第29話 そして日常。あるいは一時の休息
(※本話で一区切りとなります。作者より)
戦場となったマンションは、クロウの念力によるシールドで音を遮り、レイラの『光使い』で虚像が映されていたので、その晩のうちは誰にも気づかれはしなかった。
翌朝、何の予兆も無く突然、崩壊していたマンションに街は騒然となり、さらにその現場に、このところの渦中の人、クリストファ・ロートリンゲンの無残な他殺死体が発見されたことで、大騒ぎになった。
その知らせは『あの"フェニックス"を倒した超能力犯罪者がこの国に居る』という事実を示しており、国中を震撼させた。
同時に、先般から世間を騒がせているスターズへ恨みを持ったテロリスト『
マスコミは『
様々な論議を呼んだが、正体不明のテロリストが相手では、いずれも憶測の域を出なかった。
国中の総力を挙げて行われた捜査も、いくつかの小規模な犯罪者集団の検挙に繋がりはしたが、ついに決定的なものを突き止めるには至らなかった。
真相を知るものは口を閉ざしたまま、1人は国を出て、1人は日常へ戻った。
「ねえ、このマンションってロウがこんなに壊したの?」
ケンタロウの事務所でコーヒーを飲みながらテレビを見ていたレインが問いかける。
「いや、ほとんどクリストファだよ」
ソファのレインの隣に座るケンタロウが答える。
「そう……」
「? うん」
(なぜかしら? 他の女の匂いがするわ……)
レインは恐ろしく鋭敏な女の勘を持っていた。
眉根を寄せてケンタロウの顔を見つめるレイン。
「レイン、何か勘違いしてない?」
「いいえ。きっと、してないわ」
首都から離れたこの古都では、そんな世間の喧騒も他人事のまま、静かな時間が流れていく。
休養明けの弁護士は母から持たされたアップルパイに癒され、家政婦は今日も通ってきて、少しだけ脂分多めの食事を作っている。週に1度は音楽教師がやってきて、誰にも分からないようにため息をつく。
「ミス・スミスの調子はどう?」
「ええ、悪くなさそうよ」
「戻ってきたら窮屈になった?」
「ううん。最近はあまりうるさいことを言わなくなったし、食事もほとんど別々よ?」
「そうなのかい?」
「ええ、アボットさんの料理はこってりし過ぎて胃にもたれるって言ってたわ」
「内臓が弱いのかな」
「そうかもね」
「ピアノの調子はどう?」
「……ピアノの話はしたくないわ」
「僕はけっこう、レインのピアノ、好きだけどな」
「……」
そっぽを向いたままのレインに苦笑しながら、窓から古都の街並みを眺める。
この奥まったビルの2階の窓から見える範囲はごくわずかだが、背の高いビルと曇った空を背に、低く飛ぶ小鳥が見える。
スズメより一回り大きな茶色い鳥は、ツグミだろうか?
「……テロリストの『烏』さんは今後どうするのかしら?」
窓を向いたケンタロウにレインが声を掛ける。
「……どうだろう。標的が居なくなってしまったからね」
ケンタロウは曇った空を見上げながら、国外へ出てしまった最後の標的について考える。
(……レイラ、君が本当に僕たちの仇なのか、ずっと考えていた。君と再会した、モーガンを殺した夜から、ずっと)
(僕たちが誘い出された10年前のあの夜、君があの場に居て連中に協力していたのは間違いない。……けれど僕たちが苛まれている間、君の声だけは聞こえなかった)
(モーガンを殺した夜、再会した君は……何故だろうな、表情や言葉とは裏腹に、泣いているように見えた)
ちらり、と風に舞う雪が窓の外に見える。
ゆっくりと、少しずつ、儚い氷の結晶が空から舞い降りる。
(クリストファが死んだあの夜、君を殺すと言った時の、瞬きの間だけ見えた、君の安心したような表情。きっと君は……)
(僕の復讐は、ひょっとしたら、もう……)
(だが、それでも、僕はレイラを)
窓の外の雪は少しずつ、少しずつ、古都を白く染め上げていく。
ケンタロウが終わりの見えない思考を打ち切り顔を窓から室内に向けると、淡い透明感のある笑みを浮かべたレインが、正面から向き合う形で、膝に乗ってきた。
「ロウ、これからは私の護衛に集中してくれる?」
「……付き合いがあってね。合間に探偵業の依頼も受けていいかい?」
「うーん。少しだけなら我慢してあげる」
レインは正面から、自身の顔をケンタロウの顔へ近づける。
「私だけを見て。浮気なんて、ちょっとしか許さないんだから」
ケンタロウの頬を両の手の平で挟み、その目を覗き込むレイン。
「ちょっとはいいんだ?」
「私の好きな人がモテないわけないもの」
そういうレインは、少しだけ口を尖らせる。
「でも、ちょっとだけよ。私が泣き虫なの知ってるでしょう? あんまり私を泣かせないでね?」
ケンタロウの脳裏に、初めて会った時に見た、レインの泣き笑いの表情が浮かぶ。
笑っていても涙を流す心の脆さを想う。そうして、今もまた。
美しい笑顔を浮かべた少女は、笑ったまま静かに涙を流す。
この泣き虫な少女を独りにしてはならない。
このあまりにも傷つきすぎた、自身を穢れていると信じ込んだ無垢な魂を慰める方法を、ケンタロウは1つしか知らない。
それが法にも、正義にも、倫理にも、背を向ける行為でも。
少女は初恋の悪魔に縋りつく。全身全霊をもって。溺れたものが必死で足掻くように。
愛も、依存も、同情も、すべて一緒くたで構わない。
それらを完全に定義できる人間が居ないなら、それらはぜんぶ同じでも構わない。
レインの涙に濡れた唇が、そっとケンタロウの唇へ近づく。
「愛してるわ。何があっても、絶対離さない」
ペンドルトン子爵令嬢は、今日も探偵に愛を囁く。
ヴィランを愛する穢れ姫 広晴 @JouleGr
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