっぱりと追い打ちをする。
ありがとうございます?なんじゃそれは?みんな怪訝そうな顔をした。
美来が唖然としている。
そのすきに、美来が夏梅の手を握り返す暇を与えず、手を離すと一歩天十郎に近づき、目の前に手を差し出した。
天十郎は夏梅の行動が理解できないように、本能的に目の前を遮るその手を掴むと自然と恋人同士のような繋ぎかたになった。
夏梅は、自分と天十郎がつないだ手を、二人の間に降ろしてから天十郎の後ろに隠すと、ぴったりと夏梅と天十郎はくっつく。まるで天十郎の意志で引き寄せているように他人の目に映る。
ああ、これ高校生の時に僕と夏梅でよくやっていたな…。
僕と夏梅なら、夏梅は少し顔をあげて、僕におねだりのキスをするところだが、天十郎の背が高いのでつま先立ちしても、天十郎の唇には届かない。僕だけにする、あのおねだりのキスを拒否できるストレートの雄は、この世には存在しないだろうと、思わずほくそ笑んだ。
【目の前の出来事に】
美来が黙っているはずがない。つかつかと夏梅に近づくと「人のものを欲しがったらダメよ」夏梅の耳元でささやいた。
夏梅は、そのささやきに驚いたような顔して「えっ?あなたって誰かの物なの?」天十郎を見上げじっと見つめた。天十郎は夏梅の質問が意外であるかのように「なんだって?」聞き返した。
夏梅は天十郎に「あなたは誰かの物なの?誰のものになりたいの?」質問を、そのままぶらさずに聞いた。
天十郎は夏梅の頬に手を置き、見つめながら
「俺か?俺はファンのものだよ。でも本心は夏梅だけのものでいたい…」
ささやくように優しく言った。夏梅はゆっくりニッコリと笑い
「天十郎」と、ささやいた。
初めて夏梅が天十郎の名前を呼んだ。僕のすべてが逆流した。
夏梅はすべてを無視しつつ「私は甘える事しか出来なくて~」と、だる甘の声を出して
「いつもファンの方には驚かされています。沢山の方に支えていただけるなんてこの人は幸せ者なのですね」
おい!どっから声を出しているのか?腹立たしい。癇に障る…。
しかし、さすが夏梅だ。元カノをあっと言う間に、ただの一ファンと言う位置づけにしてしまった。先ほどまで、所有権の主張をして、優位に立っていたはずの元カノが、茫然としている。考える暇を与えず、夏梅はジャブを出し続けている。
【その、小芝居に俳優魂を刺激されたのか】
天十郎は何も言わず、自然体で頬においた手で夏梅の頭を撫で、そのまま手を背中に回し、夏梅を抱きかかえ自分の腰を夏梅の腰に押しつける。
夏梅はその手を少しよけるように腰をムズムズしながら、周りの人が見ているから『ダメよ』的な仕草をする。
夏梅の言葉と仕草に反応した雄のように、ゆっくり天十郎はサングラスを外し、ただ一筋に夏梅の瞳を見つめた。二人とも、この場で、すぐにでもSEXしそうな勢いだ。
渾身の演技だ。演技だよな…?こいつ、本当に演技か?
