3
拍手しながらゆっくりとオブジェに向かって歩み寄る男。
――美術教師、
いつもボロボロのグレーのスーツに黒いシャツを着た、神経質な男だ。
やたらと芸術について理屈っぽく語るこいつの授業が、俺は好きじゃない。
何が不満なのか、いつも不機嫌そうに眉に皺を寄せていて――だが今は、この狂乱の空気を心底楽しむように優しげな柔らかい笑顔を浮かべ、眼鏡の奥の細い目をさらに細めている。
吐き気がするほど慈愛に満ちた笑顔だった。
酷く場違いだった。
伊坂は哀れなオブジェの傍らに立ち、芝居がかった態度で、仰々しく両手を広げる。
「そう驚かないでくれよ。これはほんの挨拶みたいなものなのだから」
冷静そうに見えて、実は興奮しているのだろう。
歓喜を抑え込んだかのような上ずった声で、伊坂は皆を見回した。
「きっ、貴様ぁーーーっ! 何をしたかわかっとるかぁーーーっ!」
太田が怒鳴って、竹刀を片手に伊坂へ駆け寄った。
あわや太田が伊坂につかみかかるかと思えば、伊坂はフッと笑って、太田を無造作蹴っ飛ばした。
ボキボキ、と嫌な音を立てて、太田は壁際までふっとばされ、ドン! と大きな音を立てて壁に激突した。
軽い動作にしては異常なぶっ飛び方だった。
「「「「きゃあぁああああーーーー!!!」」」」
悲鳴が再始動した。
太田はといえば、白目を剥いて泡を吹き、意識を失って倒れている。
「何をしたかわかっとるか」って……お前だって何が起きてるかわかってねぇだろ。
もしかして偏見でなく本当に体育教師にはバカが多いのだろうか……いや、きっと太田が特別バカなだけなのだと信じたい。
皆は、ようやく「逃げる」の選択肢を手にしたようで、一斉に体育館の入場口へ殺到した。
他のドアに向かおうとした生徒もいたが、出口は入場口一箇所しかなかった。
しかし、ドアは開かなかった。
生徒たちがガタガタとドアを動かそうとするが、びくともしない。
どんなに乱暴に動かそうと、まるで樹脂で固まったように――今まさに体育館のど真ん中で爆散した少年のグロテスクな標本と同じように、ドアは空間に完全に固定されていている。
俺にはその様子に見覚えがあった。
「出して! 出してぇーーーっ!」
「鍵っ! 開いてるはずだぞ!!」
「びくともしねぇんだよ!?」
「開けて! ねぇっ! 開けてよっ!」
「何なんだよ!! なぁっ!!」
叫ぶ者、おしくらまんじゅうに弾き飛ばされる者、ドアに蹴りを入れる者、様々だ。
中には怪我を負っているものもいるが、誰もそれに気づかない――誰もが自分のことで精一杯だ。
恐慌状態の中、伊坂の声が響いた。
「静かにしたまえ」
――全員がピタリと黙った。
よく通る声だった。
高くもなく、低くもなく、そして強制的に頭に響くような声。
冷静を装った声で、伊坂は続ける。
「――世界は書き換えられた」
伊坂は歓喜に震えながら天を仰ぐ。
感極まった様子は、どう見ても隙だらけに見えたが、誰も伊坂を取り押さえようとはしなかった。
バカの太田は今も壁際で泡吹いて倒れている。
「そう、書き換えられたのだ。ここからは、我々の望む本当に自由な世界だ」
伊坂は優しげに微笑んで、あたりを見回した。
授業中にだって見たことがない、慈愛に満ちた表情で――気味が悪い。
コイツ、こんな顔できるやつだったのか。
「ヒッ」みたいな悲鳴が上がる。
いつもは威勢のいい不良達も、すくみ上がっていた。
「自由ッツ!」
伊坂は叫ぶ。
どんな仕組みなのか、その声は空間を震わせるほどよく響く。
この広い体育館で、異常なまでにはっきりと聞き取れる。
