第四四話 腐るとは、すなわち微生物による分解作用の結果である

 翌日の午前、さいわいな事に突発的な衝突など発生しなかったのか、室内の窓からまぶたに差し込む陽光を感じて、億劫おっくうではあれども昔日せきじつの夢より目を覚ます。


(無駄に懐かしくて、困りものだな)


 幼い頃に捨てられたとはえ、母に抱き締められた暖かい記憶も残っており、結局は嫌いになることもできなかったが、久し振りに思い出した理由が分からない。


 徐々に意識が浮揚ふようするにつれ、素肌にまとわり付く不可解な熱源を感じ取り、上半身を起しながら見遣みやれば着崩れた戦闘用ドレスより、白い胸元や下着をのぞかせるアリエルが添い寝していた。


「お前のせいか……」

「ん、うぅ」


 俺の動きで漏れた声を聞き流して、先に起床して身なりを整えていた吸血鬼らの一人、筋骨隆々な飛兵隊の副長マーカスに無言の視線を投げる。


「おはよう御座います、旦那。えっと… 昨晩はあねさんを軽くあしらっていたじゃないですか? なんかしゃくさわったらしく、朝から揶揄からかってやろうと考えたようです」


「で、その本人は熟睡して機をいっしたと?」

「ははっ、否定はできませんね」


 破顔した副長は無頼漢な見掛けによらず、細やかな気配りを欠かさない性質たちなので、気持ち良さげに眠る騎士令嬢をさまたげないよう小声で返してきた。


 他の者達もなるべく音を立てずに装備を整え、未だ眠りの中にいる上官を気遣っていたので、それにならって黙々と支度したくを済ませる。


 ざっと常駐兵用の大部屋を見渡せば起きている方が少ないものの、休息も仕事の内なので無理に目覚めさせる必要はない。


(まぁ、俺達にはもう一仕事あるからな)


 ゆえに牢獄を守備する抵抗勢力の指揮は、人狼公の娘ペトラと麾下の猟兵隊に任せており、北西領出身の魔人や屍鬼らも預けていた。


 彼女の組んだ輪番りんばん通りなら、現在は抵抗勢力の獣人達が各所の狭間ざまや防衛塔からクロスボウの狙いを付け、外堀の先に陣取るベルクスの首都駐留軍を牽制けんせいしているはずだ。


 なお、跳ね橋さえ上げてしまえば簡単に攻め落とせない代わり、食糧含む物資の搬入もままならないので、こちらの自滅を待つ相手方と睨み合っている最中さなかだろう。


「良い囮になること請け合い… ッ!?」

「んっ… うぁ…」


 思考をまとめつつ立ち上がろうとした瞬間、身体を支える為に突いた片手の掌が横臥おうがしているアリエルの右乳を鷲掴み、艶めかしい嬌声を上げさせた。


 守備隊向けの宿泊設備にいた吸血鬼らががんそろえて、やや侮蔑交じりの胡乱うろんな双眸で見詰めてくる。


「朝っぱらから、何やっているんですか、クラウド卿……」

「寝ている淑女レディの胸を揉むのは如何かと思います」


「待て、不可抗力だと弁明させてくれ」


 眠り姫本人はさておき、飛兵隊の面々に対して黒髪緋眼の騎士が言い訳など並べていた同時刻…… とある河川敷では、北西領軍の本隊が長閑のどかな時間を過ごしていた。




 鉄鍋を焚火の上に載せて、コボルト達が獲ってきた川魚を煮付けている老執事レイノルドの背中へ向け、組み立て式の椅子に腰掛けて『異界カダスの書』の一冊を読んでいた吸血姫が言葉を零す。


「今日も平穏ね。相変わらず、対岸のベルクス王国軍に動きは無いの?」


「はい、野生動物に擬態できる獣人兵を数名渡河させ、随時監視などしていますが、部隊を動かすような気配はありません」


 若干、応じた声に気難しい色が混じるのは軽々けいけいに物事を判断しない性分の現れであり、頼もしさを感じたエルザは静かに微笑んだ。


 されども 『敵方が河底に効果的な罠を仕掛けている以上、態々わざわざ迂回してまで攻めてくる可能性は低い』と、新参の三騎士はうそぶく。


「“流動的な情勢下では不用意な損耗を避けるため、膠着状態に甘んじる” ね……」

「あの若造が言った通り、適度な緊張を維持したまま、英気を養っているようです」


 単に日和ひよっているのでは無く、有事に備えているのだと釘を刺した忠臣に吸血姫が頷き、自領の軍勢も気をゆるませないように示唆しさする。


 ただ、軍事面にいては素人に過ぎないため、彼女に言及できることは少なく、その本領は別方向に発揮されていた。


「…… しかし、硝子ガラス瓶による保存で食料の日持ちが延びた記憶はありませんが、エルザ様がおっしゃるなら事実なのでしょう」


「ふふっ、そのままだと無理だけど、密封した状態で瓶ごと煮沸するから大丈夫。以前、腐敗は微生物に由来する分解の結果だって話したわよね? 加熱して死滅させつつ、空気も抜くことで腐りがたくなるの」


 所謂いわゆる異界カダスの列強フランスを治める皇帝ナポレオン・ボナパルトが遠征時の糧食保存に悩み、多額の懸賞金を掛けてまで開発させた缶詰の原型、である。


「こちらの加工技術だと缶詰を作るのはシーリングの部分で不安だから、今回は手軽な瓶の方を採用したの」


「左様で御座いますか」


 語られた仔細しさいを全て理解できずとも、主が上機嫌ならおのれ蒙昧もうまいさなど些事さじだと切り捨て、レイノルドは仕上がった川魚の煮込み料理を幾つかの瓶に詰めた。


「あ、煮沸時に気化膨張するから、コルクの栓は緩めにね」

「承知しました」


 粛々しゅくしゅくと作業を進め、鉄鍋に投じた瓶を湯煎ゆせんすること半刻、取り出して栓を堅く締め直す。


 後は暫く寝かせて、ある程度の日数が経過した頃合いで試食するわけだが……

保存食の提案者であるエルザの試食は安全性の観点から止められてしまう。


「むぅ~、どうしてもダメ? (上目遣い)」

「当然です、体調を崩されては適いません」


「ん、分かったわ。少し残念だけど開栓時期をずらしながら、何ヶ月持つのか検証していきましょう♪」


 戦場でも我が道をく吸血姫の学士は瓶詰を両手で捧げ持ち、にんまりと嬉しそうに相好を崩した。


 やがて異界カダス由来の保存法が普及するに伴い、ディガル部族国では四季を問わず様々な料理が人々に楽しまれていくものの、それはまだ先の話である。

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