時間と場所

 岡本信人に対する情報が李依には皆無だった。そもそも、クラスメイトに対して誰一人として、さほど情報など持ち合わせてはいないのだけれど、彼は別格である。クラスでは目立たないタイプである。とはいっても、李依のように誰とも話さないわけではない。誰とでも話すが、誰とも馴れ合わず、誰とも対立しない。人が人と接触を試みる場合、一定の確率で衝突が発生することは避けられない。一つの話題に対する自分の正義が相手の正義とは限らないからである。相手に話を合わせることは容易である。しかし、外れもある。相手の考えていることを100%理解できる人間などいないのだから。人と人が交われば必ず軋轢が生じる。それは善意によるものであっても、悪意によるものであっても。彼の周りではそれが全く起こらないのである。まるで空気のような存在。クラスの中の平均値。李依が目立たないという点において目立ってしまっているのに対し、信人は真の意味で目立たないタイプの生徒ということになる。そんな彼が、屋上のベンチに腰を掛け、はっきりとした存在感を放っている。


「高梨さん、来てくれたんだ」

「えっ、嘘っ!? ありえない……」


 その場に呆然と立ち尽くす李依に信人は決定的な一言を浴びせ掛ける。


「願い事、叶わなかったね」


 その言葉で完全に戦意を喪失した李依。信人は不敵な笑みを浮かべ、淡々と一方的に語り始めた。



時間:13年前(高梨李依 保育園年少 4歳)

場所:自宅

 明日は李依が待ちに待った親子遠足である。季節は5月の上旬。クラスの子どもたち全員と友達になれたと得意げに語り、母親に一人一人紹介するのだと無邪気にはりきっている。天候はというと、梅雨入り前だというのに、ここ数日はすっきりしない空模様が続いていた。


――明日、晴れたらいいのになぁ……


 李依は少し口を尖らせながらこう呟いた。


「李依ちゃん、もう諦めなさい」


 母親は少し呆れていた。今日は日曜日、保育園は休みである。李依は朝起きると、まず壁掛け液晶テレビの電源を入れる。4歳にしてテレビのリモコン操作を完璧にマスターしている。ニュース番組にチャンネルを合わせる。お目当ては天気予報である。その結果は明日の降水確率100%……、そして、あのセリフである。お昼の天気予報を見ても、夕方の天気予報を見ても。女性お天気キャスターでも。男性お天気キャスターでも。


 窓の外はどしゃ降りの雨。リュックサック、レジャーシート、帽子、ハンカチ……、それでも明日の準備に余念がない李依。ひとしきりして納得がいったのか、幼い彼女には少し大きめの三段のひのき階段を軽やかに伝って中二階のロフトへと昇っていった。


「お母さん、おやすみなさい」


 翌朝、李依はカーテンの隙間から差し込む強烈な日差しで目を覚ます。彼女はカーテンの裾をめくり顔をくっ付けて窓の外を覗き込む。見上げた空は雲ひとつない晴天である。


「お母さ――ん! 晴れたよ――! 早くお弁当作って――!」


 母親が気付くと彼女はまだ起きたばかりだというのに着替えを済ませ帽子までかぶっていた。



時間:9年前(高梨李依 小学校2年生 8歳)

場所:学校

 小学生の高梨李依は、委員や係と名の付くものにはとりあえず全てに手を挙げていた。典型的な目立ちたがり屋である。学級委員長は当然のように1年生からすべての学期を通して歴任し、係にいたっては一人一つというルールを無視して、生き物係、図書係、レク係と複数の係を掛け持ちしていた。そこまでは担任教師も生徒の自主性と自己表現力を育てるためと目をつぶっていたが、日直を毎日やりたいと言い出した時にはさすがに待ったがかかった。そんな李依が1年生のときからどうしてもなりたかった、でもなれなかったものがある。


――リレーの選手になりたいなぁ……


 これだけは、手を挙げるものではない。李依は運動があまり得意な方ではなかった。去年リレーの選手に選ばれなかったことが、相当悔しかったようで、それからコツコツと毎朝走り込みを欠かさなかった。その甲斐があってか今年はリレーの選手の補欠枠にどうにか手が届いたのである。


 友達のすみれは足が速い。もちろん、リレーの選手など一発合格で、いわゆるスポーツ万能というやつである。というよりも、小学生にして既に空手の黒帯を取得しているほどの規格外の運動神経の持ち主で、腹筋・腕立て・背筋を毎日500回とかいう冗談みたいなことをやってのけているのである。


「すみれ、どうしたの!? その怪我!?」


「昨日、自転車で転んじゃって……骨折だってさ。全治3ヶ月。リレー走れなくなっちゃった。李依、あとは、よろしく」


 左足をギブスでガチガチに固め、松葉杖で登校してくるすみれに痛々しさよりも先に力強さを感じる李依。と同時に友達として最低な考えが頭に思い浮かんでしまったことに罪悪感を拭えなかった。


――やった――、これですみれの代わりに私がリレーの選手に……

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