叶わぬ想いと蕎麦
草薙は「また来るかも」と弓立に告げ、面会室を出て行った。
一息つく間も無く刑務官に連れられ、また弓立は独房に入れられる。
三畳程の空間に、最低限生活に必要な物が設置され、天井に取り付けられた監視カメラが主人の帰りを待ちわびていたと言わんばかりに、彼女の方へ向く。
備え付けの机の上にあったはずの内職の道具は片付けられていた。
弓立は部屋に差し込む日の高さから時刻を推察し、昼食の時間だからと判断した。
「4771番。面会時に言っていた手紙を提出しろ」
鉄格子越しに刑務官が指示し、それに従いまとめていた手紙の束から目的の物だけを抜き取り、食事受け取り口から差し出す。
「これで全部か」
「はい」
「分かった。これが終わったら、昼食の配膳をする。準備しておけ」
「はい」
刑務官がその場から去ると同時に、弓立は草薙との面会を回想しだした。
自身を崇める存在や、そんな誰かが作ったであろうサイトも気になったが、彼女が個人的に気になっていたのは。
(内心を他人に話したのは、いつぶりだろう)
そんな事実だった。別段、草薙と弓立は仲良くは無かった。ただの同僚、配属年数の差による先輩後輩の関係だったが、それ以外には特にない。
仕事の話以外には世間話が三・四回。辛い話を簡単に話せる間柄ではないのだ。
けれど、今回。テロ事件の取り調べ以来会っていない同僚に、自然と弱い内心を打ち明けられた。
それが彼女にとって不思議だった。
それほど、私は誰かに打ち明けたかったのか。彼女は自分の弱さの本質を思い知った気がした。
逆に弓立は、面会に来る腹違いの姉を前にして弱音を吐かない事にしている。
何故なら、弓立涼子の中で斎藤柳子と斎藤守は純粋な被害者だったからだ。加害者である自身は弱音を吐き、寄り添っていい存在ではない。
犯した罪を徹底的に責め続ける。死んで意識を失うまで、ずっと。
心に痛みを与え続けるのが生きる意味となっている。
最低でも痛みを忘れていた十年分の痛みを、味わわなければならない。
それが死刑執行まで出来る唯一の償いだと、弓立は考えた。
死ぬ瞬間まで、自分を責め、他人の為に働く。
(……それしか、私には出来ない)
僅かに青空が望める外を見て、ひとりごちる。
「人間、無力なものなんですね。……赤沼さん」
その声は誰に聞かれるでもなく、壁に吸い込まれて行った。
石川は桜田門から東京メトロに乗り、有楽町からJR、浜松町からモノレールと、面倒臭い乗り換えをしながら大井競馬場前駅に降り立った。
入場料を払い、競馬場に入る。
レースが始まる少し前のようで、周囲はにわかに騒がしい。
うるさいのは石川は苦手だったが、聞き耳を立てられるよりマシと思う事にした。
目的の人物は
「……後藤」
石川が男の名を呼びながら隣に腰掛けた。
「あれ、石川さん? 公務員は勤務時間内じゃないの?」
名を呼ばれた男――後藤は、飄々とした態度で隣に座った男を見た。
「生憎と仕事でな。馬券は買っちゃいねぇよ」
「真面目だこと。黙ってればバレないのに」
「誰かさんと違って、簡単にホイホイと辞められないんでね」
「酷い奴だ。公務員の風上にも置けないね」
石川の皮肉を柳に風と受け流した後藤は、スチロールの椀に残った出汁を飲み下す。
この後藤という男。何処か掴みどころの無い奴だが、探偵事務所という名の情報屋を営んでいる。
しかも前職は警察庁警備局警備企画課。かつてはチヨダ、今はゼロと呼ばれている情報収集のエキスパートだった。
何故そんな男がこうして蕎麦片手に競馬に勤しんでいるのか、それには長い長い昔話をしなければならない。
だが、それらのモノローグを出走のラッパの音が吹き飛ばし、周囲の熱狂から切り取られたように石川と後藤の周辺は冷え切っていた。
「……それで、ご用件は?」
――
「ここ数年の中国人の動向が知りたい」
「外事課に頼めば?」
「テメェが言うか。元チヨダが」
「中国人って言っても、幅広いよ。マフィアから不法滞在者。華僑からパチ屋まで」
「なんでもいい。怪しい者全部の情報だ」
「高くつくよ~」
後藤は嫌らしい笑みを浮かべたが。
「二○○○年十二月。敦賀沖。北の瀬取り船」
石川が発したその単語群に後藤はビクリと肩をすくめる。
「なんのこ――」
はぐらかそうとした後藤だが、冷めきった石川の視線に観念した。
「参った。……因みに、なんで知ってるの?」
「企業秘密だ」
「そんな殺生な。後学の為に教えてよ~頼むよ~」
「そこまで言うなら教えてやろう」
その言葉に後藤はパッと表情を明るくさせる。
「ありがとう。それじゃあ、お返しはいずれ精神的に」
「誤魔化すんじゃねぇ。依頼料安くしやがれ」
「……はい」
後藤が賭けた馬が負けたので、払った賭け金を石川が払う事で交渉は成立した。
樋口一葉一枚だった。
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