8

 恋を、したんだ。

 好きだったんだ。

 本当に、心から大好きだったんだ。


 ただ見ているだけで良かった。

 彼女が幸せで居てくれるだけでいい。

 俺のことを認識してくれなくていい。


 この温かい気持ち。

 付き合いたいとか、キスしたいとか、そんなことは微塵も考えなかった。

 ただ、彼女がこの世界に存在してくれているだけで、俺は幸せだった。


 ほとんど他人に興味を持たなかった俺にとって、それは初恋だったんだ。


 ▽


 なのに、あの日何もかもが狂ってしまった。


 いつものように登校すると、彼女はいつもどおり席に座って、友人と談笑していた。


 あまりジロジロ見ると気味悪がられるかもしれない。

 俺はひと目見て、それだけで満足し、すぐに目をそらした。


 今日も、いつもどおり、ただ心のなかで彼女のことを想おう。


 そう思っていたはずなのに。


 ▽


 予鈴が鳴る。


 いつもどおり授業が始まって、ちらりと彼女の席を見ると、そこには別のクラスメートが座っていた。


 友達と席を入れ替えたのかな、と思って、平静を装いながらクラスを見回すが、彼女はいなかった。


 もしかして他のクラスの生徒と席を入れ替えたのだろうか?

 だとしたら随分大胆なことをする。


 授業が終わって、出席簿を見てみると、欠席者はゼロになっていた。

 代返でもしたのだろうか、と思いながら、彼女の名前を探す。


 しかし。


 


 いや、違う。

 そうじゃない。

 名前がなかっただけでない。


 俺は、のだ。


 ▽


 何が起きたんだ?


 あんなに好きだった子の名前を忘れるなんて、そんな事がありえるのだろうか?

 と、そこまで考えて––––愕然とした。


 俺は、彼女の名前どころか、のだ。


 ▽


 俺はパニックになった。


 なにかの間違いだ!

 そんな訳はない!


 確かに好きだったんだ。

 そこに居たんだ。

 窓際の席に座って……あれっ、でも、あの子ってどんな髪型をしていたっけ?


 顔は?

 声は?

 そもそも、――


 ▽


 俺は恐怖した。

 もしかすると、俺は狂っているのかもしれなかった。

 ひょっとすると、彼女は、俺の妄想だったのかもしれない。

 俺の頭の中にだけ存在する幻覚だったのかもしれない。


 ▽


 しかし、それでもこの恋心は収まることはなかった。


 俺は一体誰に恋をしているんだ?

 会いたくて、会いたくて、ひと目見たくて––––でも、誰に?


 俺は苦しんだ。

 はじめは食事も喉を通らなくて、胃の中は空っぽなのに、何度もトイレで嘔吐した。


 いくら頑張っても、彼女の姿が思い出せない。

 幻覚だと思おうとして、――当然のように失敗した。



 なぜって。

 俺が、彼女のことを好きだったことは、この恋心だけは、間違いなく現実なんだ。


 ▽


 なのに……自分が好きだった女は、いつの間にか「はじめからいなかったこと」になっていた。


 意味もなくいろんなクラスを見て回ったり、校門で生徒たちを観察したり、女子が好みそうな店を見て回ったりした。


 しかし、何の成果も得られなかった。


 俺は苦しんだ。

 苦しんで、苦しんで––––そのうちに、こんな苦しい思いをするならば、せめてこの恋を忘れたいと願った。


 ▽


 もう忘れてしまえ。


 きっと全て妄想だったんだ。




 それを何度も繰り返し――結局失敗した。


 ▽


 何故だ。

 何故、人間は忘れたいことを忘れることができない?


 知ることは不可逆で、一度知ってしまえば忘れる術がないだなんて!!!


 狂いそうだった。

 とっくに狂っているのかもしれなかった。


 ▽


 そんな時、俺のところにが現れた。


 ▽


 随分苦しんでますね。

 忘れてしまいたいなら、忘れさせてあげましょう。


 そう言って、そいつは優しく微笑んだ。


 胡散臭いやつだと思った。

 だが、その笑顔は、大好きだったあの子にどこか似ているような気がして……。


 ▽


 人間は不完全だ。

 人間は不自由だ。


 だから、俺はその時、人間をやめることを決意した。


 ▽


 こうして、俺は魔術を手に入れた。


 魔術なんてものがこの世に本当に存在するとは思わなかったが、彼女にまつわる出来事を思えば、大して不思議だとも思わなかった。


 そいつは、俺をアクティベートして、俺は魔術を行使できるようになった。

 忘却の魔術を使うには、大量の魔力を必要とし––––下手に使おうとすれば、すぐに「管理者」に見つかって処理されてしまうという。


 ▽


 管理者。

 ––––この世界を管理し、魔術の行使を禁ずる者。

 アドミニストレータ。

 上位者。


 ▽


 そんな存在が、同じ学校に潜伏しているのだと、そいつは言った。


「そいつが邪魔をしている間は、忘却の魔法陣は使えません。与えた魔術を使って、管理者を退ける必要があります」


 方法は任せる、という。

 俺に協力して、そいつにどんなメリットが有るのかと思ったが、キミのような恋する少年が傷つくのは忍びないからだ、とそいつは言った。


 ▽


 そいつは、ただ「ストゥルトゥス」とだけ名乗った。

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