まるで強制的に認識させられるように。
「そう! 自由だ! 諸君は自由を知っているか!? 否!! 我々はずっと『世界』に閉じ込められていた!」
まるで劇場だ。
大袈裟な身振りがまるで板についていない――無様で見ていられない。
だが、芝居がかった態度のまま、伊坂は優雅にポーズを取る。
「開放だ! 『世界』からの開放! お仕着せの自由など何の価値があろうか! 本当の自由を我々はとうとう手に入れた! 世界は死に、新しい世界が来たッ! 我々の望む、真に自由な世界が!! 世界に隠されていた自由を強引に奪い返し、今! 我々は世界への復讐の時を迎えたッ!!」
誰もついていけない狂った舞台の上で、伊坂は高らかに語り続ける。
「諸君! 私の宣言を胸に刻み込みたまえ!!」
伊坂は高らかに宣言する。
「もはや我々は世界の傀儡ではない! 豪胆に、力強く、快楽、欲望、反逆のために立ち上がるのだ! 支配者を恐れ、こそこそ惨めに行使する紛い物の自由を吐き捨てよ! 恐れ知らずに、あらゆる手段を講じ、望む全てを一心不乱に実現せよ! 変革の最前線に立つ諸君らよ! 目撃せよ! 歓喜せよ! 謳え! あらゆる前時代的な知識、道徳、臆病さを軽蔑し、自由と変革を興奮と熱狂とともに受け入れろ!」
伊坂はなお一層高らかに謳う。
「もはや我々は眠る必要もなく、休息なく世界を変革し続けるだろう! あらゆる古きものを燃やし尽くし、過去を燃料とし、目にも止まらぬ変革の速度に熱狂せよ! スピードは光速を超え、すなわち時間すら我らを捕らえる檻になりえぬ! かつて我々を支配した法則を嘲笑え! 嘲笑せよ! あらゆる既成概念を叩き潰し、臆病に背を丸めた老人たちを破壊せよ!」
誰もが目を見開き、あるいは片目を瞑るように、恐る恐る、狂人の宣言を聴きながら、それを受け入れまいとしている。
誰も理解できない様子だ。
当然だろう。理解したくもないはずだ。
だというのに――残念なことに、非常に残念極まりないことに、俺だけは彼の言っていることがわかってしまう。
これ――過去の芸術宣言のオマージュだ。
しかも、酷く出来が悪い。
「隠されたものは一つ残さず全て
このくだらないバラエティ・ショウはいつまで続くのだろうか。
「エネルギーは持て余すほどに有り余っている! だましだまし様子を伺いながら生きる奴隷の目を覚まさせ、支配者の横っ面を張り倒せ! 使えば使うほどエネルギーは増大し、いつかこの宇宙を埋め尽くすだろう! 長続きしない興奮と快楽に一喜一憂する回し車の中のネズミどもを解放し、あらゆる枷を破壊し尽くし、永久に加速し続けよ! 増大し続ける興奮と快楽はもはや永久に終わることはない!」
吐き気がする。
「ああ、世界は書き換えられたのだッ! もはや何も、たとえ何者だろうと、私の変革の速度にはついてこれないッ! 世界の法則がなんだというのだ! 全て……全てが私の思うがままなのだよ! ほら……こんな風に!」
伊坂は爆散少年に手をかざした。
マジシャンがまじないをかけるような大げさな身振りだった。
すると。
「「「「え………!?」」」」
宙に浮いていた少年の血や破片が勢いよく一箇所に向かって集まり始める。
時間が巻き戻しになるように、もとの形に集まっていく。
安っぽい特撮みたいだった。
「アハハハハハハハハ!! アハハハハハハハハハハ!!」
伊坂が心底おかしそうに、高らかに哄笑した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます