ヘルエンジェル

斑鳩睡蓮

ep.000 暗殺人形

 ローデンハイム帝国とグラトニア共和国の戦争が始まって幾星霜。理由すらも忘れ果て、憎しみが憎しみを呼ぶ終わりなき戦場が広がっていた。


***


 華奢な肩に羽織られた白い軍服は翻る。

 同時に赤茶の髪もふわりと風をはらんだ。


 少女は殺風景な白い廊下を静かに歩いていた。彼女から伝わる音は無い。音という音が少女を避けているような錯覚さえも覚える。


 正確に、軍靴は歩みを刻む。


 軍事施設の無骨な照明が瞬いた。少女はそっと顔を上げる。その弾みで少女の顔は露わになった。


 少女を一言で形容すれば、誰も口を揃えてこう言うだろう。


『天使』と。


 陶磁器のような白い肌、赤みを帯びた琥珀色の瞳に、スラリとした身体つき。非の打ち所のない、冷たい美しさを秘めた完璧な少女だ。まだ少女の顔つきがどことなくあどけない所を見れば、今以上に彼女は美しくなるのだろうと予想もつく。


 だが、同時に人は彼女に違和感を覚える筈だ。


 少女の端正な顔は何一つ感情を映さない、人形のようなものだった。実際、感情そのものを持たないのかもしれない。


 ただ、少女には必要がなかった。自分の存在意義が感情を動かすことではないと理解していた。


 少女に求められているのは、忠実に命令を遂行することだけ。それ以外のものは全て、少女には必要のないものだ。


 軽く爪先を動かして進行方向を変える。

 向かう場所に人の気配はない。


 ごく自然な動作で木の扉を開けた少女は、するりと中に入り込んだ。外の薄寒い空気と違い、ぬるりとした生暖かい空気感に、微かに眉を動かす。夜に慣れた瞳に映るのは彼女の標的ターゲットの部屋だった。


 無造作に脱ぎ捨てられた白色の軍服が金をあしらった椅子に引っかかっている。報告書が木造りのテーブルに散乱し、空いた酒の瓶が上に転がっていた。


 それらを一瞥した少女は、顔を動かした。微かな空気がゆっくりと吐き出されて吸われる気配。だらしなく出た腹が膨らんでしぼむ。


 ふ、と小さく息を吐き、少女は小型の拳銃を男の頭部に押し当てた。


 パンッ、という小さくくぐもった発砲音。


 男の頭部がぐらりと揺れて呼吸が止まる。彼に訪れるのは永遠の沈黙だ。


 共和国軍人の呆気ない事切れ。


 元々少女がここにやって来たのは、この陸軍少尉が基地の外から出てこないのが理由だった。外に出てくる人間なら、少女ではなく狙撃手スナイパーが彼の命を奪っていた。

 あまりにも保身を優先させる臆病な男に唯一幸せがあったとすれば、それは少女に死を与えられたことだろう。美しい死神に優しく静かな永遠の眠りを痛みなく与えられたのだから。


「任務完了」


 少女の唇が言葉を紡ぐ。白基調の軍服をもう一度翻し、男の死骸に背を向ける。


 行きとほとんど同じだが、少し軽やかな足取りで少女は廊下を歩く。


 静かすぎる。


 耳に痛いほどの静けさの中に少女は異常を感じ取った。足を止めて目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます。


 彼らと少女がお互いの存在を知覚したのは同時だった。


 白の軍服の男と小柄な少女が交差する。


 赤茶の髪が舞う。黒いを男の眉間に据える。


 撃つ。


 そのままの勢いを利用して少女は頭部を狙った銃弾を避けて、壁を蹴った。高く跳びながら、機械のように冷静に銃口をもう一人に向ける。地面を穿たれた弾痕は無視。男を撃ち抜いて、さらにもう一人。


 頭に入れた逃走経路を反芻し、少女は駆ける。滑り込むのは、地下通路。通気口の格子を押し開け、中に躊躇わずに飛び込んだ。


 暗闇の中を真っ直ぐ駆け抜けると、空気の流れが変わった。ここから外になる。夜の黒の中で目立つ共和国の軍服を脱ぎ捨て、少女は黒く姿を変える。


 少女を監視していた人影があったことを少女は知らない。


「初任務でII級軍事施設か……。異常だな」


 銀色の髪に藍色の瞳をした男、いや少年は呟いた。耳に手を当てて、通信機器を作動させる。


『任務完了。暗殺人形の状態は良好だ。これより本部に帰投する』


 そう口にした少年の顔には自嘲の笑みが微かに浮かんでいた。



 二人が出会うのはまた少し先の話だ。


 少女は帝国の《死天使ヘルエンジェル》として、少年は共和国の《死神グリムリーパー》として、月の下で殺し合うために運命は二人を引き会わせた。


 赤茶の髪に琥珀色の瞳。この世のものとは思えない造形をした暗殺人形は、銀色の髪に藍色の瞳をしたやはり美しい青年を見る。がらんどうの瞳で彼を見つめると、青年は淡く微笑んだ。




「──ナタリア」

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