ラブレター

 私立坂の上高校2年、高梨李依は誰よりも早く教室のドアを開ける。毎朝必ずである。当たり前のように窓際の一番後ろの席に座る。1年の時からずっと同じ席である。席替えをしてもクラス替えをしても。着席するのと同時に本を開く。これといって特にお気に入りのジャンルがあるわけではない。彼女にとっては外界との接触を遮断するための一つの手段に過ぎない。そして、こう願うまでが朝のルーティーンである。


――誰も私に話しかけないで……


 李依がページをめくる音しか聞こえてこなかった教室に生徒が一人、また一人と入室する。徐々に活気を帯びていく。ドアの開閉、朝の挨拶、椅子の脚と床が擦れる音、小声でひそひそ内緒の話、冗談半分でふざけあう笑い声と怒鳴り声、様々な音が混じり合う。ホームルームの時間が近付き活気が騒音へと変わるころ、一人の男子生徒が李依のもとへ近づいてくる。


「その本面白い? いつも本読んでるよね。読書好きなの?」


 騒がしかった教室の空気が一瞬にして凍り付く。誰もが遠巻きに見ている。正確には現状の態勢を保ったまま見て見ぬふりで注目している。気付いていないのは李依だけである。


「………………………………」


 李依は高校に進学してからの1年間と数ヶ月、クラスメイトと会話したことが一度もなかった。とはいっても、彼女がクラスのいじめの対象になっているというわけではない。クラスメイトは話さないのではなく話せないのである。それは、近寄りがたい存在であるとか、人を寄せ付けない雰囲気があるとか、そんな簡単な言葉で片付けられるレベルをはるかに超えている。ただただ、単純に話したくても話しかけることができないのである。理由は分からない。クラスメイトからしてみれば、不気味としか言い表せない。李依の存在がではない。李依に話しかけることができないという事象がである。


「僕も、好きなんだよね――、読書。本っていいよね――、高梨さん」


 男子生徒の間の抜けたセリフが静まり返った教室に響き渡る。李依はようやく顔を上げた。男子生徒の存在に気付いたからではない。声がしたからという表現とも少し違う。単に音がする方を向いただけである。


「んっ? 僕? 岡本! 岡本信人おかもとのぶひと! ね、高梨さん」


 李依は後ろを振り返り、男子生徒の声の向かう先には自分を除けば窓しかないことを確認して、ようやく会話の対象者が自分であることを理解した。そもそも、このクラスに高梨は一人しかいないのだけれども。


「えっ、私? ありえない……」


 驚きの表情を隠せない李依。理解はできても納得がいかない。


「岡……、本……、君……?」


 初めて耳にした外国の言葉で意味が分からない風に聞き返す李依。


「ひどいなぁ――。傷つくわ――。1年生からずっと同じクラスじゃん」


 人を小馬鹿にするような口調で会話を続けようとする男子生徒。李依の心情を無神経に逆なでするような声のトーンである。


――何なのこの人、めんどくさい! バカなの! でも、私には関係ないわ。


 李依はこみ上げる怒りの感情を押し殺し、今度は冷静にはっきりとこう願って、タイトルも分からない手元の本に視線を戻した。


――岡本君が二度と私に話しかけてきませんように……



 李依は、誰よりも早く登校するが、それ以上に下校も早い。終業のチャイムが鳴る前に帰り支度を済ませ、鳴り始めたときには、すでに身体が教室から半分以上廊下に出ている。そして、鳴り終わったころに教室から見えるのは彼女の後姿だけである。ゆえに、昇降口で別の生徒と遭遇したことなど一度もない。いつものように、一番乗りで下駄箱に手を突っ込み上履きと靴を交換しようとしたそのときである。指の先に違和感を覚え、覗き込むとそこには、ラブレター? と呼ぶには似つかわしくない体裁の無造作にちぎられたノートの切れ端が置かれていた。まるで七夕の短冊のように。


「話したいことがあります。放課後、校舎の屋上で待ってます。 岡本信人」


――どういうこと? 会話がダメなら、手紙ならってこと? でも、結局、話したいって! やっぱりバカなの! でも、念のため……


 李依はこれで最後と言わんばかりに強く強くこう願った。


――岡本信人君が放課後、校舎の屋上に現れませんように……



 李依はひどく疲れていた。どういうことだろう。靴に持ち替えるはずだった右手が掴んでいるのは上履きのままである。気が付くと、教室に向けて引き返していた。下校する生徒たちとすれ違う。教室を一瞥し、急に走り出す彼女。自信がなかったわけではない。ただ、どうしても確かめずにはいられなかったのである。そのまま屋上への階段を駆け上がり、鉄製の重たい扉を勢いよく開け放った。

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