僕と蒲は二人で顔を見合わせた。さすがに、元カノの美来もこれには口を出せない。話題の中心を違うところに持って行かれたあげく、明らかに他の女に夢中になっている男を見せつけられたのだ。さらに、夏梅はマタタビ女全開のまま天十郎に「モネ~」と、唇と上半身を天十郎に突き出した。
ブカブカの天十郎のセーターの上からでも、豊かな胸の線が綺麗に出た。周囲の男たちがそれを見逃すはずがない。ため息や騒めきが聞こえる。
「ご一緒してください」夏梅が美来に言い、歩き出した。
天十郎は、夏梅しか目に入らないように強く見つめ、モネの展示の方角へ移動を始めた。美来がいくら何を天十郎に話しかけても、天十郎は夏梅に夢中。夏梅は多くの男の渦を引き連れて歩き、その頂点に天十郎がいるという構図を作り出した。
天十郎が美来に一言も話さずに、美来の負け戦になった。
【美術館の駐車場に辿り着き】
車に乗ったとたんに元の天十郎と夏梅に戻った。
「目が疲れた」天十郎は夏梅に文句を言い続け、夏梅は近くに寄るなと小競り合いを始めた。さらに夏梅は
「さっきの、あれ?聞いた?見た?『俺か?俺はファンのものだよ。でも本心は夏梅だけのものでいたい…』」
天十郎の仕草を真似て「げー、キモイ、キモイ」夏梅は舌を出し、全身を使って、後部座席で不愉快だと大騒ぎしている。
「しかし、役者さんって、あんな恥しい事を真顔でよく言えるよな。感心したよ。夏梅もよく頑張ったと思うけど…」
僕は二人の様子をつくづくと眺めた。
車に乗るまで演技を続けていた二人は、後部座席に寄り添って見つめあいながら、並んで乗り込んだ。我慢の限界ギリギリだったのか、車のドアが閉まった瞬間に互いのストレスが爆発したように、行きより幼稚な小競り合いはどんどんと激しくなっていった。
運転席の蒲がため息をつきながら「天十郎、運転席に移動しろ。お前が運転しろ!」何度も忠告したが、小競り合いに夢中の二人は蒲の話を全く聞いていない。
「おい、蒲。これでいいのか…」あまりの煩わしさに、僕が蒲に訊ねると蒲は「うるせい」諦めたように小さくつぶやいた。
【家に着くと】
天十郎は蒲の背中にぴったりくっついている。キッチンカウンターでコーヒーを飲みながら、天十郎が蒲に聞いた。
「あのさ、さっき俺たちが夏梅を男たちからカバーしたろう?もし、女がカバーした時はどうなる?」
「当然、カバーした女達に男が群がるだろ」
「なるほどね。将を射んと欲すれば先ず馬を射よって事か」
「まあ、誰でも考える事は一緒。そして女達はいつか気が付く、男が自分を目当てでない事を…。そうすると、夏梅の意志にかかわらず女性の怒りの矛先は夏梅に向かう」
「まずいなそれは」
「そうか?」
「直接、夏梅に向かって来ることはないのか?」
「あるけど、男も女も、あのけん制の視線の中で動くのは難しいだろ、俺らみたいな人間か、よっぽど他を制圧するオーラがないと、喉元を食われちまう」
そんな蒲と天十郎の会話を聞いているのか聞こえないのか、ソファーベッドにからだを委ねて知らん顔の夏梅だ。そして二人も夏梅の存在がないかのように会話を続ける。
「しかしストレートはきついだろう。本能だから。雄を抑えきれないとストーカーになるか、性犯罪者になるかどっちかだろうな。それで、一人で歩かせられないのか」
「タクシーも危ない時があるからな」
「この間、俺に取材した時はどうしたのさ」
「俺の知り合いの女性ドライバーのタクシーを使った」
「なるほど」天十郎は考え込んでいるようだ。
「なんか、同情しているのか?」蒲が怪訝そうな顔をした。
「いや、そうじゃなくて。目薬が一人でさせない事や、ブカブカでダラダラ服しか着られないし、恰好が不細工でも蒲や俺が傍にいて、一見愛されて守られているように見えるが、本当は愛されず、いつも一人でパソコンを叩いている非常に寂しい奴だから…」
「聞こえている!だから何よ、言いたい放題!言わないで!」
ソファーベッドから、夏梅が口を挟んだが、無視して蒲と天十郎は話し込んでいる。
「ただ突っ込みたい衝動だけで、常に目で犯され続けているのか」
「まあ、そういう事だ」
蒲が関心なさそうに答えた。
「なんか、可哀想だな。俺も男地獄を味わっているから、わかる。美術館であった美来もそうだからな」
「おじごくって、なんだよ?」蒲が聞いた。
すると、夏梅がソファーベッドから口を挟んだ。
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